〈エピローグ〉
久し振りに、ひとりで喫茶店『フェレス』に来た。桜生塔事件以降、無花果は僕が一緒にいてやらないとすこぶる機嫌が悪いのだ。
一番奥の席。適当に目を通した新聞をテーブルに置いて、珈琲を一口啜る。
昨日、ようやく桜生塔で複数の死体が発見されたらしかった。数人の信者と、それから教祖・薄桃セピアの死体。内部抗争の末に、生き残った者達はどこかに逃げてしまったと考えられている。ちなみに薄桃セピアは逃亡中の詐欺師で、ジェントル澄神との関係もそこにあったとのことである。
死体が見つかった経緯は何だろう。入信希望者が訪れて発見したのか、逃亡した信者達のひとりが通報してやったのか、あるいはスポンサーをはじめとする外部の協力者が連絡を取れないことで不審に思ったのか……いずれにせよ、〈桜生の会〉が終わったことに違いはないけれど。
カランカラン――と、ドアベルの小気味良い音が響いた。
「やぁ、塚場くん」
桜野が這入ってきて、当たり前のように僕の正面に腰掛ける。
……ここ数日間、ずっと僕がひとりになるのを待っていたんだろうか? 甘井無果汁でもあるまいが、暇な奴だ。
「ありがとう。上手くいったみたいだね」
僕は新聞を指でトンと叩いて云った。
「礼には及ばないよぉ。昔のよしみだ」
あっけらかんとしたものだが、彼女が目にしたのはなかなか派手な光景だっただろうにと思う。
桜野には今回、〈桜生の会〉を潰すのに協力してもらった。僕らは時々『フェレス』で会うことがあったから、桜生塔に行く数日前に頼んでおいたのだ。
〈桜生の会〉を潰すには、『桜野美海子の最期』が偽書であるのを暴いたり殺人事件を起こしたりするのもいいけれど、最も効果的なのは本物の桜野美海子を登場させることであった。
本物の桜野美海子が生きていると分かれば、その生まれ変わりを自称する薄桃セピアならびに教団の教えがすべて嘘だったと一気に判明する。
簡単な話だ。殺人事件の最中で極度の興奮状態――集団ヒステリーに陥っていた信者達は、本物の桜野が現れたことで偽の神・薄桃セピアを殺したのである。
「だけど、あの信者の人達を撒くのにはちょっとだけ苦労したかな。皆して私について来るんだもんねぇ」
そこで珈琲とマドレーヌとガトーショコラが運ばれてきて、至福の表情を浮かべた桜野はそっちに夢中になった。平らげるのを待ってから、僕は訊ねる。
「お前がバイオレント紅代の運転する車に乗っていたのは、どういう経緯だったんだ?」
「電車で麓まで来たはいいけど山に登る足がなかった。そこに紅代さんの車が下りて来たから、ヒッチハイクして引き返してもらったんだ。別に知り合いだったわけじゃないよ。たまたま偶然。いまも交流はなしー」
「へぇ」
本当かは分からないが。
だがバイオレント紅代も僕を利用しようとした以上、色々と察して協力はしていたのだろう。無花果が簡単に入り込めたのも、おそらく彼女が裏で取り計らったのがひとつ理由に違いない。
もっとも僕が〈桜生の会〉からの招待を受けることにしたときにはさすがにバイオレント紅代が噛んでいるとは考えなかったから、僕が会を潰そうとした理由は別段、海野島の事件で酷い目に遭わせたお詫びというわけじゃなかった。
何のことはない。無花果が〈桜生の会〉――〈桜野美海子の亡霊〉を疎ましく思っているのは分かっていたから。それだけだ。無花果が邪魔に思うものを、僕はできるだけ排除する。いつもやっていることだ。
だから無花果にもいちいち云わなかった。云うだけ野暮だし、無花果が〈桜野美海子〉を気にしていることを指摘したら怒るだろうと思ったのだが、まさかそのせいで意思の疎通が十全に為されず、無花果も単身桜生塔に乗り込んでいたとは。
無花果の行動が意外だったとは、そういうことである。
僕が思っている以上に、無花果の僕への依存は進んでいた。
