14「カタストロフィ」
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誰もいない、誰も見ていないことを確認してから――階下からは騒がしい声が聞こえるが――九〇三号室を出て、エレベーターに乗り込む。『10』のボタンを押して梯子を上り、十一階へ。
十一階にも人の姿はなかった。カーテンで仕切られた一角に、僕は迷わず這入る。
「――新しい情報は何も掴んでいないの? 何をやってるの。もたもたしていると――」
薄桃セピアはいつもの椅子に腰掛けたまま、電話越しに声を荒げていた。桜生塔にはインターホンの他にも、内線を取り付けてあるようだ。
彼女は僕に気付いて「――また連絡するわ。それまでに成果を上げなさい」と通話を切る。それから取り澄まして、
「どうしたの、壮太」
「調子はどうかなと思いまして。僕は無果汁ちゃん側とか薄桃さん側とかじゃなくて、これ以上殺人が起こらないで欲しいと願ってるだけですから」
「調子? もちろん、上々……」
その顔が曇る。
「……とは、云い難いわね。それは認めるわ」
「まだ桜野の声は〈見えて〉いないんですか」
そこでしばらく、間があった。
「白々しい」
苦虫を噛み潰したようだった。
「最初から貴方、信じてないんでしょう?」
僕は無言という肯定で応える。薄桃セピアは肘掛けをギリギリと握り締める。
「貴方を招いたのは失敗だったわ、大失敗だったわ、塚場壮太」
「僕を招くよう進言したのは誰ですか? 貴女の発案ではないはずです」
特別講師なんて理由を付けてはいたけれど、来てみれば指示もぞんざいで、僕に何をやらせたいのか全然定まっていなかった。建前としてすら、お粗末すぎた。
「鯖来よ。そうでなかったら、部外者なんて入れるものですか」
「鯖来来館――彼女は常に此処にいるわけではないんですね? それどころか、本当は此処の信者じゃありませんね?」
薄桃セピアに一瞬動揺が表れるのを、僕は見逃さない。
「彼女はバイオレント紅代ですね?」
ジェントル澄神の助手。〈桜生の会〉のスポンサー。脱獄した彼女は、此処を潜伏先のひとつとしていたのだ。しかしスパイの存在を感じ、もう此処を捨てることにした。それに際して僕を招くことにした。僕が来ればきっと、この会が崩壊すると考えて。
薄桃セピアもやっと今、それに思い至ったようだった。
「…………疫病神だわ」
充血した目が僕を映している。
「私は桜野美海子の生まれ変わり。いくら貴方達が認めなくたって信じなくたって、それが真実。私は桜野美海子。神。だけど桜野美海子は名探偵なのに、この四年間、こんなことは一度も起こらなかった。殺人事件なんて起こらなかった。それが貴方が来た途端よ。貴方が来た途端にこの有様よ。呪われているんだわ、貴方」
むしろ彼女の方が、ひとつひとつの言葉に呪詛を籠めるみたいに続ける。
「貴方といると不幸になる。貴方といると死んでしまう。分かる? 分かるでしょ? 分からないとは云わさないわ。ねぇ!」
「はい、分かりますよ」
「じゃあ出て行ってよ。今すぐ出て行って。貴方がいなくなれば、何も起こらないんだから。完璧なんだから。私は神なんだから。出て行け、神の圏域から。汚らわしい。これ以上私を冒涜するな。出て行け。出て行けっ!」
神は口からみっともなく唾液を垂らしながら吠える。
僕はその注文に従って、十一階を後にした。
九〇三号室に戻ると、無果汁ちゃんが首なし死体となっていた。
ドレスの背中に帽子掛けを通されているらしく、その死体は直立して僕を迎えた。
漆黒のドレスには血が染み込み、蛍光灯の光を照り返して不気味に輝いている。
四年前、枷部・ボナパルト・誠一は白生塔に来る前に首を切られ、白生塔にはその首だけが持ち込まれた。首はエレベーターに乗せられて僕らの前に姿を現した。ならばこれは……。
僕はドレスのスカートをめくって納得する。無果汁ちゃんの首はそこにあった。腰に巻き付けた紐に繋がれて、股の間で揺れていた。
