6 女神魔法研修者ミュールイア-2
「……」
「ユウ様、一気に全部覚えようとしなくても……」
大きな机の前で頭を抱える勇一。広げられたのは無数の言葉が羅列された紙だ。隣では長い金髪の奥から彼を眺め、心配そうに寄り添うウルバハムの姿。
「ええと、こっちが『男性』……こっちが『女性』」
「逆ですユウ様。やっぱり休んだ方が……」
勇一が魔法院に来て十日が経った。力の使い方、言葉、論文……当初の不安の種だった三つの問題は、彼の予想より遥かに呆気なく解決した。したと言っても方向が示されただけで、彼はこれからその道を歩まなければならない。しかし暗闇の中を進むのと違い、確かな安心感がその歩みを軽くした。
ウルバハム直筆の文字盤をたたみ、一息つく勇一。開いた窓から入る弱く冷たい風が熱を持った頭に心地よい。彼はふと、この生活を始めてから出会った幾人かを思い出した。
「ベテル……様って、どんな人なんだろう」
「王妃様ですか」
呟いた彼の言葉を聞き逃さなかったウルバハムはううんと唸り、頭の中でベテル王妃の情報を整理している。
「王妃様はとても慈悲深い方でいらっしゃいますね。例えば去年貧民街に疫病が流行ったとき、陛下は城下町と貧民街を隔てる水路に掛かった橋を焼き落とされました」
「貧民街を見捨てたってこと?」
「いえ、病気を広めるわけにはいかないので、仕方がなかったんです」
ウルバハムは両手を絡ませ説明を続ける。
「しばらくして疫病が収まると、橋が掛け直されました。それを渡って最初に来られたのが、食料等を積んだ馬車とともに王妃様だったのです。王妃様はお召し物が泥に濡れてもお気になさらない様子で、貧民街のみんなを励まし、物資をお配りになっていきました。
橋も王妃様が私財を投じてくださったおかげで掛け直されたと後で知りました。それを鼻に掛けることもなく、彼らのために行動できる方は中々おりません。ですから貧民街のほとんどの人は、あの方に好意的なのです」
貧民街はウルバハムが生まれた場所だ。疫病を広めない為、即座にアークツルス王は隔離を実行させ、エンゲラズの大部分を守った。貧民街とそこに住む者たちを犠牲に。
仕方がない犠牲だ。しかし決断には相当な葛藤があったかもしれない。勇一は腕を組んだ。
「ウルバハムは無事だったんだ」
「私はその少し前からここに居りましたので、罹らずに済みました。でも、家族は母を残してみんな……」
「ご、ごめん。そんなことになってたなんて」
「いえ、お気になさらないで下さい。しょうがなかったんです……」
彼女の話によれば、疫病によって一時的に労働力が不足したあとからホラクトの扱いが少し変わったらしい。奴隷がやっていた労働がいくらか軽くなり、扱いも良くなった。住み込みの奴隷は働きによって綺麗な寝床で寝られるようになったし、貧民街から来て日雇いで働くホラクトには食事が提供されるようになった。
勇一はサウワンで見たホラクトたちと、過去一緒だったアドリアーナの言葉を思い出す。彼女はエンゲラズに住む人たちを軽蔑していたが、それはもはや過去のことだった。少しずつでも変わって行くこの国の将来に、彼はほんの僅かに興味が湧いた。
「王妃様は、同盟と手を取り合い平和の道を歩もうとおっしゃっておりました。ブラキアやホラクトもお互いの立場を超えて協力し、大陸を発展させましょうとも」
「でも目指すにしたって、この国を治めてるのはアークツルス王なんだろ? そこを無視するわけにはいかないじゃないか」
王妃には何の権限もないわけではないが、完全に自由というわけでもない。制限された中で彼女はできる限りのことをやっている、とウルバハムは言う。
「王妃様がいなければ貧民街は全滅……していたでしょう。しかし当然ながら、陛下はヴィヴァルニアのことを優先して考えられています。王妃様のことも、大きな不利益がない故に黙認なさっているのだと思いますよ」
(つまりアメとムチ、か)
片方は厳しく、もう片方が甘やかすのは人をコントロールする手段だ。勇一はまさに二人三脚といった二人の関係に関心のため息をついた。
「王妃様は国内の穏健派の筆頭ですが、それもバーサ家やガリアバーグ家の協力あってこそです」
「ハロルド・ガリアバーグ。バーサは……ネティ・バーサか。二人は婚約者の関係だったな、でも」
オルスト・ガリアバーグ。婚約者と多くの取り巻きを連れた彼の朗らかな笑顔は、勇一曰く「目が眩むほどのイケメン」だった。しかしのっけからウルバハムを蔑むその性格は、明らかに外見と釣り合っていない。
「おんけんはぁ?」
思わず間抜けな声を上げた勇一は自分から出た声に驚き、自ら口を塞いだ。
「えと、王妃様と二つの家の尽力で、ヴィヴァルニアと同盟は一線を越えずにいられると言っても過言ではありません」
