6「言葉の限界性」
6
時刻はもうじき午後八時。
食堂は館の一階奥に位置していた。
中央には横向きに長テーブルが置かれ、背の高い椅子が並べられている。壁に取り付けられた照明、それから長テーブルを取り囲むように据え置かれたランプが、明るすぎず暗すぎずの絶妙な按配で室内を照らしている。
俺と葵は窓際に立って外の景色を眺めていた。満天の星空と、それを映す夜の海。島の南側は北側と同じく、一面に草が広がっているだけで何もなかった。
「この島、大津波なんかが来たら一発で飲み込まれそうだけど平気なのかな」
「館の中にいても危険そうだよね」
葵も首を傾げる。館はだいぶ丈夫そうだけれど、自然の猛威というのは生易しいものではない。まぁ俺達の滞在中に天気が大荒れとなる心配はないし、気にすることないか。
「賽碼様と草火様はこちらにお掛けください」
播磨さんから声が掛かる。彼が引いてくれた椅子は長テーブルの手前側、その左端の二つだった。対照となる右端の二つには、右に妃継さんと思われる黒髪の女性、左に金髪の女性が既に座っている。
俺と葵は勧められた椅子に、左に葵、右に俺というかたちで腰掛けた。長テーブルの手前側には、他に空席が二つ、俺と金髪の女性との間に並んでいる。その二つの空席の向かい側に、こちらも二つ空席。手前に六つ、奥に二つなのでゲストとオーナーという分け方なんだろうが、ならば播磨さんが有為城煌路の隣に座るのだろうか?
それからもう一点、注意を惹くものがある。長テーブルの上には播磨さんの手による豪勢な料理が半分ほど並べられていて、その中――ちょうど有為城煌路のものだろう席の前あたりに、ノートパソコンがひとつ置かれているのだ。さらにそれと繋がれて二つの席の間に置かれた台の上に乗っているのは、どうやらプロジェクタらしい。今はまだ起動していないが、それが映像を投影するだろう先――奥の壁には、スクリーンも張られている。有為城煌路は俺らに何か見せるつもりなのか?
「ははは、〈灯篭流し〉を彷彿とさせる眺めですね。藍色の絨毯とランプの色合いがそうさせるのでしょう」
愉快そうに笑いながら、澄神さんが食堂に這入ってきた。
「今宵集まったのは推理小説家。紙とペンだけで数多の人々を殺害してきたわけです。それらの魂を弔ってやるなら、なるほど、この虚構と現実の境とも形容すべき舞台は誂え向きと云えますね。なんとも粋な計らいですよ」
澄神さんはひとりだった。彼は隣の厨房とを往復している播磨さんを見つけ、
「播磨氏、矢峰くんの分の料理を持って行ってもいいですか? 彼は船酔いしてから体調を悪くしてしまってね、晩餐には列席しないと云うんですよ。なんとも間の抜けた話ですが、病人さながらの彼を交えて食事をしても捗りますまい。せいぜい今夜は休ませようと私も思うのですが」
「承知しました。有為城様には私の方からお伝えしておきましょう。お食事も私がお運びいたしますので、澄神様はどうぞお掛けになってください」
「いえ、友人の尻拭いは私が。なに、食欲も起こらず少量でいいと云うので、私ひとりで間に合いますよ」
澄神さんは皿を二つだけ持って一旦辞し、戻ってくると俺の右隣に座った。
「矢峰さんは大丈夫なんですか」
「心配には及びませんよ。いつものことです。皆さんの前ではあれでも気丈に振る舞っていましたが、彼はちょっと貧弱でいけない。ところで、いよいよ有為城氏とご対面ですね。私は彼の文学を精神的にネオテニーの文学と呼んでいまして――」
澄神さんの有為城煌路評を聞いているうちに晩餐の準備は整い、播磨さんが改まった口調で告げた。
「それでは、有為城様をお呼びしてまいります」
残された俺ら五人は椅子の上で身体の向きを変え、各々食堂の入口を見据えて待つ。
自然、緊張が高まる。有為城煌路……その姿を誰も――少なくとも彼を有為城煌路と知っては――見たことがないとされる、謎多き推理小説家。
