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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第三章 ~新たなる乱世~
36/201

第五幕 大反攻 -小田原城、再び-

時は遡り、二月十三日。

上野国・和田城


上杉輝虎は劣勢に立たされていた。


関東には上杉方の勢力が点在しているが、越後から地続きで勢力圏が確保されているのは上州・白井までである。白井は上州の北部であり、輝虎と同族である長尾憲景の居城となっている。つまり輝虎は、関東管領でありながら関東に僅かばかりの勢力しか有していないことになる。


それが、武田信玄が駿河へ侵攻したことで一変した。


駿河国主・今川氏真より救援要請を受けた北条氏康は、嫡男・氏政に大軍を預けて駿河へ急行させた。これにより輝虎に反撃の機会が訪れた。


「まずは和田城を落とす」


越後からの援兵を待つために、白井城よりも北の沼田に移っていた輝虎の許に越後の精兵五〇〇〇がやって来た。復活した輝虎の最初の標的になったのが、和田業繁の和田城だった。


業繁は輝虎の小田原攻めが失敗に終わると信玄の西上野進出に呼応し、武田方として上杉軍と何度も槍を交えてきた相手だ。その業繁も信玄の矛先が南へ転じたことにより窮地に陥った。輝虎に攻められている業繁に信玄からの援軍はない。信玄不在の間は援軍を出してくれるはずだった北条とも、武田は敵対してしまったからだ。


孤立無援となった業繁はそれでも果敢に応戦したが、三日持ち堪えるのが限界だった。業繁は上杉軍の猛攻の前に降伏を決断、開城した。


「次は箕輪じゃ。裏切り者の高広を成敗する」


輝虎は自分を裏切った喜多条高広のいる箕輪城を攻めた。位置的に北条勢力の北端にあり、和田城が陥落した今となっては孤立してしまっている。


「今さら輝虎に降れるか!儂の力を見せつけてやる!」


烏川合戦では不覚を取ったものの、汚名返上とばかりに高広は兵を叱咤して防戦に努めた。巧みに兵を動かし、時には打って出ては上杉勢を苦しめた。総攻撃すること三度、十日経っても城はビクともしなかった。


輝虎は、改めて上州防衛の要となっていた箕輪城の堅城さを知ることになった。


「止む得ぬ。先に金山城を攻めることにする」


北条の動きが制限されている内に勢力を取り戻す必要がある輝虎は、私怨に拘って箕輪城を攻め続ける訳にはいかなかった。和田城に抑えの兵を残しておけば、高広の動きを封じるのは可能。兵力で圧倒的に劣る高広が上杉相手に善戦しているのは、堅城・箕輪に拠っているからである。


輝虎は気持ちを切り替え、金山城の由良成繁を攻めるべく東へ進んだ。


由良成繁は始め関東管領・上杉憲政に属していたが、北条氏の勢力が強くなると寝返り、輝虎が関東入りすると輝虎に味方した。そしてまた輝虎が臼井城攻めに失敗した後、北条に属したのである。こうして家名を保ってきたのであるが、再び輝虎が迫ってくるとあっさりと降伏した。


「ころころと主を変える者など信用できぬ!」


その成繁の振る舞いに輝虎の怒りは爆発し、切腹を申し付けた。まだ和田業繁は戦った上で降伏したが、成繁は戦わずに降伏した。乱世の倣いとはいえ、成繁の行動は輝虎の癇に障ったのだ。


「御待ち下され!ここで成繁殿を斬れば、後にも先にも管領様に応じようという者がいなくなります。関東の争乱を長引かせることになりましょうぞ」


それを上野守護代・長尾当長が止めた。


「その様なことはない!真に義を重んじる者は、儂に正義があることくらい分かるはずだ」

「いいえ、降伏しても許されぬとなれば、皆が死力を尽くして抗戦して参りましょう」


尚も当長は引き下がらない。輝虎の気持ちは分からなくもないが、当長などからすれば強者の論理でしかない。しかも潔癖すぎる。誰にでも家族がおり、守るべき家臣がいる。大国が並び立つ関東においては、一方的に成繁の行動は批難できなかった。