それほどの影響力が、あのいけ好かない男の家にあるのだろうかと勇一は訝しんだ。しかしウルバハムの話しぶりから、どうやら本当らしいことがわかる。しかし何故彼女がそこまで詳しく事情を知っているのだろう。
「その、魔法院にいると、色々なお話が聞こえてくるんです」
勇一の表情を読み取ったのか、そう答えたウルバハムは膝の上で手をぎゅう、と握りしめた。
「わ、わたしは、いつも隅っこで講義を聞いています。みなさんの視界に入らないように、できるだけ静かにしていれば、無視されるだけで何もされないんです。私はいないことにされて、たまに隠れて……」
「……辛いな」
「もう、慣れました」
その表情は言葉とは裏腹に暗く沈んでいる。勇一の目線に気付いたウルバハムは、取り繕った微笑みを向けた。一瞬浮かべた悲痛な表情と、手入れされていない金髪の毛先が痛々しい。
「話が逸れちゃいましたね。とにかく、王妃様はブラキアもホラクトも皆平等に手を差し伸べられ、様々な慈善事業をされております」
慈善事業を進んで行い、私財を投じるのも厭わないベテル妃の姿勢は、勇一が受けた第一印象から少し離れたものだった。家族のこととなると饒舌になる姿は、どちらかというと王妃ではなく母親の印象が強かった。彼女を慕う者たちから見たら、聖女にでも見えているのかもしれない。
「王様と一緒に、この国を良くしようと頑張ってるんだ」
「長く続いた風習を変えるのは、並大抵のことではありません」
この国は変わろうとしているが、勇一には全く関係のないことだ。しかし、自分が生き証人になるかもしれない……そういった特別な出来事は、彼の心を妙にざわめかせた。
「で、そこにアイリーンが加わると」
「はい、その……」
歯切れの悪い返事に、勇一は何事かとウルバハムを見た。
「実は私、アイリーン様のことはよく存じ上げなくて」
「自分をここに入れてくれた人のことじゃないか」
「そうなんですが、多くは……」
多くは知らない。国王夫妻の娘という立場の人物がよく知られていない、などという事があり得るのだろうか。勇一はウルバハムの方へ身体を向け、次の言葉を待った。
「私がお会いしたのも一年と少し前、ここへ入るよう仰せつかった時が初めてなんです。魔法院の皆様もアイリーン様をよくご存じないようでして、話題に上がる事はほとんどありません。ただ――」
小さな口が深呼吸する。
「一年前……私をここに入れた直後から行方不明だったらしい、としか」
王の子どもならば、その姿は誰もが知っていて当然と言える。しかしウルバハムの口ぶりは顔どころか存在すら知られていなかったとも受け取れる。貧民の生まれである彼女ならともかく、貴族すらそうだというのはだいぶおかしな話だと勇一は首をひねった。
「そう言えば謁見したとき、王様随分と怒ってたな」
「陛下に謁見なされたんですか?」
「アイリーンに頼まれてね。一年も姿を消して……とか言ってた」
実際は緊張のあまり、謁見の間の出来事は夢を見ていたような感覚だった。しかし国王の言葉は妙に耳に残っている。
「行方不明の話は本当だったんですね」
ウルバハムが顔を覆う前髪をかき分け、興味深そうに勇一を見下ろした。二人とも椅子に腰掛けているのに、ホラクト特有の身長によってまるで勇一が弟のように見えてしまう。
王と王妃がアイリーンの存在を隠していたのは何故だろうか。何故アイリーンは行方不明になったのだろうか。一見なにごともなく日常を送るエンゲラズにどこか歪んだ気配を感じた彼は、背筋に冷たい気配を感じた。
「…………なんか、腹が減ったな。ウルバハム、また大通りに行こう」
「え、ええ? でもまだ勉強が……」
「いいから、色々考えたら腹が減ったんだ。丁度昼だし、今日はウルバハムの好きなものを探そう」
気配の正体を考えようとしたが、彼の腹は燃料を欲した。狙いすましたかのように昼の時間を告げる鐘が鳴る。エンゲラズで二番目に背の高い建築物である教会からだ。
「じゃあ、続きは戻ってきてからにしましょうか」
エンゲラズに住む者たちにとって、鳴り響く鐘の音は空腹を促進させる効果もあるのだろう。彼女はローブの裾を掴んで立ち上がると、たてつけの悪い木の扉を思い切り引いた。ホラクトの力ならそんな扉も安々と道を開ける。
「せっかくなので、教会の方に行きませんか? あそこにも屋台が出てるんですよ」
「ここにいる間、できるだけ沢山種類を食べたいな」
「ふふふ。でしたら、なおさら教会周辺をお勧めします。最近トント肉をキャッパジ菜で包んで蒸したものが出たんです。香りが強くて……」
部屋から離れるにつれ、若者二人の声が遠ざかってゆく。
「あいつら、好き勝手やってくれるねえ全く……」
部屋の主ミュールイアの文句が、虚しく壁に吸い込まれていった。




