2「雅嵩村」
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急峻な崖に挟まれた一本道を抜け、果たして夕刻、雅嵩村に到着した。
村の入口で車は停まり、降り立つ。それほど大きな村ではないという話だったが、起伏に富んだ土地のために全貌は見渡せない。削ったり積んだりの工夫によって各所に畑をつくり、家屋を建てている。その合間を、種々の勾配を持つ細い坂道が猥雑に入り組んでいる格好だ。舗装なんてされていようはずもなく、車はこれ以上は進めない――そもそもこの車は、外に働きに出ていた松尋さんの持ち物で、村では必要のないものだった。
迫るような深緑の山々の中に造られし古びたミニチュア。時代に取り残されたうら寂しさは、外来の僕だからこそ感じるものだろうか……ともあれ、夕陽も山に隠れて何やら暗鬱とした影の中にドップリ沈んだこの景観は、誰が見たって屍の村とでも形容したくなる。汚染を知らぬ空気……その濃密な青臭さにも、いっそ息苦しさを覚えた。
「さァ……こちらです。お二人にはあたしの家に滞在していただきます……実はあたしら松の家は雅嵩村では御三家に数えられる偉い家柄で、でありますからして、この村における持て成しの中では出来得る限りの最上に相当しますゆえ……無論、不便は多いかと存じますけども、どうかご容赦を……」
進んで僕らの荷物まで持ち、薄暗い隘路を先に立って歩いて行く松尋さん。
「壮太、」
煙草をぷかぷかやりながら、無花果は澄まし顔で辺りを眺め回している。
「この村にいる間、私の肌に何か虫が触れるようなことが一度でもあれば、それは貴様の手落ちです。そのときは、そうですね……去勢でもしてもらいましょうか」
無理をおっしゃる。
無花果は衣替えしていて、生地は薄く、ノースリーブで丈も短いドレス姿だ。色は相変わらずの漆黒で、そこから覗いた手足の病的な白さとのコントラストが、人形めいた印象をさらに強めている。肩甲骨の下まで伸びた金髪は太めのおさげにしてあり、これは彼女には珍しい髪型だった。
ポツポツ通り過ぎる日本家屋。ユラめく明かりが障子窓から漏れている。電気は引かれておらず、ならば蝋燭でも使っているのだろう。いくつかの玄関や庭に据えられた灯篭にも火が燈っていた。しかし人の話し声……気配がまったく感じられない。あるいは息を殺した者達が大勢、陰から僕らを観察しているかのよう……と云っては自意識過剰か?
無花果はそんな緊張など一抹も抱いていないらしく「金よりも露骨に表れる貧相の度合いとは何だか分かりますか?」なんて得意気に目配せしてきた。
「分からないな」
「美的センスですよ。財が足りずとも、それさえあれば見れるものにはなるのです」
「へへへ……」
前をゆく松尋さんが笑った。存外、耳聡い。
「……済みませんね……あたしらの村はそりゃあ、甘施さんのような立派な方にとれば見れたモンじゃありますまい……」
卑屈な人だ。例によって、僕が間に入りフォローする。
「そんなことありませんよ。都会人が縁遠くなってしまった日本の風情と云いますか、味があると思います」
「はっ。つまり日本の味とは、土に塗れた草に虫の糞というわけですか。参りましたね」
狭苦しい車内に一日中押し込まれていたせいか、無花果の突っかかり方はほとんどやけくそだった。都会っ子の彼女だから、今度の仕事はいつもより雑に対処して早めに切り上げようとでも考えているに違いない。
……遠くから微か、琴を爪弾く音が聞こえてきた。
「『みだれ』ですね」
無花果がおやと片眉を上げる。
「へい……村の数少ない娯楽です……大抵は女子供ですけども、嗜む者はいくらかおります……」
陽は沈み、熱は冷えていく。筝曲『みだれ』の旋律は、寂しげに寂しげに、染み込んでいくみたいだった。
松家は村の奥に位置しており、着いたころにはすぐ近くの無花果の表情もよく窺えないほどに暗くなった。御三家と云ったか……他と比べて立派な構えの邸宅。〈古い〉〈汚い〉のネガティブな印象とは異なり、年季が入って荘厳の観である。周囲をグルリと囲んだ石塀は堅牢な空気さえ醸していた。
名前のとおりに松が植えられた前庭を通って玄関に至り、松尋さんは擦り硝子が嵌め込まれた戸をガラガラ開けて「おれだァー……帰ったぞォー……」と声を上げた。有明行灯の明かりにボーッと浮かび上がった土間。陰気に感じるのは、僕らが電気の暮らしに慣れているせいだろう。
「父上!」
横に伸びた板張りの廊下を喜色満面で真っ先に駆けてきたのは、歳のほど十二、三の少年だった。散切り頭にあどけない顔つき。浅葱色の浴衣を着ている。僕と無花果に気が付くと、一瞬ビクッと身を固くした。
「息子の松鵺です」
松尋さんが紹介してくれたが、当の松鵺くんは警戒している様子で父の陰に回った。無花果は「ふん」と口をちょっと曲げた。彼女は子供が大の嫌いだ。
「アラ……よくおいでくださいました」
