魔窟の籠城戦
「エマーユ!」
名を呼ばれただけだ。だが彼女は小さくうなずき、彼が差し出すダガーに攻撃強化の魔法をかけた。
「エルフの魔法で、土蜘蛛の結界に物理障壁の重ね掛けはできないか?」
フォレストスパイダーがこちらに向けて悠然と歩いてくる。キースの視線は、そいつの背後に据えられていた。そこでは別の化け蜘蛛どもが、仲間が開けた穴を利用せんと殺到している。
「できる。でもわずかな時間稼ぎ」
短く答えながらも物理障壁の魔法を放つ。すると、障壁の向こうにいた蜘蛛のうち、脚の先端を突っ込んでいた一匹が激しくもがきだした。突如塞がった障壁に脚を挟まれたのだ。やがてその目が妖しくも赤い光を放つ。
「いやん、怒ってる」
「余裕あるな、エマーユ」
「あるわけ」
ないでしょ、と続けた声は、幾つもの棒が床に散らばる音にかき消された。キースがブラインドの紐をダガーで切ったのだ。
窓のそばまで迫っていた化け蜘蛛は脚を止め、警戒するように左右に身体を揺らす。
「ブラインドの棒切れだ。二〇本ある。魔法で貫通属性を与えて欲しいんだが……、まだいけるか?」
「任せて。あたしエルフよ」
微笑んでみせる彼女の瞳を、キースは気遣うように覗き込む。
彼は知っている。エルフが体内に宿す魔力量の平均値は人間のそれを数倍上回る。魔法効果への変換効率がいいので、実質的な差はもっと大きい。
それでも、酷使すれば疲弊する。枯渇すれば、回復には相応の時間がかかる。
「化け蜘蛛の相手は一匹ずつに限る。障壁が最優先だ、無理はするなよ」
そう言って部屋の中央までエマーユを下がらせる。彼女は僅かに不満げな顔をしたものの、素直に従った。
鼻先が付くほど窓に近づいたキースは、化け蜘蛛に見せつけるようにダガーを振った。
リーチのない刃物になど、何の脅威も感じないことだろう。案の定、警戒を緩めた化け蜘蛛は、窓際まで近寄ってきた。
そこにガラスがあることに気づかなかったのか、化け蜘蛛は頭部を窓に押し付けて立ち止まる。しかし、構わず圧力をかけてきた。毒々しい牙が、今やキースの目の前にある。窓枠が軋み、ガラス自体もミシミシと耳障りな音を立て始めた。
「そうかい、腹減ってんだな」
そんなに欲しけりゃ、と呟きながら、キースはその場で床を踏む動作をした。棒切れの端を踏んだのだ。床と垂直に立ったそれを片手で掴み、すぐさま両手で保持する。続く動作で腰だめに構え——突く!
ガラスの悲鳴が轟いた。甲高い破砕音とともに、弱っていたガラスの一部が砕け散る。棒の先端は、ガラスの破片もろとも化け蜘蛛の目を射抜いていた。
化け蜘蛛が口腔を大きく広げた。苦しげな様子だが、キースには手加減する気がさらさら無さそうだ。もちろんエマーユとしても、天敵モンスター相手に同情する気は全く無い。
「喰らえ!」
再び響く破砕音。キースが棒を投擲したのだ。貫通効果を与えられた棒切れは幾つかのガラス片を道連れに、化け蜘蛛の口に飛び込むと、身体の内側から胴体を刺し貫いた。
それでも、そいつは執念深く糸を吐こうとした。ところが、出てきたのは糸ではなくどす黒い体液のみ。
暫く痙攣していた化け蜘蛛は、やがて全ての脚を弛緩させるとその場に倒れこんでしまった。
「気持ち悪い……」
「何だって?」
勢い良く振り向くキースを見て、誤解を与えてしまったことに気付く。
「違うの、すっごいグロテスクなんだもん。……魔法はまだまだ余裕よ。結界も問題なし。仲間が挟まれたことで、突入を躊躇してるのかも」
このまま諦めてくれないかな、などとお気楽に呟いた矢先。
「きゃああああ!」
粘つく糸が彼女に絡み付いた。
「どこからっ!? ちょ……、どこに? あ、やあっ!」
たちまち身長の高さまで身体を持ち上げられてしまう。両手を広げ、床と平行になったその姿勢はまるで——。
「鳥みたいだな」
「言ってる場合っ?」
ダガーで蜘蛛糸を切るため、キースが蜘蛛糸を引っ張ると——。
「……あっ、あんっ」
「おのれ化け蜘蛛っ」
どうやら聞こえなかったことにするらしい。エマーユのけしからんところに食い込んだ蜘蛛糸から目を逸らし、彼は糸を切る作業に没頭する。