杭原とどめの推理に見立ててあるのだ。杭原とどめは、甘施無花果が犯人で枷部・ボナパルト・誠一の首をドレスの中に隠していたのだと云った。
無果汁ちゃんの首は〈枷部・ボナパルト・誠一〉として、しかし胴体を処理する時間がなかったためにこのようなかたちとなったのだろう。
しかし、それはどうでもいい。
僕がいない時を狙って無果汁ちゃんが殺されるのを、僕は確認したかっただけだ。
薄桃セピアと話をしたのはその機会をつくるためだけであり、鯖来来館がバイオレント紅代だって何だって、知ったことではない。
重要なのは、犯人には此処で無果汁ちゃんがひとりでいることが分かったのだということ。
つまり、この部屋には盗聴器が仕掛けられているということ。
僕は再び探知機を使って簡単に調べ、しかし一切反応しないことまで確認した後に、荷物をまとめて部屋を出た。
上も下も、塔全体が騒がしい。
エレベーターの扉が開くと、中から三人の信者が飛び出してきて僕とぶつかりそうになった。
「あっ、塚場様!」
「大変なんです! 域玉が刷部を殺したんです!」
「刷部の首を切って、胴体をバラバラに刻んでトイレに流そうとしているところを他の者が見つけて!」
「でも域玉はいままでの犯人とは違うんです!」
「域玉は自分も桜野美海子様に到達するために殺人犯の仲間入りをしようとしたんです!」
「今は六〇二号室で数人がかりで押さえ込んでるんですけど、とにかく酷い暴れようです!」
「錯乱しています!」
「半狂乱です!」
「抵抗に遭って二人が負傷しました!」
三人が順繰りに報告している最中、また新たに五人ほど上から螺旋階段を物凄い勢いで下ってくる。その内の三人は通り過ぎてそのまま下って行ったが、二人は僕らのところで足を止めてまくし立て始めた。
「自殺! 自殺だよ!」
「枚孔さんが浴室で焼身自殺したんです!」
「おそらく桜野美海子様に至るために、桜野美海子様の最期を追体験しようと!」
「殺される前に死んだんですよ!」
「矢衣蒲のは偽装でしたけど、インスパイアされたみたいで!」
「って云うより、殺されちゃったら桜野美海子様に至れないからですかね!」
「しかも紀蕪木さんとか他の人も真似しようとしてて、皆で止めてるんです!」
「ステージの高い人は充分に桜野美海子様に近づいているから、あとは同じように死ぬだけなんだとか!」
「滅茶苦茶ですよぉ!」
その報告がされている途中にも、階下か階上かどこかから悲鳴が聞こえてくる。誰かの名前を呼ぶ怒鳴り声も、正気とはとても思えない奇声も。
「どうしましょうどうしましょう!」
「薄桃様は何をされているの!」
「きっと誰かが報告しているはずですけど……」
「畜生! 結局あいつ、何もできないんじゃないか!」
「な、何を云っているのよ狩草!」
「うるさい! 事実だろ! まだ事件を解決できないでこんなことになってる! 神なんかじゃない!」
「取り消しなさい狩草!」
「今なら許されるわ!」
「いえ、私もそう思うわ」
「え、岨野さん!」
「私は桜野美海子様を信奉しているの。だから入信したけれど、薄桃セピアには最初から懐疑的だったわ」
「そんな!」
「やめてください!」
「こんな状況だから、おかしくなってるんですよ!」
「お前、私がおかしいって云うのか!」
「ひいいいっ」
「もう嫌だあ! 帰りたいい!」
「私も死んでやるんだから! 桜野美海子様のところに行くんだから! あんなインチキ女の中じゃなくて、桜野美海子様は別のところにちゃんといるんだから!」
仲間割れをして取っ組み合う信者達からひとりだけ距離をおいてあわあわ震えている子がいたので、僕はその子に声を掛ける。
「ねぇ、君」
「は、はいぃ!」
「この会に一番最近入った子って誰?」
「え……それは巻砂ですけど……」
「いつ? 入信したのは」
「えっと、つい数日前です。しばらく振りの入信者でした」
「どんな子? 外見を教えて」
「えーっと、小っちゃくて、おかっぱ頭で、あといつもヘッドホンつけてます」
