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甘い杏色を掠めた怒りの色が思いのほか衝撃で、フユカは先ほどの自分の反応をぐるぐると後悔しながら宿へ戻った。途中、悪路にハンドルを取られて何度か車体を擦った。
作業着のジャケットを脱ぎ捨て、髪をほどいて、ベッドに倒れ込む。
「あー、もう……」
石が大好きで、石のことを知りたいと切望しているのに。
あのいけ好かない調教師よりもずっと、フユカは無機物から遠いところにいたのだ。
「……焦ったら、だめよ」
ぱちんと、両頬を叩いた。
「うん、まずはご飯。それから反省して、明日のことを考えて……もっかいご飯食べて、早く寝る!」
フユカが気に入っている店のうち、イズクと一緒に訪れたことはないところを選んだはずだった。
半地下のカフェで、入り口の階段が絶妙な曲線を描くことによって外の世界と遮断された非日常を醸すこの店は、昼間でも明るすぎず落ち着いて仕事のことを考えられる。
「なんであんたがここにいるのよ」
しかし今は、その利点が仇となったようだ。
フユカは階段を下りきるまで、そこにいた客に気づけなかった。
「いちゃわりーかよ」
どの店でもカウンター席を陣取りたがるこの男は、機嫌のよさそうな表情で頬をつき、煙草をのんでいた。
「そうじゃないけど。いや、嫌ではあるんだけど、わたしのほうが先に下山したのに……あんた車なんて持ってたっけ?」
「喜んで俺の足になるヤツなんて、いくらでもいるからなー」
「そ、まあいいわ」
いるならもう仕方ないと、フユカはイズクの隣に腰かけた。煙草を出して「火、ちょうだいよ」と強請れば、なんだこいつとでも言いたげな視線を寄越してくる。
「おまえも大概な性格してるよな」
「あんた相手にあれこれ気にしてもしかたないって学習しただけよ」
「じゃあ今日どう?」
「その手にはもう乗らないわ」
「いつになったら絆されてくれるんだか」
「あら。あんたとこうして並んで飲み食いするのを楽しむくらいには、絆されてるわよ?」
余裕の笑みでフユカを眺めていた杏色の瞳が、瞬いた。
「……まじ? やっぱ今日やっと――」
「それとこれとは話が別」
空いたほうの手で軽くイズクの肩を叩き、メニューを開く。この時間帯はランチセットがお得だ。
「イズクは注文は?」
「んじゃ一番高い酒にすっかな」
「奢りじゃないわよ」
「うわ押し売りかよ。もしやここで副業してる?」
口を開けばしょうもないことばかり抜かす男に呆れ返っていると、「イズクくん?」とカウンターの奥から声がかかる。
「今日はなんだか、珍しい感じのかたを連れてるんだね?」
続いて仕切りから覗いた顔は、フユカは客として一方的に知っている壮年の男性店員だった。
イズクが余計なことを言う前にと、慌てて挨拶をする。
「ご挨拶が遅れました。こちらの町には、ここ一年ほど仕事で訪れているんです。彼とは仕事で関わりがありますが、今日はたまたまばったり会っただけで」
「ばったりっつーかなんつーか……」
「……以前にもお越しいただいていたのですね。こちらこそどうぞご贔屓に。……イズクくん、あんまり真面目そうな人をだましちゃ駄目ですよ?」
「人聞きの悪いこと言うなよな」
フユカよりよほど真面目そうな店員にも素性を知られているのかと、彼女は若干引いた。
こうなったら明日に持ち越す理由もないと石の風邪について話し込んでいたら、いつのまにか天空の更衣の時間が近づいてきた。小さな窓からは外がよく見えないため、集中できるぶん、時間経過に疎くなる。
夜はバー営業をしているこの店で夕飯も済ませることにした二人は、マグから持ち替えた酒器を傾けていた。
それにしても、とフユカは店員の動きを眺めて感嘆の息を吐く。
「いつ見ても不思議」
田舎と侮れないほどに、むしろ都会よりよほど機能的で便利な無機物が揃っているのだ。中央では石や水、金属が主に使われているが、ここでは見たことのない無機物も当たり前のように欲を満たしていた。
何度か使用者に質問したこともあるが、「あったから使ってるだけ」「知り合いにもらった」という人ばかりで、出どころははっきりしなかった。この町にはわからないことが多い。
「親和性の高いやつが多いからな」
「あんたみたいのもいるしね」
この男が調教師として非常に有能であることは、最初の調査期間ですぐに判明した。石に対する理解と知識は今までに会った誰よりも深く、なにより無機物との親和性が高い。そういう人間は、機術という理屈を通さずして無機物と心を通わせやすいのだ。
「まー俺はここの生まれじゃないけど」
「え、そうだったの?」
しまったという顔は一瞬で、イズクはすぐへらりとした顔で「そうそう」と頷く。
