宇垣内閣発足とチェコ併合
天皇の意向にそった為とは言え弱腰を批判されとうとう斎藤首相が退陣し、宇垣内閣が発足しました。
そして、チェコスロバキア併合です。
1938年7月中旬頃より始まった張鼓峰事件は一先ず満州国、及び防共協定側の勝利で終わった。ソ連は極東軍の総司令官が降伏に追い込まれた上、アメリカに亡命を許すなど、メンツ丸つぶれの有様であり、このままではとてもではないが済まないだろう。
実際の所、確かにハルハ湖周辺に展開していたソ連軍の大部隊は撤収し、事件前の状態には戻ったが、数十万とも言われる極東軍の殆どは無傷だ。
我が国は、永田の話では天皇の意向が大きかったという話であるが、張鼓峰付近の朝鮮の村落が幾つか爆撃を受けて廃墟と化し、死傷者が出たにも関わらず、不拡散方針を貫いて航空攻撃も含め一切の反撃をしなかった。
その結果、紛争当事国からも外れてしまい、結局アメリカとフランスの仲介で停戦が結ばれ、そこに我が国は入っていない。
つまるところ、今回の張鼓峰事件は数個師団を動員して攻勢を掛けていたソ連軍の背後にはまだ数十万の投入可能な兵力があり、我が軍が朝鮮軍を動かしてそれらが動き出し全面戦争に発展する事を恐れたのだ。
ソ連側の事情までは未だ伝わってきてはいないが、それが可能であるという事が重要視されたのだ。
ところが、今回の張鼓峰事件で我が国の領土がソ連に空爆を受け、民間人に死傷者が出たにもかかわらず、なんの反撃もしなかった事が報じられると、政府の対応が弱腰だと大批判を受けた。
これまで国民に人気が高かった斎藤首相は退陣を決意、後任に宇垣一成元陸軍大臣に組閣の大命が下った。
陸軍大臣には教育総監だった渡辺錠太郎大将、海軍大臣には永野修身大将。
外務大臣は引き続き広田弘毅氏。彼は国民人気も高い上に欧米諸国や中華民国にもパイプが太く、これまでの数々の功績を考慮すれば余人に代えがたしと言うことだろう。
そして、大蔵大臣は引き続き高橋是清氏。この方も大恐慌の影響を最小限に抑えきり、むしろそれを我が国飛躍の好機に変えてしまったその手腕は素晴らしく、この方もまた余人に代えがたい。
商工大臣に中島知久平氏。中島飛行機で有名な実業家だが立憲政友会の代議士として昭和五年より衆議院議員を務め、自ら経済分野の研究所を設立するなど経済通としても知られる実力派だ。
他、逓信大臣に頼母木桂吉氏、拓務大臣に永田秀次郎氏、農林大臣に島田俊雄氏と初入閣も多く、これから宇垣首相を支えることになる続投の広田外務大臣や高橋大蔵大臣の推薦人事も反映されているのだろう。
永田に言わせれば今度の内閣は天皇の意向を反映した避戦内閣だという。
だが、戦時ともなれば軍需省とも言える商工大臣に元軍人で軍需に精通する中島知久平氏を据えたところが、この内閣の本質ともいえ、北の脅威たるソ連に良からぬ意図を抱かせぬ高度防衛国家建設がその主目的とも言えるとの事だ。
この機会に、海軍も永野大将が構想していた組織改革を断行するとのことであるし、やはりこの度の宇垣内閣の成否は我が国の今後を左右しかねない重要な意味を持ちそうだ。
1938年9月上旬、ドイツで行われたナチの党大会でヒトラーがチェコ大統領に向けてドイツ人が侵害されている民族自決権を認めるべきだと演説を行ったらしい。
民族自決権という考え方はヴェルサイユ条約で連合国がドイツなど先の欧州大戦で敗北した中央同盟国から力を奪うために押し付けたまあ屁理屈だ。
なぜなら、連合国はいまだ植民地を多く持っており、それらの地域の民族の自決などはなから認められてなどおらず、二枚舌そのものであろう。
結果としてオーストリアハンガリー帝国というハプスブルク家の帝国はバラバラに分割されて無くなったわけだが。
今度はヒトラーがその屁理屈を逆手に取ってドイツ人を領土ごと回収するなんてことをやらかそうとしているわけだ。