果たしてどんな人物なのか。極端な厭世家であることやその作風から気難しい老人というイメージが強いけれど、実際は分からない。これでひょうきんな好々爺が出てきても驚きだが……。
廊下を歩いてくる足音が聞こえる。まずはじめに現れたのは播磨さんで、それで緊張が束の間緩んだものの、直後に反動でさらに鼓動が大きくなる。彼は入口をくぐるなり脇に移動する。
そして次に、今度こそ現れた人影は、想像を斜め上に裏切るそれだった。
「え……?」
少女だ。
まだ年端もいかない女の子。年齢に似合わず落ち着いた藍色のドレスに身を包んだ彼女は扉のところで立ち止まり、物珍しそうに俺らを見回している。……年齢的にはたぶん、中学生にもなっていないだろう。
絶句してしまう。これはどういう冗談だ――と呆気に取られていたが、続いて少女の後ろにまた別の人物が現れた。その姿を見てハッとする。
もう還暦は迎えているだろう、背中の丸まった老人だ。
口元は白い髭に覆われ、同じく白い頭髪は後頭部で無造作に束ねられて背中まで伸びている。杖をついてゆっくりと歩を進める様子には、しかし弱弱しい印象はまったくない。皺が多く刻まれた顔も、その双眸には一種鋭利な力強さが宿っている。格好はなぜか、画家を思わせるものだった。くたびれた雑巾のような服で、あちこちが絵具で汚れている。しかし、フォーマルとはとても云えないそんな服装であっても、確かな威厳と静かな迫力とが充満している。
その人物が這入ってきただけで、食堂の空気が引き締まる。名乗られなくても認めさせられた――
――彼こそが、有為城煌路だ。
じゃあ少女の方は……?
有為城煌路は俺らに一瞥もくれず、長テーブルを迂回して自分の席へ向かって行く。たっぷりと時間をかけて……だが緩慢ではなく、ただ凄みを感じさせる歩み。その傍らを、例の少女がひょこひょことついて行く。
左側のノートパソコンが置かれた席に有為城煌路、右側の席に少女が腰掛ける。よく観察してみれば、少女の前に並べられている料理は他と比べて量が少なかった――事前に気付いたところで、この展開を予想できはしなかっただろうが。
無言のまま、有為城煌路はノートパソコンを開き、プロジェクタも起動する。それからキーボードを、意外と軽快に叩く。するとプロジェクタがスクリーンに文字を投影した。
『長らく俗人との関わりを絶って過ごしてきたがゆえに、発声という機能はとうの昔に働かなくなっている。もっとも文章を綴るにあたっては、脳内で〈読み〉すなわち〈音〉も同時に想像されるため、聞いて理解する分には問題ない。よって諸君は口頭で話してくれて構わないが、私は文章をタイプする形式で伝達を行う』
では、食事としよう――という文章にピリオドが打たれ、有為城煌路はナイフとフォークを持って料理を食べ始めた。それをくりくりした目で見とめた少女も、同じようにする。彼女はさっきからあらゆる仕草がたどたどしいが、食べ方についてだけは作法が成っている。
「可愛らしいお嬢さんですね。ご息女なのですか?」
澄神さんが問い掛ける。俺はすっかり呆気に取られてしまっていたが、彼にその様子はない。有為城煌路もまた、挨拶もなしに問われた質問に表情を変えることなく、再び打鍵して応える。
『彼女は、織角(おりづの)だ。十年前、孤児院にいた彼女が二歳のときに、私が引き取った。私の養子と考えてくれていい。彼女も意味のある発話はしない。私と違って、聞き取った言葉や見た文章を解することさえできない。彼女は言葉を知らない。私が教えていない』
見れば織角ちゃんは、澄神さんと有為城煌路の奇妙な会話に構わず食事を続けている。
……言葉を教えられていないということは、あらゆる認識能力も発達が滞るということだ。思考を組み立てるのにも言語は重要な役割を果たすのに……いまの彼女は十二歳という計算になるけれど、それにしても挙動が未成熟なのはそのためか?