「今どこにいるか分かる?」
「え、すいません……ちょっと分からないです」
「そっか。ありがとう」
「ちょ、ちょっと塚場様、どちらに行かれるのですか? あ、あと無果汁さんは?」
「気にしないでいいよ。無果汁ちゃんなら殺された」
蒼白になって固まってしまったその子のことは放っておいて、僕はとりあえず螺旋階段を下る。
各階をざっと調べていって、六〇二号室の中で半狂乱かつ血まみれの域玉という子を抑え込んでいる信者達のさらに取り巻きの中に、ヘッドホンをつけた子を見つけた。
僕はその子の手を掴む。その子はヘッドホン――ずっと僕の部屋の音声を盗聴していたヘッドホンを外し、僕を見上げた。
周りの信者達が、発狂する域玉の声をBGMにしつつ僕に云う。
「塚場様! こいつが血迷って刷部を殺したんです!」
「浴室で胴体を解体して、そのままトイレに流そうと……」
「〈枷部・ボナパルト・誠一〉の殺害状況をなぞろうとして!」
「あれ、塚場様、どうしてトランクケースを?」
「コートまで羽織って……まさかお帰りになるんですか!」
「ええ!」
「私達、どうなるんですか!」
さらに六〇二号室に信者がひとり駆け込んでくる。
「鯖来さんを見ませんでしたか! 姿が見えなくて、薄桃様のところにもいないようで!」
バイオレント紅代。もう塔から逃げ出したのだろう。
僕は皆に「大丈夫だよ。すぐに神様が来るから」とだけ云って、ヘッドホンの子の手を引いて歩き出す。
「神様? 薄桃様が動いてくださってるのですか?」
「本当に?」
「本当に、ってどういうことよ!」
「だって……薄桃様、何もしないじゃないですか」
「桜野美海子様ならこんなことになって放っておくわけがないのに」
「あの人、本当に桜野美海子様の生まれ変わりなの?」
「全然桜野美海子様と違うじゃない!」
「あっ、塚場様……」
「どうして巻砂を連れて?」
「どういうことなんですか、塚場様!」
エレベーターの扉が閉まって、それらの声はシャットアウトされる。
次にエレベーターの扉が開くと、其処は一階。サロン。
階上の喧騒を聞きながら、僕は迷わず玄関へ。
二重扉――その内側の方を開けると、外側の方は開きっぱなしで、足元には死体があった。うつ伏せで、首からナイフの刃が飛び出している。名前に〈かな〉が含まれているとか云っていた信者だ。域玉みたいに、自分も桜野美海子に至りたいと考えた誰かがフライングして〈藍条香奈美〉を殺したのだろう。
死体を跨いで外に出て、真っ直ぐ僕の車へ。
後部座席のドアを開けてトランクケースを座席の下に置いて、それからヘッドホンの子を乗せて座らせる。僕も同じく其処に乗り、後ろ手にドアを閉める。
ずっと無言の少女は、不機嫌そうな顔で僕を睨んでいる。顔はメイクで変わっているものの、〈桜生の会〉から招待状が届いたことを知らせたときと同じ表情だ。
「僕より先に来ていたんだね、無花果」
盗聴器を見つけるための探知機――その探知機そのものの方が、反応しないように細工を施されていた。僕が此処に来る以前に。
無花果ならそれができた。
「やっと気付いたのですか。貴様はつくづく間抜――」
怒っている無花果は唇を突き出していた。僕はその唇を、自分の唇で塞いだ。
すぐ目の先で、無花果が目を見開く。
その手が僕の肩を掴んで、強く強く爪を立てる。
けれど僕はそのまま無花果を座席の上に押し倒して、彼女の咥内に舌を入れる。
くちゃくちゃと音が立つ。
無花果は僕の舌を噛んだりはせず、やがて自分のそれを絡ませた。
その目は閉じられている。
肩を掴んでいる手にも、僕を押し退けようとするのではなく、今や僕を決して離さないように力が籠められている。
そうやって熱いキスを交わした後に、僕は云った。
「帰ろうか。もう此処にいる意味はない。僕にとって大事なのは、お前だけだ」
無花果は僕を睨む目にいつもの鋭利さがなく、どころか少し潤んでいて、歯をギリリと食いしばった後にそっぽを向いてしまった。
「…………知ってますよ。馬鹿」




