81話 お誘い
見慣れた天井をぼんやりと見上げていく。
少しずつ視界と思考がクリアになっていく中、使い慣れたベッドに深々と体を預けていく。
「──さて、どうしますかね」
ふぅ、とまりもは溜め息を吐いていた。
溜め息を吐きながら、両手を顔の前でかざし、何度も握りしめていく。
「タマモ」時とは違い、「まりも」であれば、問題なく両手は使えるようだった。
「……まさか、あんなにひどかったとは」
はぁ、と溜め息を吐くまりも。
まりもが溜め息を吐いているのは、「タマモ」が負った凍傷が原因だった。
「氷の花」の採取にどうにか成功したタマモ。
ただ、代償として両手にひどい凍傷を負うことになったが、「氷の花」の将来性を考えればタマモとしてはトレードオフな結果とはなった。
トレードオフではあるが、妹分のマドレーヌを泣かせてしまうし、マドレーヌを泣かせたことで氷結王からはガチの説教を受けるという二重苦に苛まされることになってしまったのだが。
それでも念願叶って「氷の花」を無事に手に入れることはできた。
一番の念願はまだ叶うどころか、見通しさえ立っていない状況ではあるものの、小目標である「氷の花」を手に入れることはできたことで、一応の安堵を憶えたタマモ。
安堵感を抱いたまま、タマモはその日早々にログアウトをした。
いつものように長々とログインしていてもいいのだが、両手に負った凍傷は思った以上に重傷だったのだ。
凍傷(重度)……通常の「凍傷」よりも重度な症状。凍てついた部位は、表面を覆う氷が溶けても芯までもが凍てついている影響により、DEXを大幅に低下させる。完治には数日間必要となる。
凍傷がどれほどのものなのかを確かめるために、「鑑定」を行ってみると、その内容がはっきりとしたのだ。
結果はタマモの想像していた以上の重傷であった。
両手を覆っていた氷は溶けたものの、完治には数日ほど掛かるとなれば、そのままログインし続けても皆に迷惑が掛かるだけだった。
タマモは「今日はもう落ちるとします」と溜め息交じりに呟くと、誰もが頷いてくれた。特にマドレーヌは「絶対ですよ? 途中でログインしたらダメなんですからね?」と釘を刺されてしまった。
普段であれば、「わかったから」と苦笑いしつつ、頭を撫でてあげるところではあったが、頭を撫でるための手がうまく動かないこともあり、タマモは苦笑いするだけで留めて、「ヴェルド」から現実の世界へと戻ったのだ。
とはいえ、現実の世界でできることはそう多くはない。
できることとすれば、受験勉強を進めること程度だ。
……もっともまさかの二浪となってしまった、いまのまりもにとってゲームに現を抜かしている余裕など本来は皆無である。
皆無ではあるが、今回ばかりは致し方がないよなぁとまりもは思う。
なにせ、今回は名実ともに嫁であるエリセの捜索のためだ。
本来であれば、「ヴェルド」に赴くのを控えて勉強に集中するべきであるのだが、エリセのことしかいまは考えられなくなっていた。
実際、いまも「早くよくならないかなぁ」としかタマモは考えていない。
よくなってくれさえすれば、またエリセの捜索に集中できる。
どれほど時間が掛かるかも不透明な状況だが、エリセを放っておくことなどできないのだ。
「……エリセばかりだとアンリが怒るかな」
その一方でもうひとりの嫁であるアンリとも最近は疎遠となってしまっている。それも物理的に。
現在の「タマモ」は、聖風王の居城である「巨樹回廊」にてキャンプをしている。
「巨樹回廊」は「フィオーレ」の本拠地である「アルト」からは遠く離れた東の第三都市「ガスト」近郊の樹海内にある。
それも件の樹海は掲示板内においては、「アルト」近郊の「死の山」こと氷結王の座す御山と双璧をなすほどの危険地帯だった。
危険地帯だった理由は、聖風王の居城があるからだったが、それでも危険なモンスターが跋扈する魔境である。
その魔境にアンリを伴っていくなんてことはできなかったため、現在はアンリとは離ればなれの状況だった。
「タマモ」としてはアンリにも早く会いたいところではあるのだが、会いに行こうと思えばすぐに会えるアンリとは違い、エリセはいまどこにいるかもわからない状況だった。