それがつまり、既に併合されて国がなくなったオーストリアであり、チェコのズデーテン地方と言う訳だ。
今年の5月頃からズデーテン地方に住むドイツ人が同地方の分離とドイツへの併合を求める民族運動が激化しだした事に受けてのヒトラーの行動ではあるのだが、そもそもなぜ今民族運動が急激に高まり激化したのだろうな。
おそらくズデーテン地方だけでは済むまい。
その後、ヴェルサイユ条約体制の維持を望んでいるイギリスが早速動き出し、チェンバレン首相がドイツ側の殆どの要求を呑むことで戦争回避することをチェコスロバキアに要求した。
つまり、チェコスロバキアが犠牲になることで再び欧州大戦の悲劇を回避すると言うことだ。
チェンバレンはヒトラーと会談し、ヒトラーは要求を飲めば戦争行動は起こさないと約束したと、チェコスロバキア政府に屈服を強要。結局、要求を蹴れば英仏という後ろ盾を失ってしまう事を恐れたチェコスロバキア政府は屈服しズデーテン地方の割譲交渉に応じた。
それを見て、かつてスロバキア地方とカルパティア・ルテニア地方をチェコスロバキアに奪取されたハンガリー王国が両地域の割譲を要求。さらにはポーランドもテッシェン全域の割譲を要求し、恫喝するかのように軍隊を動員してみせ、ヒトラーはチェンバレンに両国の問題も同時に、そして直ちに解決しなければ交渉を拒否すると通告した。
ここに至って穏当には済まないと気が付いたのかチェンバレンは一転してチェコスロバキアに軍の動員を許し、フランスも動員を行った。なんとか事態の沈静化を図りたいイギリスはイタリアに仲介を依頼、ムッソリーニがヒトラーと会談し最後通告の期限が延長され29日に独仏英伊の首脳会議がドイツで行われた。
結局、ムッソリーニの仲裁もヒトラーには届かず、ヒトラーの要求は完全に認められることになった。
チェコスロバキアはズデーテン地方全域を10月上旬までにドイツに明け渡すことが決まり、またハンガリーとポーランドの要求地域は人民投票で帰属が決定されることになった。
チェコのベネシュ大統領はイギリスに亡命し、エミール・ハーハが後任の大統領となった。チェコは文字通りクーデター同然に政権が入れ替わり、第二共和国と呼ぶようになったそうな。
チェコスロバキアは国民の政府に対する不信感が高まり、民族運動も激化する。
裏でそれを煽ってる国はやはりドイツであり、ドイツに倣ったハンガリーでありポーランドなんだろう。
チェコのズデーテン地方は協定が成立して僅か十日でドイツへ割譲、軍による占領を認めたため程なくズデーテン地方はドイツが占領し切り取った。
テッシェンは人民投票によってポーランドへ編入されることになったが、スロバキア、そしてカルパティア・ルテニア地方は、領域が分断されてしまう為、民族運動が激化しスロベキアではティソ、カルパティア・ルテニアではヴォロシンという指導者が首班する自治政府が成立したため、ハンガリーへの割譲は実行されなかった。
その後、激化する民族運動をチェコスロバキア政府は抑えきれず、イギリスもフランスもそしてイタリアにも頼ることが出来ず、ドイツに協力を要請するが、ドイツは待ってましたとばかりに実質的にチェコそのものの併合を意味する要求を突きつけ、チェコスロバキア政府はドイツによる支援を諦める。
チェコスロバキア政府は実力行使に出て、2つの自治政府を解散させるが、それこそヒトラーのシナリオ通りだったのか、スロバキア自治政府のティソを呼び寄せて保護国化を認めさせ、スロバキア共和国として独立、同時にカルパティア・ルテニアも独立を宣言し、カルパト・ウクライナ共和国を成立させるが、これまた都合よく準備万端のハンガリー軍がなだれ込み3日で消滅した。
こうして1939年3月15日チェコを保護国化し、翌16日にはスロバキアにもドイツ軍が進駐し、実質的にチェコスロバキア共和国は消滅した。
