【189】はじめてのレター編⑥ 〜洞窟の中、はじめての夜〜
──ゴロゴロゴロ……。
遠く、山の向こうで雷鳴が転がった。
黒紫の霧が揺らぎ、重く淀んだ空気が森の奥を満たす。
どす黒い蛙の魔物の群れが、ゲコ……ゲコ……と低く鳴きながらアーシスとナーベを囲んでいた。
無数の光る瞳が、濁った沼の反射でぼんやりと光る。
「……っ、く……はぁ、はぁ……」
アーシスは苦しげに息を吐きながら、ナーベの腕をそっと離れた。
折れた剣を拾い上げようとするが、脚に力が入らず、片膝をつく。
「……アーシス」
「だ、大丈夫だ……っ」
青紫に染まった顔で笑うアーシスに、ナーベの喉が詰まる。
だが、敵は待ってくれない。
蛙たちはじりじりと間合いを詰めていた。
ナーベは唇を噛み、目を細める。
──やるしかない。
その時、
「むにゃ?」
アーシスのポーチからにゃんぴんがヒョコっと顔を出した。
「にゃんぴん……さん!」
「んにゃ〜、どういう状況にゃ?」
にゃんぴんが首を傾げた瞬間──ドサッ、とアーシスの身体が崩れ落ちた。
「にゃっ!?」
反射的にポーチから飛び出したにゃんぴんは、地を蹴るように空中へ跳ね上がる。
「……アーシスは、毒を受けています」
ナーベの声に、にゃんぴんの瞳が鋭く光った。
「んにゃ〜、これは、治療が必要にゃ」
ふわりと宙を漂いながら、周囲を見回す。
沼地の蛙たちがゲコゲコと鳴き、泡立つ泥の中を這いずり寄ってくる。
どす黒い皮膚、濁った舌、牙のような歯──。
にゃんぴんは、尻尾を高く掲げ、叫んだ。
「いったん、引くにゃ!!」
「えっ!?」
次の瞬間、にゃんぴんの毛が逆立つ。
空間が歪み、足元に魔法陣が広がる。
「《ルーチェ》にゃ!!」
ピカッ!!
森の中を激しい閃光が弾けた。
蛙たちは一斉に鳴き叫び、視界を焼かれてのたうち回る。
混乱の中、ナーベの目の前に浮かぶにゃんぴん。
──ふさっ。
ナーベの視界はふわふわの尻尾で守られていた。
「こっちにゃ!」
「……はいっ!」
ナーベはアーシスの腕を抱え、にゃんぴんの導く方向へ駆け出した。
暗い森を抜け、岩壁の影──小さな洞窟へと飛び込む。
◇ ◇ ◇
洞窟の中。
外の喧騒が遠のき、静寂が満ちる。
にゃんぴんとナーベは入口を石で塞ぎ、隙間から蛙の群れを見張っていた。
まだこちらには気づいていないようだ。
にゃんぴんの掌から放たれた光の塊が、音もなく天井へと昇り、洞窟内を照らす。
「……あれが、凶暴化した魔物の正体……ですか」
ナーベが呟いた。
「もともと毒を持つ蛙が、沼の毒を吸って変異したにゃ。あの沼、毒とマナが混ざってるにゃ。放っとくと……やばいにゃ」
にゃんぴんはアーシスの傍らに寄り、真剣な眼差しを向けた。
「治療します」
ナーベが杖を握りしめ、詠唱を始める。
「《アンチドートヒール》──!」
淡い緑光がアーシスの身体を包み込む。
だが、反応は鈍い。
血色が一瞬戻るも、すぐに青紫へと逆戻り。
「そんな……《アンチドートヒール》!」
もう一度、光を放つ──しかし、反応は変わらない。
「空気が……濃すぎるにゃ」
にゃんぴんの声が低く響いた。
洞窟の中の空気がピリピリと震える。
焦りと絶望が入り混じる中、ナーベは小さく首を振った。
「……あきらめません」
壺を手に取り、再び詠唱をはじめる。
「《アンチドートヒール》!」
今度はアーシスではなく、壺の中へと光を注ぎ込む。
壺の内側で光が渦巻き、ゆらめく。
「にゃんぴんさんも、お願いします!」
「……了解にゃ!」
にゃんぴんも両手を広げ、光を放つ。
二つの光が混じり合い、壺へと吸収されていく。
壺の中で魔法が共鳴し、淡い光の球が生まれる。
ナーベは息を切らしながら、それを見つめた。
「……はぁ、はぁ……いきます」
壺を持ち上げ、唇を寄せる。
ごくり──魔力が体内に流れ込み、脈が跳ねる。
ナーベの身体が淡く輝いた。
カラン──。
壺を置くと、ナーベはアーシスを抱き寄せ、静かに口づけを交わす。
その瞬間、光がふたりを包む。
ナーベのマナが、アーシスの中へと流れ込んでいく。
「……んっ」
そっと唇が離れる。
洞窟の中に、淡い光の粒が漂った。
やがて──
アーシスの青紫の肌が、じょじょに血色を取り戻していく。
「ん……うん……」
うっすらと目を開いたアーシスを見て、ナーベの瞳が潤んだ。
「どうやら、効いたみたいにゃ。もう大丈夫にゃ」
「……よかっ、た……」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに──
ゲコッ……ゲコッ……。
背後の岩壁から、あの声がした。
「……!!」
洞窟の入口、塞いだ石の隙間の向こう。
いくつもの目が、ぎらりと光っている。
「……見つかったにゃ」
ナーベはふらつきながら立ち上がり、詠唱を始めようとする。
だが、その手をにゃんぴんが抑えた。
「……なにを」
「無理しちゃダメにゃ。……マナ切れも場合によっては命に関わるにゃ」
「……でも、このままじゃ」
アーシスはまだ完全には目覚めていない。
マナがほとんど残っていないナーベの手は震え、にゃんぴんの尻尾が彼女の手を包んだ。
ミシ、ミシ……。
防壁が音を立て、石の隙間から闇が覗く。
ナーベの頬を汗が伝う。
蛙たちの合唱が、再び近づいてくる。
しかし、にゃんぴんはナーベを見て微笑んだ。
「大丈夫にゃ」
「……えっ?」
次の瞬間──
洞窟の外で閃光が走った。
夜の森を貫くような白光が弾け、空気が一瞬止まる。
防壁の隙間から、ナーベとにゃんぴんの目にもその光が届く。
静寂。
──先ほどまで響いていた蛙の鳴き声が、ぴたりと途絶えた。
「な……何が……」
呆然とつぶやくナーベの視線の先で、石の防壁がガラガラと崩れ落ちていく。
その向こうに、何かが──光の中から、ゆっくりと姿を現した。
(つづく)




