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『距離を誤ってキスしてしまったので、無口な公爵様と気まずいまま過ごしています』  作者: 百花繚乱


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気まずい、という距離

「気まずい」は沈黙じゃなく、丁寧さの形で増えていく。第2話です。

気まずさには、形がある。


 それは、朝の挨拶が半拍遅れること。

 同じテーブルに置かれたパンを取る指が、ほんの少し遠回りすること。

 扉の前で「先にどうぞ」と言い合って、結局どちらも動けなくなること。


 ――そして一番厄介なのは、気まずさが“丁寧さ”の顔をしている時だ。


 その日、公爵邸の朝はやけに静かだった。

 廊下を歩く靴音が、いつもより大きく響く。私の存在が重いからなのか、建物が私を意識しているみたいに音が跳ね返ってくる。


 私は息を吐いて、唇に触れないよう意識しながら食堂へ向かった。


 昨日のことは、昨日のこと。

 距離を誤っただけ。

 そう言い聞かせても、視線が勝手に“そこ”へ向かう。


 食堂の扉を開けると、いつもの席に公爵様がいた。

 無口な公爵様は、いつも通り無表情で紅茶を飲んでいた。けれど、その「いつも通り」が、今日は少しだけ違う。


 ――見ない。


 私が入ってきた瞬間、公爵様の視線は紙面に落ちた。

 意図的に外している。丁寧に、慎重に。


 私は胸の奥がきゅ、と縮むのを感じた。

 避けられているのではない。守られているのだと分かる。分かるのに、寂しい。


 「おはようございます」


 私の声は、思ったよりもきれいに出た。

 公爵様は頷いた。短く。

 呼び名は落ちてこない。


 ああ、今日も呼ばれない。


 呼ばれないのに、私は消えない。

 薄れない代わりに、存在が重い。輪郭が濃い。

 昨日よりもはっきり“ここにいる”。


 私は席についた。

 侍従がパン籠を置く。

 公爵様がカップを持つ。

 私も持つ。


 同じ動作をしているのに、空気だけが別物だった。


 食堂を出る時、公爵様は立ち上がったまま扉を押さえた。

 いつもなら、その手が私の肩の後ろをかすめる。通りすぎる体温が、ほんの少しだけ安心になる。


 けれど今日は、手が途中で止まった。


 触れない。

 触れないと決めた距離。


 私は何事もなかったふりをして通り過ぎた。

 その丁寧さが、胸に刺さる。


 *


 午前中は、古い書庫の整理を任された。

 紙の匂いは落ち着く。誰も私を“呼ばない”からだ。呼び名がない場所では、私は、ただ作業に集中できる……はずだった。


 棚の奥から、古い契約書が出てきた。

 文字は薄く、指でなぞると粉が落ちる。

 そこに書かれた文言を読んだ瞬間、背中が冷えた。


 ――呼び名は、存在の錨。


 私は笑ってしまいそうになった。

 錨がなくなったのに、私は沈まない。消えない。

 それは「自由」ではなく、別の異常だ。


 紙を元の場所に戻そうとして、指先が震えた。

 私の輪郭が濃くなっていくのを、世界が“確認”している気がする。まるで、どこかの誰かが見えない糸で私を引っ張って、計測しているみたいに。


 扉がノックされ、侍女のマーレが顔を出した。


 「リラ様。お茶をお持ちしました」


 その呼び方に、私は少しだけ肩の力が抜けた。

 “様”の距離は遠い。けれど安全だ。彼女の呼び方は、感情を混ぜない。「正しい距離」の呼び名。


 マーレは静かにお茶を置き、ちらりと私の唇を見た。

 見られた、と思ったのは私の過敏さだろうか。


 「……最近、お二人、少し静かですね」


 探る声ではない。

 ただ、気づいている声だった。


 「静か、というか……」


 私は言い淀んで、言葉を選ぶ。

 嘘はつきたくない。けれど真実も言えない。


 「少し、距離を誤っただけです」


 マーレの眉が、ほんの一瞬だけ上がった。

 それだけで、彼女は何も聞かなかった。


 聞かない優しさは、ときどき残酷だ。

 聞かれたら、誤魔化せるのに。聞かれないと、全部自分の中に残る。


 マーレが去った後、私は一人で笑ってしまった。

 気まずい。

 私は、こんなにも気まずいを抱えたまま生きるのが下手だったのか。


 *


 午後、庭の小道を歩いていると、庭師の少年が水を運んでいた。

 昨日、私の名を迷っていた少年だ。


 「こんにちは」


 私が声をかけると、少年は慌てて頭を下げた。


 「こんにちは! リラさん!」


 その瞬間、空気が揺れた。


 ――まただ。


 胸の奥がすうっと冷える。

 昨日と同じ。呼び名が落ちた瞬間に、私の輪郭が変わる。


 今度は、もっとはっきり分かった。


 「リラ」と呼ばれると、私は“軽く”なる。

 重さが抜けて、世界が私を包むように柔らかくなる。

 息がしやすくなる。


 少年は気づいていない。

 私だけが気づいている。


 「ありがとう。昨日、助けてくれたから」


 「え? 僕、何もしてないです」


 少年は首を振った。

 何もしていない。呼んだだけだ。

 でも、その“だけ”が、私をこんなにも支えている。


 私は笑った。

 笑ってしまうのが怖い。笑うと、唇が意識されるから。


 少年は水桶を持ち直し、言った。


 「リラさん、今日は……顔色、いいです」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 呼ばれて、軽くなって、息ができる。