「うぬぬ…、わかった。そなたに免じ、成繁は許すことにする、されど、次はないぞ」

「はっ!ありがとうございます」


当長の説得により、輝虎は翻意して成繁は本領安堵となった。これにより上州の勢力図は大半が上杉方へと塗り変わる。


「さて、次は何処を攻めるか…」


上杉の忍び・軒猿衆の報せにより、武田と北条が駿河・薩埵峠での睨み合いに進展がないことを知った輝虎は、次なる標的を決めかねていた。現在いる地点から攻めるとすれば、三つの選択肢がある。戻って箕輪城の喜多条高広を攻めるか、南へ降って成繁同様に北条方へ奔った忍城の成田氏長を攻めるか、このまま東に進んで唐沢山城の佐野昌綱を攻めるか、である。


問題なのは、何れも堅城であるということだ。その中でも唐沢山城は一度も落城していない“関東一の山城”との呼び声も高い城郭だった。


(今のうちに佐野を攻めておいた方がよいかもしれぬ)


今ならば昌綱に北条の援軍はない。もっとも落としやすい内に、この難攻不落の城を攻める必要があった。


この決断は、結果として“吉”となった。


=======================================


四月四日。

常陸国・太田城


父・義昭の急死に揺れていた佐竹家は、昨年の小田氏治との一件も落ち着き、ようやく平静を取り戻していた。義重も当主の座について一年、家中の切り盛りにも慣れてきたところだ。


そこへ上杉輝虎より檄文が届けられる。


「関八州争乱の根源たる北条氏康を討ち倒すべし!」


しかも将軍・足利義輝よりの命令書(関東諸将の分が輝虎にまとめて送られている)が同時に届いたのだから驚いた。


先に武田信玄より“駿河を攻めるから北条の背後を脅かして欲しい”と依頼を受けていた義重であったが、今のところ日和見を決め込んでいた。北条方の小田氏治と和睦していたからである。これに違約すれば、武田が北条に破れた場合に攻められる名分を与えることになる。当時の状況は、味方である上杉が上州・白井まで後退しており、頼りに出来なかった。


将軍からの命令書には“上杉の支援をさせるために織田信長を派遣する”と記されていた。


(俄には信じられぬが、織田勢の規模は如何ほどであろうか…)


佐竹からすれば、織田など遠い存在である。昨年に輝虎より上洛の話を聞いた際に織田信長のことは耳にしていたが、実際に関東までやってくるとは思えなかった。もっともこの義重の予測は当たっている。織田軍は遠江までしか来ないからだ。但し、義輝はその辺りを濁していた。織田軍が関東まで来ないと分かれば、二の足を踏む者が出ないとも限らない。


義重は輝虎へ問い合わせた。それによると、織田勢の規模は四万から五万にもなるという。これを聞いて義重の考えは変わった。


「常陸を纏める好機だ!小田城を攻めるぞ!」


本音のところでは小田氏治は早々に攻め滅ぼしたい相手だった故に、攻めるとなれば躊躇はない。上杉も反撃を開始したというし、大義名分も氏治は北条方なのだから将軍からの命令とすればいい。


佐竹義重が小田城を目指して出撃したのは、この三日後のことである。


また輝虎の檄文は他の大名たちの許へも送られていた。上杉、佐竹が動いたと聞いて、これに諸大名は相次いで応じた。


「今ならば兄者を討てる。陣触れじゃ!」


下総では結城晴朝が出陣、小山城を目指して進んだ。結城の家督を狙う小山秀綱を討つべく。


「晴朝殿から加勢を求める使者が参った。公方様よりの命令もある。我らも出るぞ」


下野では宇都宮広綱が結城勢に呼応して出陣、同じく小山城へ向かった。


「北条への恨みを晴らす千載一遇の好機じゃ。この機会に上総を取り戻す」

「支度は万端整っておりますぞ、父上」

「うむ。北条輩に里見の強さを見せ付けてやろうではないか」


上総では、里見義堯・義弘親子が勇み立って進軍を開始する。


五月に入る頃には各地で反北条の狼煙が上がり、瞬く間に燃え広がっていった。


=======================================


四月十五日。

下野国・唐沢山城


続々と関東諸侯が挙兵する中、上杉軍は苦戦を強いられていた。やはり輝虎が躓くのは城攻めであった。


「まったく…、この城の堅固さは相変わらずか」


輝虎は本陣から城を見上げる。


典型的な連郭式の山城であるが、本丸は一層高い位置に築かれており、そこに辿り着くまでには細長い堀切を越え、幾重もの城壁と土塁を跳び越えて行かなくてはならない。上杉軍は、未だ堀切を突破することは出来ていない。