1939年3月17日にチェンバレン首相がドイツの行動を不当なものであると激しく非難し、「我が国は戦争は無分別なものであると信じるが、かかる挑戦に対しても無気力であると想像するのは激しい間違いである」と抗議するがそれ以上の行動には出なかった。
イギリスの欧州における宥和政策はドイツの勢力拡大を齎した。
カルパティア・ルテニアを獲得したハンガリーはドイツとの交渉でスロバキア全土をも獲得しドイツが主催する防共協定に加盟した。
ハンガリーが加盟したことを受けて、周辺国であるルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアも防共協定へと加盟し、中央ヨーロッパの一大勢力へと発展した。
それに危機感を抱いた、イギリス、フランス、イタリアの三カ国は正式に協定を締結し有事に備えることとなった。
膨張する軍事力を抱えるドイツは果たして西に行くか東に行くか。
ヒトラー自身はチェンバレンに防共協定の重要性を訴え、イギリスもこれに加盟することを求めたらしいが、今度のチェコ併合でご破産だろう。
満州国に進出していたチェコスロバキアやオーストリアの企業は、ドイツ政府の管理下に置かれることを要求され、実際に本国にある本社はドイツ政府の管理下に置かれたが、ユダヤ系であるCKD社のエミール・コルベンなど本国に戻れば拘束されかねない人々が、本社から独立し満州国の企業として再出発することにした様だ。
それを見て、本国の不甲斐なさと強引に祖国を併合したドイツに反感を抱いたチェコ人も加わり、ドイツの命令に従って帰国した人たちとそのまま残った人たちに別れることになった。
その結果、以前通りとはいかないが、満洲国政府の支援もあり進出してきていた企業の多くがそのまま満州国に残る事になったようだな。
例のチェッコ機銃の開発者のホレクも帰国せずそのまま満州で仕事を続けるらしく、新たに開発した短機関銃を売り込みに来ていた。
戦車兵など操縦者向けの護身用の短機関銃を想定しているとのことで、折りたたみ式で極めてコンパクトに作られていて、初めて見たときは俺も驚いた。
何しろ弾倉が見当たらない。
トンプソンにせよベルグマンにせよ短機関銃で一番出っ張っていて目立つのが弾倉だから、初めて見たときはこれに弾倉を差し込むのかと思ったぞ。
ところが、ハンドガードのとこから差し込むという一風変わった方式をしており、コンパクトな車載型が三〇発のカートリッジ、歩兵向けの折りたたみ式でない木製の銃床を取り付けるタイプはなんと七〇発もの9mm弾を持つことができるらしい。
しかも、機構はこれまで見たこともないような仕組みで動くが、さすがチェッコ機銃の開発者が作った短機関銃だけに、安価に大量生産ができるほど生産性が高く、信頼性も高いらしい。
我が陸軍は自動小銃を採用した関係から、短機関銃をそれほど多くは採用しない可能性があるが、すでに採用しているトンプソン短機関銃は作りと性能は素晴らしいがこれに比べると少々高価だ。
かといって、車載にするにはトンプソン短機関銃はコンパクトとはお世辞にも言えず、今はピストルと車載機関銃くらいしか搭乗員が持ち出せる武器がなく、車載機関銃は必ずしも迅速に取り外して持っていけるとも限らない。
その点、このコンパクトな短機関銃は魅力的であり、早速採用を検討するためにある程度まとまった数のサンプルを購入することになった。
こういうのはやはり一度現場で使ってみないことにはな。
チェコスロバキアは併合されましたがチェコ企業は満洲国に残りました。
実際のところ、チェコ企業の多くはドイツ併合時代にかなりひどい目に会いました。
本作世界ではCKDやシュコダ、タトラなどが満洲国でそのまま発展を遂げるという未来を得ました。