「ほう、興味深いですね。それはなぜでしょう? 殊に言語に関しては一家言ある貴方ですのに」
澄神さんが訊くと、現実味の覚束ない食堂内にまたカタカタカタカタという音だけが響く。
『私は〈言葉〉が如何に醜悪なものであるかを熟知している。思考や感情をどれだけ正確に伝達しようと試みても、意味するところに幅を持つ〈言葉〉による表現は齟齬を生じさせる。その思考や感情が繊細であればあるほど、〈言葉〉はその価値を損なう方向にしか機能しない。いくら究めようとも、これは絶対に避けられない。さらに〈言葉〉は必ず余計な意味内容をも付属させる。どれだけ表現を簡潔にしようとも、脚色されない、すなわち装飾の付かない〈言葉〉はない。これらの齟齬や装飾は、往々にして誤解を生む要因ともなり得る。
また、〈言葉〉が人類の進化、それに連なる人類の繁栄、文明の発展にとって不可欠なものであったのは確かだが、〈言葉〉には人間の豊かな発想力、想像力を狭めるという側面もある。〈言葉〉という体系を構築した人類は、それと同時に〈言葉〉に縛られた。本来的に如何なる制約も受けないはずだったイマジネーションを、有限で貧窮なものとした。〈言葉〉はある程度までの進化を可能にするも、その限界性ゆえにそれ以上の進化の可能性を閉ざしたのだ。〈言葉〉に隷従している限り、この先の人類には停滞、あるいは衰退の道しか残されていない』
カタカタカタカタ。打鍵は続く。
『嘆かわしいことに、〈言葉〉は人間の俗悪な性質をも浮き彫りにした。高度かつ複雑な虚偽、欺瞞、詐欺の類が可能になり、人間関係に損得勘定の如き卑しい計算が持ち込まれるようになった。〈言葉〉は人間の相互理解を表面上で演出するのみで、実際はそれを永久に阻害する悪魔の囁きだった。美徳という概念を陳腐にしたのは、この憎むべき〈言葉〉に他ならない。私が人間に絶望したのは、まさにこれが所以だった。
よって、私は織角に〈言葉〉を獲得させない。織角に真の奔放さというものを失わせてはならない。世間一般の卑俗な価値観に照らせば織角は〈未成熟〉とでも云われるだろうが、これは実に愚かな思い上がりと云う他ない。彼女こそが〈無限の可能性〉なのだ』
俺はいよいよ唖然とさせられた。
理屈は分かる。〈言葉〉を突き詰めた先で至った袋小路……〈言葉〉の限界性……さらりと述べられたものの、それが有為城煌路が人間に絶望した理由であったというのも、あまりに重い一言だ。
しかし、それを実践するとなれば話は違う。養子として引き取った少女と十年間も言語を介さない生活を送ってきたなんて、どう考えても尋常じゃない。
「面白いですねえ。〈言語〉そして〈本格ミステリ〉――枠組みというものの持つ限界性に挑戦する貴方が、その私生活では己が養子を枠組みに入れぬよう育てているとは。いつの時代も、アンビヴァレンスは芸術家の友ですか」
だが澄神さんはなおも軽快な口振りだ。有為城煌路に気圧されている感じはない。
有為城煌路は今度は澄神さんへの回答でなく、注釈めいた文章を打った。
『先刻は諸君が口頭で話すのを結構と述べたが、織角に対しては別だ。だが気を回す必要はない。織角が諸君の前に姿を見せるのは今晩が最初で最後だ。彼女が来たがったために特別に連れて来たが……言語を用いずとも、私と彼女は意思を疎通させられる……、今後は彼女の目に諸君が映るのを許すつもりはない』
その強い云い方に俺なんかは萎縮せざるを得なかったが、するとそこで、
「煌路さん、」
口を開いたのは、あの金髪の女性だった。見れば黒髪の女性が彼女の耳元で何やら囁いている。代弁者。彼女は言葉を続けようとしたが――
「失礼」と、澄神さんが口を挟んだ。
「はっきりさせておきたいんだが、黒髪の彼女が妃継百華さんなのかな?」