 それは、嬉しい。けれど同時に、怖い。


 呼び名が、私を変える。

 もし誰かが違う呼び方で呼んだら、私はどうなるのだろう。


 *


 夕方、廊下で公爵様に出会った。


 いつものように、呼び名は落ちてこない。

 いつものように、公爵様は視線を外す。

 いつものように、私は「気まずい」を胸に抱えて通り過ぎようとした。


 その時、背後から少年の声が飛んできた。


 「リラさーん! これ、落ちました!」


 少年が走ってきて、私のハンカチを差し出す。

 私は受け取ろうとして、指が触れた。


 その一瞬、公爵様が立ち止まった。


 公爵様の視線が、私の唇に落ちる。

 落ちて、すぐ逸れる。

 それでも、見た。


 私は喉が乾いた。

 胸の奥が熱い。

 息の仕方が分からない。


 公爵様は、何か言いかけてやめた。

 呼び名ではなく、ただの言葉で。


 「……冷える。上着を」


 昨日と同じ言い方。

 昨日と違う温度。


 私は頷いた。

 頷いて、通り過ぎるしかない。


 けれど、二歩進んだところで、公爵様の声が背中に落ちた。


 「――待て」


 その一語に、私は立ち止まった。

 呼び名じゃない。

 でも、私を止める力がある。


 公爵様が近づく気配がした。

 一歩。

 二歩。


 近い。

 近すぎる。

 あの日と同じ距離に、戻りそうになる。


 私は反射的に一歩下がった。


 その動きに、公爵様の足も止まった。

 触れない距離を、互いに確認するように。


 沈黙。


 公爵様は、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 怒っているのではない。困っている顔だ。


 「……今」


 声が続かない。

 無口な人が言葉を探している。


 私も言葉を探した。


 「……何ですか」


 公爵様は息を吸い、そして吐く。

 迷いを飲み込むみたいに。


 「……庭師が、呼んだ」


 私は頷いた。

 それがどうしたのか、分かってしまっている。


 公爵様は続けた。


 「……お前が、変わった」


 言い方が、乱暴だった。

 でも、無口な人がやっと掬い上げた言葉だ。


 私は笑えなかった。


 「……変わりましたか」


 公爵様は頷いた。


 「……軽くなった」


 胸が、ひやりとする。


 やっぱり。

 公爵様も気づいてしまった。


 呼び名が、私を変える。

 呼び方が、世界を変える。


 公爵様は、私を見ないまま、言った。


 「だから、呼べない」


 その言葉は、刃物のように鋭かった。

 同時に、祈りのように苦しかった。


 呼べない。

 呼ばない、ではない。

 呼べない。


 私は喉の奥が熱くなった。

 言い返したいのに、言い返せない。


 「……呼ばれなくても、私は消えません」


 声が震えた。

 強がりだった。

 自分に言い聞かせる言葉だった。


 公爵様の肩が、ほんの少しだけ落ちた。


 「……それが、怖い」


 ぽつりと落ちた言葉は、私の胸を撃ち抜いた。


 怖い。

 私が消えないことが。

 私が軽くなることが。

 私が変わってしまうことが。


 公爵様は、何を怖がっているのだろう。

 私のため? 世界のため?

 それとも――自分のため?


 私は、何も聞けなかった。


 気まずさが、言葉になった瞬間。

 それは、甘さではなく、逃げ場のなさだった。


 公爵様は、最後に一つだけ言った。


 「……今夜は、扉を閉めるな」


 命令の形をしているのに、頼みに聞こえた。

 私は息を止めた。


 「……分かりました」


 そう答えるしかなかった。


 公爵様が去った後、廊下に一人残されて、私は自分の唇に触れないよう強く握りしめた。


 扉を閉めるな。

 それは、呼び名の代わりの合図だ。


 ――今夜、公爵様は来る。


 来て、何をするのだろう。

 何を言うのだろう。

 呼ぶのだろうか。


 呼べない、と言った人が。


 胸の奥が、疼いた。

 気まずさのまま、心臓が速くなる。


 私は早足で部屋へ戻り、扉の鍵に指をかけたまま止まった。


 閉めない。

 閉めないまま、待つ。


 その選択が、すでに恋に片足を入れているのだと――

 私は認めたくなかった。

公爵様が「呼べない」と言った理由は、次話でさらに濃くなります。――そして、呼び方が“違う”と、世界が変わる。続きもぜひ。

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「気まずい、という距離」 この話で確信しました。 この作品は、“気まずさ”の解像度が異常に高い。 避けているわけじゃない。 守っている。 だからこそ、丁寧すぎて、苦しい。 扉を押さえる手、 半拍…
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