「キースのばか」
ほどなく蜘蛛糸が切れ、彼女の身体が落下する。
「ありがと」
彼に抱きつくようにして床に降りると、彼女はすぐさま彼を背にかばう姿勢をとる。
窓がない壁面に隙間ができており、蜘蛛糸はそこから侵入していた。どうやら、家の裏手側の結界を破った敵がいる。一匹だろうか。
突如、家の外から壁を叩く打撃音が響く。ドアからも、天井からも。
残念ながら、すでに取り囲まれているようだ。
「こうなったら籠城戦だ。悪いが立方体状に結界を張ってくれ。三方と上側を家の壁と天井に押し付けるようにだ」
「うん、わかった」
言われた通りにすると、直方体の部屋内部の空間は、およそ半分ほどが結界で囲まれた。結界の範囲を絞ったことで物理障壁としての堅牢さが増し、蜘蛛たちは必然的に結界のない空間——侵入しやすい空間に集結するはず、とキースが説明する。
彼の思惑通り、壁や天井を叩く音が一方へと偏り出した。
「一匹ずつ結界の中に誘い込む」
俺たちがとるべき戦法は各個撃破以外にないからな……と呟いて、キースは棒切れを拾う。それとほぼタイミングを同じくして。
強烈な破砕音が轟き、外開きのドアが内側へと吹き飛ぶ勢いで倒れ込んだ。
「————っ」
エマーユは息を呑んだ。ドアからなだれ込んでくる蜘蛛どもの数、およそ三〇匹。対するこちらの武器、貫通属性を付与した棒切れは残り一九本。
「どのみち接近戦だ。さっきのような槍投げで消費しなければいい」
キースが言う。しかし、彼自身その言葉ほど気楽に構えてはいない。そのことを肌で感じつつ、エマーユは最悪の事態を想定し——。
突然肩を抱かれた。
「俺のことだけ助けようだなんて思うんじゃねえぞ。最後まで戦う」
「だめよ」
首を振り、彼が棒切れを握る手に己の手を重ねる。
「あなたは王子なのよ。あたしが必ず守——」
「ただの人間だ。王位継承権も妹より下。それを言うならお前こそ高貴なエルフ」
「もう! またそれを言う」
エマーユは頬を膨らませた。彼が『高貴なエルフ』と言う度、距離を置かれている気がしてならない。
「ただの女よ。エルフも人間も変わらない」
エルフには長はいるけど人間のような身分はない。種族としてエルフと人間のどちらが上かなど考えた事もない。今ここにいるのは、普通の男の子と普通の女の子。
肩を抱く彼の手がじんわりと熱を帯びる。それを感じ、彼女はさらに身を寄せる。
「そうだ、同じだ。そいつを俺たちの周囲の連中にわからせるためにも、絶対ここから出るぞ」
「うん!」
蜘蛛どもがエマーユの結界を叩き始めた。
そこに、一際大きな音が混じる。床に深々と爪を突き刺しつつ、そいつが家に侵入した。
脚が一本、妙な方向に折れ曲がった化け蜘蛛だ。
松明の灯さながら両目を赤く光らせるその様子からは怒りの波動が伝わってくる。食欲に基づく本能で動いているらしき他の蜘蛛たちとは明らかに違う。
次の瞬間、仲間割れが起きた。
赤目が、自分の隣で障壁を叩いていた仲間に対して攻撃を加えたのだ。脚部の爪を容赦なく突き刺した。
一方、赤目の爪を頭部と腹部の隙間に受けた化け蜘蛛は、抵抗らしき動作もできない。暫く痙攣していたが、やがて力尽きくずおれる。
突然の出来事に、他の蜘蛛たちは動きを止めた。成り行きを見守るかのように結界から下がり、赤目の様子を遠巻きに注目する。嵐の前の静けさ。
「どうやら」
耳に届く低い声。エマーユが顔を向けると、口の端を吊り上げながらも額から汗を流すキースの姿があった。
「まずはあいつから斃さないといけないようだな」
彼は棒切れを頭上で振り回す。腰だめに構え、赤目のフォレストスパイダーを睨む。エマーユもそれに倣う。
二人の視線を、赤目は真正面から受けて立った。口を大きく開いて禍々しい牙を見せつける。
「来いよ、赤目。まずはお前だけ入れてやるぜ」
まるでその言葉を解したかのように動きだす赤目。結界は、赤目の歩みを抵抗なく受け入れる。
今、戦いの火蓋が切って落とされた。
キースが先に仕掛けた。床を蹴って距離を詰める。
「弱点を自ら教えてくれたんだ、ありがたく攻めさせてもらうぜ」
