【188】はじめてのレター編⑤ 〜ヤトソ山脈の異変〜
──ヤトソ山脈。
果てなく連なる峰々が、雲海の上に背を並べていた。
風は冷たく、どこか鉄の匂いを含んでいる。
「こちら、ですね」
地図を手にしたナーベが、山道の分岐を指さす。
「ん〜……ニメタス村はあっちだよなぁ、……けっこう遠いな。しゃあない、帰りにするか」
アーシスは地図を覗き込みながら、手綱を軽く叩いた。
目的の場所へと馬車を走らせる。
道は次第に傾斜を増し、車輪が軋む音が山々に反響する。
パッカ、パッカ──。
深い木々が生い茂る山道の奥へと、二人を乗せた馬車は進んでいった。
上空にはいつの間にか、薄墨のような雲が垂れこめていた。
陽光が遮られ、森の緑が灰色を帯びて見える。
「……なんだか、この森……変だな」
アーシスは眉をひそめる。
鳥の声も、風のざわめきもない。ただ、湿った風が耳元をすり抜けた。
「……まもなく、目的のエリアに入ります」
ナーベの声も低く響く。
やがて道幅は細くなり、馬車が進めなくなる。
二人は荷を背負い、歩いて森の中へ足を踏み入れた。
木々の間から差す光は弱く、空気はひどく重い。
──パキッ。
足元の枝を踏む音さえ、不吉な合図に聞こえる。
「……あそこ、何か……」
ナーベは遠くを見つめ、指を指した。
木々の奥、微かに黒紫の霧が漂っていた。
沸き立つようにゆらめく霧が、まるで森の呼吸のように脈動している。
「!!……黒紫のマナか!?」
「……いえ、まだわかりません。……ただ、普通ではないのは確かです」
アーシスとナーベは視線を交わし、無言で頷き合った。
「行きましょう」
「ああ」
◇ ◇ ◇
森の奥へ踏み込むほどに、霧は濃く、空気はねっとりと肌にまとわりつく。
木の根は湿り、腐葉土の匂いが濃密に漂う。
足元を覆う黒紫の霞が、まるで生き物のように流れていた。
やがて──視界の先に、木々に囲まれた“沼地”が現れた。 濁った水面から、ブク……ブク……と泡が湧き、破裂するたびに黒い霧を吐き出す。
沼の奥は岩壁に囲まれ、逃げ場のない閉ざされた空間。
「……これは」
ナーベが呟いた、その時──
ズシャン!!
上空から、影が落ちてきた。
「危ない!!」
アーシスが反射的にナーベを庇う。
獣の爪がアーシスの肩を掠め、火花のような痛みが走る。
すぐさま折れた剣を振り抜き、飛びかかってきた魔物を両断した。
それは、両腕に羽を生やした巨大な蛙。
どす黒い体液を撒き散らしながら、断末魔もなく煙となって消えた。
「あ、ありがとうございま……!」
ナーベはアーシスの肩口の傷に気づく。
「ん?ああ、かすり傷だよ」
アーシスは軽く笑って見せ、手の甲で血を拭った。
「それより、あの沼から霧が出てるみたいだな。行ってみよう」
「……ええ」
◇ ◇ ◇
ブク……ブク……。
沼はどす黒く濁り、人の影を映さない。
時折、泡が破裂しては黒紫のモヤがゆっくりと空へ昇っていく。
あたりには植物すら生えず、空気は淀みきっていた。
アーシスとナーベは沼の縁に立ち、その光景を見つめる。
「これは……マナでは、ない?」
アーシスが呟いた。
「……ええ」
頷いたナーベはしばらく考え込む。
すると、ふと背中に温もりが触れた。
ドクン──。
心臓が一拍、早く跳ねる。
ナーベの背後から、アーシスの体温が伝わっていた。
「ア、ア、ア、アーシス、何を……」
声が震える。視界の端が霞む。
頬が、首筋まで熱くなる。
考えがまとまらない。
スッ──。
「……!?」
アーシスの頬が、ナーベの首筋に触れる。
「ア、アーシス……」
「…………はぁ……はぁ」
荒い息が、耳元で漏れる。
「……!!」
ナーベは慌てて振り返る。
「こ、これは……」
アーシスの顔は青紫に変色し、瞳が焦点を失っていた。
「……毒」
アーシスを抱き留めながら、ナーベはすぐに詠唱に入る、が──
気づけば、周囲に何かの気配が集まっていた。
ゲコ、ゲコ……。
沼の中から、複数の影が浮かび上がる。
ぬるりと泥を舐めるように姿を現したのは、あの蛙と同じ種──
だが一回り大きく、皮膚は毒々しい黒に染まっていた。
「毒蛙……やっかいですね」
一筋の汗がナーベの頬を伝う。
蛙たちは、ゲコ、と声を上げながら、沼の泥を飲み込み、ゲポ、とゲップをしている。
「はぁ、はぁ……ナーベ……俺を、置いてい、け……」
アーシスが力なくつぶやき、腕が垂れる。
「そんなこと、できるはずが……」
ナーベは首を横に振り、アーシスを抱き寄せる。
ゲコ、ゲコ、ゲコ……。
黒紫の霧が沼から立ち上り、蛙の群れの間を這う。
森の奥で、どこか遠くの雷鳴のような音が鳴り響いた。
風が止み、空気が凍る。
その静寂の中で、蛙たちの合唱だけが、不気味にこだました。
(つづく)




