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気づいたときには噛みつくように口づけられていた。
驚愕に開いた唇から侵入したやわらかいものが、フユカの呼吸を奪う。後頭部を固定されている。
力の差は圧倒的。突き放すこともできず、それどころか深まっていく角度に危機感と眩暈が押し寄せてきて、フユカはイズクの背を引っ掻いた。口の中で舌打ちが鳴る。
直後に唇が離れていく。自分の意思で息を吸い、文句を言おうとしたその瞬間――
「まったく、面倒なことをしてくれたものだ」
「本当に……定形外の飼育場には決まった調査員以外向かわせるなと、再三再四通達していますのに」
「額面通り受け取ればいいものを、余計な解釈を加えるなど、無能どもめが」
車を降りた二人ぶんの気配が、こちらへ向かってきている。
外の音が明瞭に聞こえるのは、家の一部に音を伝えたがる石が使われているからだ。
フユカは耳をそばだてた。
この声、聞き覚えがある。
「おまえの上司?」
背中に手を回したままのイズクは、至近距離で、囁くように聞いてくる。家の中の音は伝わりにくくなっているはずだが、フユカも囁き声で返す。
「いいえ……横柄なわたしの上司がタイル雲母みたいにひれ伏すくらい偉い人よ。どうして役員がこんなところに……」
ふらつきかけたフユカが足音を立てそうになって、それを背中の手が支えた。
「それにしても、今回の調査員についてご存じだったのですね」
「ああ、報告書を見たのだよ。短い衣とはいえ、あれほどの天空混じりは珍しい。組織人として調教しておけば、天空との交渉にも使えそうだったからな」
君もそのつもりで私の目につく場所に出していたのだろう? ――その言葉に部下らしき男は何も言わなかったが、肯定を返したことは想像に難くなかった。
「とにもかくにも、こんなところで一般人に無機物の事情を知られては困る」
フユカの体は、驚きと緊張で硬直する。
直属の上司は、もしかしたら更にその上で人事を管理している者たちも、このことは知らないのかもしれない。しかし、順調に思えた昇進の話にも、見えざる裏があったのだとしたら。
今までの努力は、なんだったのか。
――と、いつのまにやら服の下に入り込んでいた手が、強張ったフユカの輪郭を面白がるようになぞった。
思わず屈辱的な声が出る。
「……っなにするのよっ!」
「ここで終わりにすんの?」
「な、に……?」
「あいつら、どう考えてもフユカを便利道具にするつもりだろ。そんなんでいいの」
不信感を植えつけるように上層部の言葉を聞かせて、フユカの心をさんざんに揺らしておいてから、イズクはフユカの背を押す言葉をかけた。
「その天空混じりの秘密、解明すんだろ」
「……うん」
「なら目え閉じとけ」
年齢不詳の偉丈夫は、華やかで甘い香りの花束のような顔立ちを、大人の余裕を醸した表情で包み、ありきたりで薄っぺらい言葉を添えてくる。
甘いだけの罠だと理解していても、目の前で花びらが落ちてゆけば、反射的に手を伸ばしてしまう。
せめてもの抵抗として、これは仕方なくだというふうに睨んだら、イズクは面倒くさそうに「おめーの色は目立つんだよ」と息を吐かれた。
今は調教師としてのイズクを信じるしかないのだろう。
ぎゅっと目を瞑る。
「調教師どの、在宅か?」
ノックとともに、扉一枚だけ隔てた向こうから、呼びかけがあった。
どうしようもなくなって身をゆだねると、頭に添えられた手がフユカの髪をほどき、かき乱す。
天空の色が隠される。
このように差し迫った状況でも、調教師の囁き声は甘い。
「いいっつーまでなんも喋んなよ。喘ぎ声は歓迎」
「は……っ?」
どれだけ慣れているのだろうか。フユカのジャケットを剥ぐのと、ベッドに押し倒すのと、扉の向こうにいる男たちへ声をかけるのは同時だった。
「いま取り込み中なんだわ! そこ開いてっから、入るんなら勝手にどーぞ」
――しくじった!