嫁ふたりを比較しようなんて、どちらにより重きを置くべきかなんて考えるべきではないのだが、現状ではエリセを優先するしかなかった。
その結果、アンリとは物理的に疎遠になってしまったというのは、あまりにも笑えないことだった。
「……はぁ、アンリは元気かなぁ」
聖風王か氷結王に頼めれば、すぐにでも「アルト」と往復することは可能だった。
というか、どうせであれば「巨樹回廊」の中央の岩山でではなく、本拠地に戻ってログアウトすればよかったな、といまさらながらなことを考えるまりも。
が、すぐに「無理かなぁ」と溜め息を吐いた。
というのも、先述した通り、「タマモ」は両手に重傷を負ってしまっている。
重傷を負った状態で本拠地に戻ったら、確実にアンリに詰め寄られることになる。いや、アンリだけではなく、ようやく試験勉強が終わったというヒナギクとレンにも詰められることになるだろう。
そうなれば、後に降りかかるのは三人からのお説教である。
お説教が待ち受けているのを本能的に察知していたために、キャンプ地でログアウトをしたのだ。
もっと言えば、お説教やお小言はもう氷結王のでこりごりであるため、本拠地に戻るという発想を「タマモ」のときにはできなかったわけなのだが。
「……これからどうしようかなぁ」
少なくとも完治には数日間掛かるとなれば、その間「ヴェルド」に赴いてもできることはなにもない。
「七尾」に代用してもらうことはできたとしても、それはそれで後々に「七尾」が調子に乗るのが目に見えているため、できることならば避けたい。
となればできることはひとつ。完治するまでは「ヴェルド」には赴かないということだけである。
「……数日って、どっちの意味での数日なのかな?」
「鑑定」の内容によると、完治には数日かかるとあったがどちらの、「ヴェルド」の時間軸においてなのか、現実世界の時間軸においてなのかがわからない。
「ああいう表記のときは、大抵現実世界でだけど」
「ヴェルド」内の時間であれば、「ゲーム内時間」と基本的には表記されるのが、「数日間」しか書かれていなかったということは、現実での数日間の可能性が高い。
となれば、「ヴェルド」内で言えば、仮に現実世界では三日かかるとすれば、六日間かかるということになる。
「ヴェルド」の一日は現実世界の半分の十二時間。
「ヴェルド」がゲーム内世界だと思っていた頃は、当たり前に「そういう設定か」と受け入れていたが、いまは「ずいぶんと自転が早いな」と思っている。
もっともそれもプレイヤー用に合わせているだけの設定なのだろうが。
もしかしたら、プレイヤーたちには秘密裏に時間感覚が倍になる術でも懸けられている可能性もある。
むしろ、そう考えるのが妥当だろう。
「ヴェルド」のことをまりもは知っているようで、ほとんど知らない。
知っているのはほんのわずかなこと。
それでもほとんどのプレイヤーが知らない裏事情をマドレーヌともどもに知ってはいる。
「……どこまで私は知っていくのかな?」
「ヴェルド」のことをこれからもまりもは知っていくことだろうが、それがいつまで続くのかはさしものまりももわからない。
そもそも、いまの生活がいつまで続けられるのかも不透明である。
いつかはきちんと自立せねばならない。
そして「TFC」と「玉森」のすべてを背負って行かねばならない。
それが「玉森まりも」に定められたタスクであるからだ。
「……はぁ」
自分に定められた運命を思い、まりもは小さく溜め息を吐いた、そのとき。
まりものスマートフォンから軽快な着信音が流れ始めたのだ。
誰だろうとベッドの隅に置いたスマートフォンを手にすると──。
「円香?」
──スマートフォンには「円香」が表示されていた。
まりもは「なんだろう」と思い、通話を始めた。
「こんちには、姉様」
「こんにちは、円香。どうしたの?」
通例の挨拶を口にして、まりもは「何の用事なのか」と尋ねた。すると円香は──。
「あ、あの、ですね。姉様、明日の日曜日はお暇ですか?」
「明日? 特に用事は」
「じゃあ、その、デートしてください」
「……デート?」
「はい、デート、です」
──ひどく緊張した様子でまりもをデートに誘ってきたのだった。