「ところで、」桜野が口を開く。「私からもひとつ訊きたいんだ」
「何?」
「甘施さんがああするって、塚場くんは予想してたんだよね」
その目が少しだけ細まった。
僕の奥底を見透かそうとするように。
「一部を除いてだけど、犯人が甘施さんだったのは分かってるよ。私は残った信者の人達から一連の出来事を聞いたし、君が運転する車にそれっぽい子が乗ってるのも見ていたからね。簡単な推理だ」
無花果の犯行については、否定したって仕方なさそうだ。
だが、もうひとつの答えについては、
「意外だったよ」
「意外――でも予想外じゃなかったんだね」
桜野はにへらと笑う。
「なんて、これは言葉尻を捕まえただけだ。だけど〈意外〉〈予想外〉――もし本気でそう云ってるんだとしても、不思議はないかな。重度の嘘つきは自分のことをも欺いてしまえるものだ。塚場くんさぁ、自分の本心とかそういうの、自分でも分かんなくなっちゃってるでしょ? とっくの昔に」
「カウンセリングも趣味になったのか」
「いやいや、ミステリの話だよ。君が書いてる小説がどうとかじゃなくて、つくづく君って〈信用できない語り手〉なんだなって思うんだ。何も予想していないようでいてすべてを予想している。すべてを考えているようでいて何も考えていない。だから君は何が起こっても驚かなくて、『ああ、やっぱり』とか『まぁ、そういうケースもあるか』って感想しか抱かないんだよ。自分のことに対してさえね」
生き生きと、本当に楽しげに話す桜野。
「ああ、可哀想な塚場くん。でも考えてごらんよ。君は甘施さんがああするのを予想していただけじゃなくて、そうするように仕向けていたんだ。そうでなかったら、君が桜生塔に行く必要はなかったじゃないか。私を送り込むだけで〈桜生の会〉は潰せたじゃないか」
「ああ、なるほどな」
これは久方ぶりに、一本取られた気がしなくもない。
「だけど君は自ら桜生塔に行き、私には一日遅れて来るように指示した。君は私が来るまでに信者の人達を興奮状態に追いやり、リアリティのレベルを大幅に低下させていた。だから彼女達は現れた私をすぐに受け入れて、薄桃セピアを殺すなんて行動に出られた。そうじゃなかったら、〈桜生の会〉は潰れたけど薄桃セピアの殺害までは起こらなかっただろうね。そして、これには甘施さんがああいった事件を起こすことが前提とされている」
でもねぇ、と桜野はそこで首を横に振った。それもあくまで愉快そうだ。
「どうして君が甘施さんにそんなことをさせたのか――これについては確かな答えが分からないんだ。甘施さんを試そうとしたのか、甘施さんの自分への依存度をさらに深めようとしたのか、それを顕在させることで弱みを握ろうとしたのか……どれも正解なようでいて、いまいちしっくり来ない。それはおそらく、君自身にもそれが分かってないからじゃないかって思うんだよ」
「……思うんだよって云われてもな。僕にも分からないんだろ? 無知の知でも確認したいのか」
「ううん、私はただ真実が欲しいだけだよ。そして君の真実――君という謎を解いてそれを掴めたなら、どんなに素敵かって常々考えてるんだ」
真実とか何とか、まだ諦めていなかったらしい。
「ふふ、思えば私が昔から君と一緒にいたのも、君ほどの謎は他にないからだったのかも知れないね。うん、だから今日は云いに来たんだ」
穏やかに、桜野は告げる。
「私は君の敵になることにしたよ。真実を手に入れるため――君を手に入れるため、私は君と対立する」
ミステリを愛する者として、君みたいな輩が許せないってのもあるしね――なんておどけたふうに付け加えて、彼女は席を立った。
背中を向けて、もう別れの挨拶はなかった。
賢明な判断だと思う。
無花果のため、僕は君を生かしてはおけないだろうから。
カランカラン……。
しばらくして僕もまた、無花果の待つ家へと帰った。
【教団〈桜生の会〉・桜生塔編】終。