フユカは驚愕に息を浅くした。
遅れて湧いてくるのは自分自身に対する怒り。どうして信じてしまったのだろう。思わず目を開ける。この最低な男に、昨日だって裏切られたばかりなのに、と。
長い金髪を垂らし、容易にフユカを組み敷いたイズクを睨みあげ、ほぞを噛む。
「なにをしている……?」
役員たちは遠慮なく扉を開けたらしい。近づいてくる気配に慌てて目を閉じ直す。彼らがフユカに気づけば、色々な意味で終わりだ。
「野暮なこと聞くなよ。取り込み中って言ったろ」
「……取り込み中」
隠す気があるのかないのか、判断しかねる雑さでシーツが被せられる。
少なくともフユカの乱れた髪と露出した腕は向こうに見えているはずで、そういう行為をしていると勘違いさせるには十分であった。どうかこの色に気づかれませんようにと、フユカはシーツの下でイズクにしがみつく。
「もしかして経験なくてお勉強中? それとも最中に交ざんのに興味でも?」
そこで部下らしき男はたじろいだようであったが、上司のほうはそう上手くいかなかった。「悪いが、こちらは仕事中でね」と圧をかけ返してくる。
「君のところに調査員が行っているだろう。彼女は重大な罪を犯していたことが判明したのだ。すぐに連れ戻したい」
「あー、フユカのこと?」
びくりと緊張を走らせた体をあやすように、イズクは指の背でフユカの首筋を撫でた。
この男はいつもそうだ。軽々しく嘘と真実を重ねていく。
「そうだ。今はどこにいる? 匿うつもりならやめておきなさい。君もいっしょにいたいなら構わないが……そのようすなら思い入れもないだろう」
「どーぞお好きに。外に車あった?」
「ああ」
「んじゃ山ん中にいんじゃね? 珍しい石が育つからって、ここら一帯の環境を調べるっつってたし」
「ああ……」
納得しつつも、納得できない、といったようすの役員二人。
それもそうだろう。話しているあいだもベッドの中の女を構っていたイズクに、彼らは異様なものを見る目を向けながら、家から出ていった。
「おまえよっぽど真面目ちゃんらしいな。ここにいんのがフユカだって考えもしないとか」
「認識されてた……」
「喜んでんじゃねーよ」
「……つい、ね」
染みついた忠誠心を恥じて、フユカはもぞもぞと上体を起こす。
露出した肩が肌寒い。しかし床に捨てられたジャケットは遠く、それ以前に研究所のエンブレムが刺繍されたものをわざわざ羽織りなおす気にはなれなかった。
「あいつら、あの様子じゃあ車の前でずっと待ち伏せしてそーだな」
どうすんの、とイズクはいつもの調子で曖昧な問いかけをした。
彼の中ですでに正解が存在している質問だ。
着慣れたジャケットから視線を外し、フユカは甘い杏色の瞳をまっすぐに見つめる。
「……いいわ――イズク、わたしを〈無法地帯〉へ連れてって」
意表を突かれたような、あるいは図星だったような顔で息を詰めたイズク。それを面白く思いながら、しかしフユカはいたって真面目に言葉を繋げた。
「昨日考えていたの。あなたは〈連邦〉の外で生まれ育った。そうでしょう?」
一瞬だけ固まっていた表情に笑みが広がる。調教がうまくいったときの達成感を乗せて、彼は「御名答」と頷いた。
「まずはあの役員たちの目をかいくぐる必要があるわけだけど、あてはあるのよね?」
「ちょうどいい、足になりたがるヤツがこの真下にいんだよ」
「ひぁ……わっ、ちょっとなに!?」
突然抱きかかえられたフユカは悲鳴をあげかけ、次の瞬間、形を変えたベッドに驚いて噎せる。
それは紛うことなき、車であった。
*
ベッド兼、車の機術具(であるとフユカは推察した)に乗り込み、床の隠し扉から地下通路を使って飼育場を脱した二人は、辺境の町の繁華街を悠々と走っていた。
昨日、イズクがフユカより先に町へ下りられた理由が、思わぬところで判明する。
「いいだろこれ。昔、車ん中でヤんのが流行ったときに作ってさ。寝たくなったらいつでも言えよ」
「はっ倒すわよ?」
「えっマジ? さっきのでスイッチ入った?」
「運転に集中してちょうだい!」
自分の欲望に忠実なこの男は、フユカを助けることになんの意味を見出しているのだろう。
イズクならばあの状況でも無理やり行為に及ぶことはできたはずで、ついでに言えばフユカの拒絶を考慮するような人間でもない。
それなのに今、運転席でハンドルを握るイズクは。
「……ご機嫌ね」
「まーね」
「面倒ごとを持ち込まれて、家を追い出されたも同然なのに?」
「そりゃおまえ――」慣れたように金属の塊を動かす男は、ドライブでもしているみたいだった。「ちょっといいなって思ってる女が手ん中に落ちてきたんだから。いい気分にもなるだろ」
「もう、本当に、あんたのことがわからない……」
あはは、とイズクは軽薄な笑みをこぼす。
「まあまあ。細かいことは気にすんなって。地底の賑やかさはいいぜ? 一人になる暇がねえ」
「あんたってそんなにさみしがり屋だったっけ」
「誰かしら、なにかしらがいりゃいいって思うくらいには」
後部座席で、ちゃっかりついてきた石たちが、嬉しそうに音を立てる。
この男と石の秘密も、暴けるだろうか。状況は最悪だが、案外悪くないかも、とフユカは思った。口にすれば「甘い」と言われることはわかりきっているので、心のうちに留めておく。
そう、悪くない。
「そういや、けっきょく俺の言ったとおりになったな」
「本当に。驚いたわね。通報からあんなにすぐ来るなんて……」
「ちげーよ」
「え?」
どういうことだと隣へ目を向けると、運転手は尊大な態度でフユカによそ見をした。
「ほら、悪い男に引っかかってる」
「なに言ってるのよ。助けてくれたんでしょ? ……不本意だけど」
「ホントそういうとこだって」
呆れつつ、「おめーは調教し甲斐ありそうだよ」とどこか楽しそうに呟く。
どこから脇道に入ったのか、下り坂が続いていた。曲がっても、曲がっても、下るばかり。〈門〉のない辺境の町は、地底への入り口だったらしい。
「まずは慈悲深ーい女神に対する信仰心を断ち切るとこからだな。〈連邦〉の常識はもう捨てろよ」
「……うん。わかってる」
フユカは窓の外へ視線をやり、遠ざかる天空を、紅混じりの目に焼きつけた。
無機物の女神たる天空は、さめざめと青い衣を揺らしている。次にこの光景を見ることができるのは、いつになるだろう。
「エリート無機物調査員のお手並み拝見だな」
天空が無機物の女神だとすれば、地底は無機物の帝王。
歩いていける、〈無法地帯〉。
いつか行くことになると、覚悟はしていた。
人間のルールなど通用しない、広大な無機物の世界へ――