「このようなところで時間を取られる訳にはいかぬ」


仕方なく輝虎は、義輝の力に縋る(すがる)ことにした。城内に使者を遣わし、降伏を呼びかけた。


「上様は北条攻めを御望みである。昌綱殿もこれに加われたし」


元々昌綱とて北条に恩義がある訳でない。成り行きで北条に属しているだけである。そもそも佐野氏は鎌倉公方に仕える家系であり、現在は古河公方(旧鎌倉公方)の足利義氏が北条に属しているため、北条方であるに過ぎない。とは言っても、昌綱自身はそれを家名存続の大義名分として利用しているだけだが。


そこを輝虎は上手く衝いた。


「上様は足利義氏様を認めてはおられない」


古河公方として義輝が認めたのは、輝虎が擁していた藤氏だ。義輝の旧名から“藤”の字が偏諱として与えられていることからも窺い知れる。ただ、この話は昌綱も承知済みのことであり、今さら聞かされる話ではない。


その藤氏も、既にこの世の人ではない。病死という話だが、実のところ北条によって処刑されたという説が強い。


「では上様は、何方を古河公方になされるおつもりか?」


当然のように昌綱は疑問を返す。関東には北条家が擁する義氏以外にも足利氏がいる。古河公方家の足利藤政や小弓公方家の足利頼純がそれだが、山内上杉家に養子に入った上杉憲寛の子・義勝も足利の血は流れている。


しかし、その答えは昌綱が予想する範疇を超えるものだった。


「何方もない。上様は関東に公方を置かれる気はない」


輝虎は関東管領が当代限りであることを伝えた。管領職が公方を補佐する職である以上、その消滅は鎌倉公方家の消滅をも意味する。義輝が関東に公方を置くつもりがないことに、輝虎は気付いていた。


「では、我らは何方を主君として仰げばよいのか?」

「無論、上様である。故に、上様の命に従われよ」


京の将軍が関東を直接治める。その発想は、関東武士にはないものだった。拠り所としていた公方がいなくなり、戴く存在が遙か遠い京の都に移ったことは、大義名分を掲げて合従連衡を繰り返していた関東の状勢を一変させるだろう。何せ関東にいる限り、北条家であっても大義の象徴である将軍に手を出すことは出来ないのだから。


そう…上杉輝虎を除けば、だ。


「管領様に従い申す」


昌綱は開城を決意した。唐沢山城は上杉軍の攻撃を退けたものの、北条の援軍はない。周辺の領主たちも上杉方に与した以上、明確な大義を有する輝虎に刃向かう理由はなかった。所領さえ安堵してくれるのであれば問題はない。


「案外と上手くいくものだな」


輝虎は正直な感想を述べた。


相手が降伏しやすい環境を整えることで、城を開けさせる。あまり輝虎らしいやり方ではなかったが、こういう戦い方もある…と、輝虎は上方で学んだ。殆どの城を大軍による威圧と大義を振りかざして開城させた摂河泉での信長の戦法だ。あの時、同じく三好領を攻めていた輝虎と信長では、兵力の差こそあれ成果は雲泥の差だった。


これなら兵の損失を最小限に抑えられる為、大兵力を動員しても思ったほど費えもかからないだろう。


「さて、次は小山か」


唐沢山城を開城させた輝虎は、小山城へ進み宇都宮・結城軍と合流した。小山秀綱は上杉の来援は予想しておらず、結城の家督は望まないことを約束して降伏した。


その後、上杉勢は南へ下って古河御所を奪還したところで武田と北条が和睦したことを知った。


「如何いたします?」

「一度、上州に戻る。北条が息を吹き返したとなれば、高広がどの様な行動に出るかわからぬ」

「我らは如何に致しましょうか?」

「この地に止まっていて欲しい。援兵が必要になれば送るし、常陸介(佐竹義重)にも支援させる」

「畏まりました」


北条を縛っていた鎖が解かれたとて、上州へ向かうと決まったわけではない。下野や下総に兵を向けることも有り得た。輝虎は北条の動きを見極めた上で今後の方針を決めることにした。


しかし、箕輪へ戻った輝虎を動かしたのは、北条ではなく宿敵・武田信玄であった。


「上様の仲介で今川と和睦いたしました。今後は互いに味方となりました故に、箕輪は我らにお任せ下さい。上杉殿に於かれましては、存分に御役目に励まれますよう」


確かに武田は今川や織田と和睦し、それを義輝が認めた。ただ別に上杉と和睦したわけではないので、味方となったとは言い難いのだが、敢えて信玄は“自分は味方”だと言って寄越したのである。


(将軍の命令があれば、北条との和睦を破棄してもどうと言うことはない)