「んー? そうだよ。云ってなかったっけ」
とぼけたような答えを返す金髪の女性。妃継さんは警戒するみたいに、その後ろに身を潜めるようにする。奇声(?)を発したり無口になったり、不思議な人だ……。
「そんであたしが府蓋千代。百華の後見人」
「違うわっ!」
淡々と云う府蓋さんに、妃継さんが突然立ち上がって喰いついた。
「恋人! 恋人恋人恋人恋人! 私の名前も千代に合わせて生後四年なんだよお? せつなる恋の心は尊きこと神の如しって与謝野晶子の言葉知らないの!」
「樋口一葉な。いいから座れって。でないと……」
「何何やめて、脅し・ダメ・接待! 故郷じゃ後ろ指さされてるんだか――」
「はいはい」
府蓋さんが妃継さんの唇に指を当ててなぞるとたちまち彼女は無言となり、府蓋さんはこちらに振り向いて「ごめんね」と適当に謝った。
「構いませんよ」と澄神さん。有為城煌路は黙々と食事している。
此処に常識人は俺と葵だけか? ……いいや違う、彼らが〈本物〉で、俺が〈偽物〉だということ。そうに違いない。やはり俺は場違いなのだ……。
府蓋さんは何事もなかったかのように有為城煌路へ向き直り、
「煌路さんは、百華……って云うか、今回招いた人達の小説を読んだことはあるのかしら」
『ない』
有為城煌路の返事はにべもなかった。
『人選に私は関与していない。諸君については聞くまで名前も知らなかった。昨今の小説について私は、いささかの興味も抱くことができない』
残念とは思わなかった。むしろ俺の拙作を読まれていた方が恥ずかしい。
だが塚場壮太、矢峰方髄、妃継百華の名前さえも知らないというのは、少なからず驚きだった。この三人は群を抜いて名を馳せている流行作家であり、それもミステリに分類される小説を執筆しているのだから、有為城煌路の目には当然留まっているものとばかり思っていた。それがないということは、本当に彼は業界の趨勢というものに無関心なのか。
『これは諸君を軽んじているのではない。私は元来、自分の書く小説以外に興味を抱いていないのだ。若い時分は小説の伊呂波を習得する目的で古今東西のそれを読みもしていたが、描かれている内容自体に心を動かされはしなかった。資料採集として文献にあたるのと同じ姿勢だ。小説はあくまで私が自己の表現を行うにあたって活用する一媒体でしかない。私は小説の作者ではあっても、小説の読者であったことは一度としてないと云えよう』
澄神さんが「ははは」とまた笑う。
「小説は発祥からして通俗的の本流とも云えますからね、考えてみれば俗世を厭う有為城氏がそれのみを特例にして愛でるというのもおかしな話でしょう」
「そうねー、まぁ分かっちゃいたけどさ」と府蓋さん。
成立している。こんなへんてこな状況なのに、この人達は微塵も揺らいでいない……。
俺は半ば諦めの境地でぼーっとそれを眺めているだけだったが――そのせいだろう――、有為城煌路がそこで俺を一瞥した。
続いて、軽快な打鍵の音。
『御前は何かないのか』
心臓がドクンと大きく高鳴った。痛みを伴う嫌な衝撃だ。
まさか話を振られるなんて。この流れで創作に対する姿勢みたいなクリエイティビティな質問をするのは違うだろう……ならばこれまでのやり取りの中から何か気になる点を見つけて――だが有為城煌路は俺らの内、誰の著作も読んだことがないと云うし、そこからどうやって話を広げれば――いや、待てよ?
俺らにいささかの関心もない?
「……ではどうして、有為城さんは若い推理小説家を招こうとお考えになられたんでしょうか?」
口に出した直後、やや出すぎた質問だったかと思う。
しかし、有為城煌路は初めて、微かに笑った――ように見えた。
スクリーンに投影された答えは、次の一言。
『すぐに分かる』