狙うは頭部と腹部の隙間。しかし、糸を吐かれた。
床を転がって糸を避けたキースに、爪が迫る。
さらに転がり、紙一重で避け——。
「っ————!」
右足を掠めた爪は彼のズボンを裂き、僅かに覗く大腿部には赤い線が描かれた。
だが、勢い余った蜘蛛の爪は床に深々と沈み込む。
「もらいっ」
相手が脚を床から引き抜く前に、キースは棒切れを突き刺す。
貫通属性を与えられたそれは、蜘蛛の脚を貫くとそのまま床に縫い付けた。
赤目は大きく口を開け、正常な六本の脚で床を踏みならす。両目はいよいよ赤く燃え、口から泡状の液体が漏れる。
「キース、右っ!」
エマーユの声を聞き、反射的に左に跳んだのは幼い日の記憶ゆえか。
彼の右側、広範囲に撒き散らされた敵の泡。それらは床に触れると黒い染みを作り、刺激臭を伴う湯気を立てる。
破砕音が響く。敵は、己の足を縫い止める棒切れを引き抜いたのだ。続く動作でキースへと振り下ろす。
「キースっ!」
悲鳴が空気を切り裂く。キースはその場に右膝をついてしまっている。
「……なんてね」
爪が胴体に突き刺さるかに見えたその瞬間、彼は飛び込み前転すると敵の懐へと飛び込んだ。
棒切れが一本、彼の手に吸い寄せられるように飛んでいく。
それを器用に掴み取ると、鋭く踏み込んだ。
気合一閃。
キースが突き込んだ棒切れは、敵の頭部と腹部の隙間に深々と差し込まれた。
痙攣しながらも、蜘蛛は最期のあがきとばかりに脚を振り回す。
跳びのいて離脱するキース。しかし、爪が肩を掠める。
「……ぐっ」
コートの肩が裂け、赤い滴がわずかに散った。
エマーユが駆け寄った時、キースは荒い息を隠そうともしていなかった。
「スタミナには自信あるんだ。すぐ回復する。多分、一番厄介な敵はこいつ。あとは楽勝だぜ」
不敵に笑って見せるが、あまり呂律が回っていない。
「あ……あれ?」
床に両手と両膝をついてしまう。
「じっとしてて」
跪いたエマーユは、彼の右足に顔を近付けた。一切の迷いなく傷口に吸い付く。
「なに……おうっ!?」
キースの口から奇声が上がる。
何度か吸い付いては離れる動作を繰り返した後、彼女はキースの正面に移動した。そして、肩の傷に対しても同じことをする。
「毒にやられてたのよ。あたし、解毒の魔法は得意じゃないから……。まだ少し痺れが残るかも」
「いや、充分だ」
手元に棒切れを引き寄せながら礼を言うと、キースはそれを杖に立ち上がる。気遣わしげにその身体を支えるエマーユは、棒切れと彼の手を繋ぐものを見つけた。
「蜘蛛糸?」
「ああ、エマーユが鳥さんになってた時のな。切り取ったのを棒切れに結んで、結界内の色んなトコで引き寄せられるように置いといたのさ」
いつの間に。半ば呆れたように苦笑しつつ、彼女は提案する。
「次はあたしがやる。あなたは休んでて」
「莫迦言ってんじゃねえよ。結界張りながら戦えるような連中じゃないぜ。怪我したら治してもらうが、とにかく結界が最優先だ」
彼はそう言うと蜘蛛たちの方を睨む。奴らは再び結界をこじ開けんと叩き始めていた。
「俺は妾腹の王子だ。王位継承権は兄弟の中で最低で、『王室の余り物』と陰口されてることも知ってる」
エマーユの支えをやんわりと押し退け、棒切れを肩に担ぐと二本の足でしっかりと立つ。
「そんな俺が、兄貴どもが知らないものを、もう手に入れてるんだぜ」
目を爛々と輝かせ、楽しげに笑う。
「——好きな女を命がけで守る喜びって奴をな!」
エマーユはもう彼を止めようとはしない。かわりに抱きついた。
「あたしは結界に集中するから、あなたは存分に戦って。絶対ここから、一緒に出るんだからね」
「そうだ。絶対だ。そして——」
続く言葉は彼女だけに聞こえる声で囁かれた。エマーユは顔を真っ赤に染め、次いで決意の光を瞳に滾らせる。答えるには言葉はいらない。彼の背に合わせるために踵を上げて、戦いを前に刹那の口吻を交わす。
今の彼女には、結界を叩く音さえ教会の鐘の音だ。……人間の宗教を理解しているわけではないが。
こんな化け蜘蛛になど、二人の邪魔をされてなるものか。大丈夫。もう、負ける気はしない。