この機に、信玄は断念した西上野攻めを再開することにしたのだ。しかも、都合良く上州の北条方は輝虎が片付けてくれていた。


駿河攻めで転んでもただでは起きない、信玄であった。


「馬鹿にするな!上様を散々に利用しおってからに!!」


これに輝虎が激昂したのは言うまでもない。かつて信玄は信濃守護職を欲して義輝を利用したことがあり、今回で二度目となる。だが義輝が信玄を認めた以上、ここで信玄と争うわけにはいかなかった。


同時に、これは好機でもある。武田が箕輪を引き受けてくれれば、輝虎は武蔵へ討ち入れられる。直後に来訪した報せが、そのきっかけとなった。


「管領様!里見義堯が、三船山にて北条氏政の軍勢を討ち破ったとのこと」

「おおっ!」


感嘆の声が、諸将から漏れる。武田に上手く利用されて鬱積している空気を吹き飛ばすには、充分な報せだ。


武田と和睦した北条氏康は迷っていた。各地で諸大名が反攻し、自領に迫っている。戻った戦力を何処にぶつけるか、悩んでいたのだ。


「戦力の分散は避けねばならぬ。各個撃破するしかない」


として端から順に敵対勢力を倒していくこととした。各地に専守防衛を命じ、氏政には里見攻めを命じた。ただ上杉輝虎だけには備えねばならず、もっとも頼りとする北条綱成を河越に派遣した。これがいけなかった。


三船山に出陣した氏政は、水軍を使って里見義弘の佐貫城を狙い、別働隊を実弟・氏照に任せて義堯の久留里城へ向かわせた。これを知った義弘が先んじて出撃、三船山の氏政を襲って合戦となり、激闘の末に勝利したのである。この戦で、殿を務めた北条方の太田氏資が戦死している。仮に北条一の戦巧者・綱成がいれば、この敗戦は防げたかもしれなかった。


「北条は軍勢の大半を相模に撤退させた模様」


この報せに輝虎の眼がきらりと光った。これから武蔵を攻めようという時に、北条は相模まで後退したという。輝虎の脳裏には、あの巨郭の姿が浮かんでいた。


「これより出陣いたす!」


武蔵に入った上杉軍は、鉢形城、松山城を抜き、河越城に抑えの兵を置いてさらに南下、相模に入ると永禄四年(1561)と同じ道を辿って小田原へ辿り着いた。


六年前に輝虎がその一郭すら落とすことが敵わなかった北条の牙城が、再び目の前に姿を現した。


六月二十六日のことである。




【続く】

再び関東編です。


前回と違って一気に反撃に出た輝虎です。上手い具合に信玄が暗躍しておりますが、今回は北条方はいいところなしです。ファンの方は申し訳ありません。また三船山合戦が史実より少しだけ時期が早まっています。焦った氏政殿の所為です。


また、この時点で考えられる質問(疑問)に答えておきます。本編で記述する場面がなかったので…


Q1氏康はなぜ出陣しないのか?


A1この小説を読んでいる方はたいてい知っていると思いますが、氏康の史実での死没は今幕より四年後です。史実でも出陣を控えだしており、氏政が代わりを務め始めた時期でもあります。恐らくは年齢の問題(老い)かと思います。よって氏康は小田原で総指揮を執ることは出来るが、出陣は困難になっている、としています。


Q2越中一向一揆は?畠山の内紛はないの?


A2北陸は義輝に協力した甲斐もあって、今のところ平穏となっています。信玄も事情が変わり、輝虎を揺さぶる必要がなくなっています。また畠山家についても義輝の御陰で当主権限が強くなっており、家中で火種はくすぶっているものの引火するに至っていない状態です。よって輝虎は全軍を関東へ向けられる状態が続いています。


と、二点解説しておきましたが、他にこれはどうなってるの?という質問があれば可能な限り(ネタバレにならない程度)お答えしたいと思っております。但し、現時点で島津は?とか言われても影響なし、とかしか答えようがないので、出来れば中国から関東まで、の範囲で御願いします。個別に勢力ではなく武将のことでも構いません。


次回、久しぶりにあの男が登場します(誰も登場を期待していない人物です)。関東編の続きと義輝編です。


最後に、お気に入り件数が300を越えました。ありがとうございます。初投稿作品で不安だったのですが、少々自信がついて参りました。同時にやる気も湧き上がります。さらに多くの人に読んで貰えるよう精進いたします。


改めて感謝を申し上げ、後書きを締めくくらせて頂きます。

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