続いて、程良く熟れた和装の女性が現れる。落ち着いた所作でお辞儀して、和らいだ微笑を浮かべる彼女が松夫人……名を松墨と云うらしかった。物腰、化粧の仕方、艶のある黒髪を上げてまとめて簪を挿した格好なんかも品が良くて、松尋さんの妻というのがちょっともったいなく思われるくらいである。
「お腹はお空きでしょうか? 夕餉をどうぞ。あたくし共は済ませてしまいましたけど、用意はさせてあります……えっと……」
「探偵の甘施無花果です」
「同伴の塚場壮太です」
「この前、話したろう」
松尋さんが妻に向けて胸を張った。
「一級の探偵サンだ。お引き受けくださったんだ。……塚場さんは作家先生で、国じゅうにご本が回ってるんだぞ」
「ハァー……大変なかた達でいらっしゃいますのね。甘施さん……あたくし、伊太利だとか露西亜だとかのかたかと思いました。そう云えば松尋の話では、外のかた達は髪をお染めになるとか。お綺麗なこと……」
キナ臭いまでの田舎っぷりに無花果は鼻白んだ顔で、
「私はともかく、これ――」僕のことだ。「――に関しては、そう立派な人間ではありませんよ。乞食みたいなものです。さて、私達の使う部屋に案内しなさい。食事は其処に運んでくるように」
早速の傍若無人ぶりにも、松夫妻は嫌な顔ひとつせず「へい」だの「はい」だの頭を下げてその通りにした。左に庭を見ながら廊下を大回りして、裏庭の側に部屋が二つ用意されてあったが、無花果は乞食呼ばわりしておきながら僕と同じ部屋でいいと云って、十畳の一間を二人で使うことに決まった。実のところ、いまや無花果は夜は僕と一緒じゃないと寝られないのだ。
松尋さんが僕らの荷物を置いて「今夜はゆっくりお休みください……電気などない村のことですゆえ、就寝の早い生活でございます……ご不便かけますが……」とか何とかへこへこしながら松墨さんと共に出て行って二人きりになると、無花果は長い溜息を吐いた。
「まったく。莫迦にしているじゃありませんか」
おかっぱ頭の女の子――とは云っても、成人は迎えているだろうか。葺末と名乗る彼女は女中とのことだった。どうやら雅嵩村の人間は姓と名がそれぞれ漢字一字ずつで、これをひとまとめにして呼ぶのを普通としているらしい。夕餉を運んでくると、続いて隣の部屋から僕が使う布団一式を移して無花果のそれと並べて敷いた。
「お食事が終わりましたらすンませんけど、玄関と向かい合った囲炉裏の間においでくだせェ。其処か、隣の台所にあたし居りますンで。風呂を焚いてあります、ご案内さしていただきます。あとお水ですけど、万一なくなりましたらあたしに云ってくだせェ。其処ン庭に見えとります井戸は枯れとりますから。あと厠は――」等と座礼して述べ立て、また出て行った。
食事は玄米、畑で取れた作物と山菜に薄い味付けをしただけの質素なものだった。自給自足。外との交流もほとんどないという話だから村の中で上手く回しているわけで、ならば貨幣も要らないだろう。松尋さんが二十年で五千万貯められたのは、大きくそのおかげと思われる。
……まぁ、まだ受け取っていない残りの三千万が、無花果を呼びたいあまりに出たハッタリとも限らないけれど。
「不味い。段ボールでも食べた方がまだ良いくらいですね」
無花果は白目でも剥きそうに毒づいて、
「おそらく、土着信仰です」
窓外――木々の黒いアウトラインのみが月明かりに浮き上がっている庭へ視線を投じた。
「こんな場所で閉鎖的な暮らしを続けている。外からの接触も幾度となくあったはずですが、拒んできたのでしょう。そうまでして此処に留まり古くからの生活を受け継いでいるのは、この土地と深く絡んだ信仰を絶対的なものとして抱えているからと考えられます」
「うん。例の云い伝え――罪人が空に落とされるとかいうのも、そのひとつなんだろうな」
「しかし、その絶対性に揺らぎが生じているようです。松尋が私達外部の人間を連れてきたことによく表れていますね。不審か、無理解か――いずれにせよ、竹呉が〈空に落とされた〉理由も同じところにあるのでしょう。下手に不可侵の領域であるがゆえに、松尋も村の中ではその秘密の解明に行き詰まるというわけです」
「おっかないね。僕らもせいぜい〈神様〉の怒りに触れないよう立ち回らないと」
「何をとぼけているのですか」
無花果は箸を置き、不遜な態度で顎をしゃくり上げた。
「その実態がどんなものであれ、私は〈神〉より上位にいます。ここはひとつ真っ当に、地に叩き落としてあげませんとね」
格好良い台詞を吐いてみせたものの、それから一緒に風呂に入った後に一緒の布団に入って就寝となると、寝言なのか何なのか「ぅん……壮太ぁ……」なんて甘えた声で僕にべたべた絡み付いてくる無花果なのだった。寝間着もだらしなくはだけている。前に彼女の寝相について指摘したら背負い投げされた思い出があるので、僕は大人しく絡み付かれるがまま。山の夜。虫の声。深く沈むアトモスフィアー……。