あえて隠さないという選択肢をとったほどに隠したい事実を、この男が簡単に話してくれるはずもない。親和性のある人間の生まれや育ちには非常に興味があるが、そこまで踏み込むような仲でもない。フユカは空気を読んで無反応を装うことしかできなかった。
「俺、おまえのそーいうとこ好きだよ」
「すごく嫌だ」
本気でそう思っていそうなところが、心底。
困ったことに、町中でイズクといると変な輩に絡まれやすい。
来る者拒まずで社交性があると言えば聞こえはいいが、いい歳して夜を過ごす相手を取っ替え引っ替えしたいだけなのだ。イズクは多方面で恨みを買っている。ついでに売られた喧嘩は言い値で買い、ときには割り増しで転売すらしてのける。手の施しようがない。
上階で薄岩の扉が鳴って、来客を告げる。
今度こそ非日常への入り口という役目を果たした階段は、大声で話す若い男たちの気配をしっかりと運んできてくれた。勘がはたらいて、フユカは席を一つずれてイズクから距離をとる。
「フユカ?」
イズクが疑問を示したときにはもう、新たな客がすぐそこまできていた。
「おいてめー人の女とってんじゃねえよ!」
開口一番に自身の非力さを開示した男はしかし、柄の悪さを誇示するように勢いよくイズクの肩を引き、その胸ぐらを掴んだ。
「とられた? 誰のことかわかんねーんだけど? え、こいつ?」
「違うわよ馬鹿っ……わ、反応しちゃったじゃない」
自分から災いを呼んでおきながら、周囲を巻き込むことで自分への被害を抑えるのが、イズクのやり口だ。慌てて顔を逸らす。
お願いだからそちらで勝手にやってほしいという思いが通じたのかわからないが、さいわい今回の相手はフユカに興味を持たなかった。あるいはイズクに対する執着心が強かった。
引っ張られるまま立ち上がったイズクは、不遜な態度を崩すことなく灰皿に置いていた煙草に手を伸ばす。もう一人の男がそれを叩き落とそうとするのを、石の飼育場に喫煙室まで作った愛煙家は、軽やかに避けた。
「おっさんの小っさな楽しみなんだ、奪ってくれるなよ」
絡んできた男らもそれぞれしっかりした体格だが、イズクはそれ以上だ。それなのに上から目線の真似事をしてくるのがツボにはまったのか、もはや笑みを噛み殺しきれていなかった。
そのようすに胸ぐらを掴んでいた男の怒りが増し、恋人らしき女の名前を叫ぶ。
さすがに迷惑ではとフユカはさりげなく奥の店員へ視線をやった。しかしこの程度は慣れているのか、先の店員は音を吸収する機術具を指さしてにっこりと笑みを返してくる。イズクもイズクだが、この店もこの店だ。見たところあの店員はイズクと長い付き合いのようだし、紳士の仮面を被った同類なのかもしれなかった。
とにかく、とめるつもりはないらしい。
「あー、あいつね。とったってか、あっちから来たけど? ほんとに恋人か?」
「はっ!? ふっざけんな、俺の女だろ!」
「いや知らねーよ。恋愛相談とか受けつけてねぇんだわ。まーひとつ言えんのはさ」そこでもったいぶるように、イズクは煙草をひと吸いした。「余裕のない男は嫌われるぞ?」
まったく、そういう態度が人を怒らせるのだ。
あの店員もそれを見越している――どころか機術具の範囲にフユカを入れたということは巻き込まれる可能性が高いということではないかと思い至ったとき、案の定激昂した男が「んだとてめえ!」とイズクを突き飛ばした。
しかし体幹の強いイズクはびくともしない。むしろ男が押し返される形になる。
「くっそ、この――」
力で負けるなら手数だとばかりに握られた拳を見て、イズクは「おっと」と片手で制止の姿勢をとった。
「まあまあ落ち着けって。そこでこいつの出番だ」
いきなり振り返ったイズクに指を差され、フユカは「はっ?」と固まった。
「ほらよく見てみろよ、美人だろ? それに中央の研究者ときた」
「お、おう……?」
「エリートじゃねぇかよ……」
フユカに向けていた指を男らへ向けぱちんと鳴らすイズク。
「そう」
よく気づいた、と彼は突然のことに押され気味になっている男たちへ手を差し出した。
甘い杏色の瞳を光らせて、まるで調教でもするかのように、囁き声で唆す。
「けどこいつさ、まっじで男運がねーんだよ。趣味も悪いし。だからおまえたちで教えてやってくんね? ほらフユカも。お互い、やな相手のことなんか忘れちまえよ」
どうして、こんな最低野郎に過去の男遍歴を教えてしまったのか、フユカは自分の口の軽さを呪った。体だけは明け渡すまいと言葉で適当に流していたら、あれこれ喋りすぎていたのだ。
他者の警戒心を解くのが異様に巧いイズクだが、今はなんとなく、そのせいにしたくないフユカなのであった。
「わたしが今いちばん忘れたいのは、あんたよ、イズク!」
とはいえ捨て台詞は吐かせてもらう。
目をギラつかせた男たちに左右から拘束され、夜の裾がちらつく階段を上りながら。
――忘れられんの?
声なくそう語るイズクの表情は、見なかったことにした。




