宿へ
食事を終えると、宿に案内してもらった。
十五階以上ありそうな、高層宿である。
ガラス張りで作られた魔導昇降機が自慢らしい。
これもミュラー商店が経営しているらしく、バーチで一番の立派な宿だとか。
ヘルタは瞳をキラキラ輝かせながら、宿の内装を眺めていた。
ヴィルやミュラー男爵が戻るまで、ひとまずここで待機しておくように言われる。
一人一部屋用意されたのだが、ヘルタはどう過ごしたらいいのかわからない、と言って私の部屋にやってきた。
「なんか、テーブルには食べ物とか飲み物がたくさんあるし、ベッドには皺ひとつないシーツが広げられているし、床もピカピカで落ち着かなくって」
「わかるわ」
前世の庶民的感覚を思い出してみると、整いすぎた環境というのは戸惑いを覚えるものだ。雑多な日常のほうが落ち着くというやつである。
「テーブルの上にあるものは、好きなときに食べていいのよ」
宿によってはあとから料金を請求させるところもあるが、ここはミュラー男爵のおごりである。食べてもまったく問題ないだろう。
「あの果物の盛り合わせは観賞用? 食べられない飾り?」
「本物よ。食べていいの」
「信じられない!」
ヘルタはそう言いながらブドウを一粒摘まんで頬張ると、瞳を潤ませながら「すごくおいしい」と呟いた。
「こういうの、死んだ母親に食べさせてあげたかった」
こういうとき、婚約者が出てきてもおかしくない状況なのだが、叔父はきっとヘルタを都合のいい相手としか扱っていなかったのだろう。
ふつふつと怒りがわき上がる。
「お母さんの分まで、ヘルタがいっぱい食べないとね。お母さんもきっと喜ぶわ」
「ああ、そうだな」
少しリラックスしてきたのか、ヘルタは窓から見える景色を興味津々とばかりに見ていた。
「すごい、この街ってこんなに大きかったんだ!」
「そうみたい」
こうして高い位置から眺めると、バーチは思っていた以上に大きな街だということがわかる。
ヘルタと一緒に、きゃっきゃと盛り上がりながら街の景観を楽しんだのだった。
それから二時間後にミュラー男爵やヴィルが戻ってくる。
ヘルタには部屋で待っていてもらい、ラウンジに向かった。
「ミシャ・フォン・リチュオル、遅くなって申し訳ありませんでした」
ミュラー男爵やヴィルは私以上にがっつりと働かされたらしい。
身分証なしの職場だったが、ミュラー男爵は銀貨五枚、ヴィルは金貨一枚と、私に比べたらずいぶんと高い報酬が渡されたようだ。
「いやはや、疲れました」
ミュラー男爵は常連客に気に入られ、ひたすら絡まれていたという。
ヴィルはなんと、いかさま師を発見して賭博場で感謝されたとか。
「もう二度と行きたくない」
賭博場は煙草臭く、治安も悪かったようで、気が気でなかったようだ。
正式に働かないかと持ちかけられたようだが、ヴィルは断ったという。
「明日はミュラー男爵に行ってもらおうと思っていたのだが、酒場も大変そうだな」
「ええ……」
私が潜入した繊維工場は低賃金だったものの、癖のある人物や厄介な騒動はなかった。
それどころか、叔父の尻尾を掴んだのである。
「ミシャ・フォン・リチュオル、うちの構成員から、一人女性を連れ帰ったという報告を聞いたのですが」
「ええ、そうなんです。実はその女性、叔父の婚約者らしく――」
ミュラー男爵とヴィルの瞳が驚きで見開かれた。




