第六話:努力の魔法と揺れる乙女心
アレスが王都へ帰還してから、二年が経過した。私は11歳、アレスは14歳。その間に、王都では第一王子レオナルド殿下による行政改革が次々と進み、冷徹な統治者としての地位を確固たるものにしていた。
一方、庶民の街にいる私の日常は、外見上は変わらなかったが、内面では激変していた。私は、父から譲り受けた「魔力収束の基礎」の魔導書を手に、来る日も来る日も魔法の練習に明け暮れていた。魔導書の内容は難解で、本来なら子供が理解できるものではない。それでも私が諦めなかったのは、ただ一つ、「アレスの隣に立つため」だった。天才である彼に追いつくには、凡人の私は血の滲むような努力をするしかなかった。
私は王都の学校へ行く準備として、まずこの街にある魔術を教えてくれる私塾に通い始めた。ある日の授業中、先生は生徒たちに「簡単な魔力制御の訓練」として、水の入ったコップを魔力で僅かに浮かせ、それを三秒間維持するという課題を出した。周りの生徒たちがコップをひっくり返したり、揺らしたりして苦戦する中、私は深く息を吸い、あの日アレスが見せた完璧な魔力操作を脳裏に描いた。何百回、何千回とイメージし、練習してきた感覚を呼び覚ます。私は無詠唱でコップを浮かせ、水面を鏡のように静止させたまま、十秒以上維持してみせた。
先生は驚き、言葉を失っていた。
「ルナ、すごいぞ!まさかうちのルナが、こんなに努力して、すごい魔法使いになるなんて!」家に帰って報告すると、父は目を細めて、私の頭を撫でてくれた。「ええ、毎日遅くまで本を読んで頑張っていたものね。本当に偉いわ」母も優しく微笑み、私の努力を認めてくれた。家族の温かい言葉に、私は少しだけ胸を張ることができた。
しかし、夜になり一人になると、王都から届くレオナルド王子の噂が、私の心を不安で満たした。彼は史上最年少で軍事最高顧問に就任し、長年腐敗していた王族直属の近衛隊を一掃。
(すごいよ、アレス。あなたは本当に、雲の上の人になってしまったんだね)
アレスが遠ざかるにつれて、私の心に小さな影が落ちた。彼は「君のための玉座を用意する」と言ってくれた。でも、本当に私なんかが、彼の隣にいてもいいのだろうか。彼は王族で、国の英雄で、天才だ。私はただの庶民で、必死に努力してようやく少し魔法が使えるようになっただけの、平凡な少女に過ぎない。彼の冷酷なまでの完璧さに、私が釣り合うはずがないのではないか。
不安が押し寄せ、胸が苦しくなる。でも、そのたびに私は思い出す。別れ際、私に向けられた彼の真っ直ぐな銀色の瞳と、狂気すら感じるほどの熱い言葉を。「待っていてくれ」という彼の約束を。
「…ううん、信じなきゃ。アレスは嘘をつかない。あんなに顔が良い人が、私を騙すわけがないもん」
私は首を振って不安を振り払った。彼が私を求めてくれるなら、私はそれに応えたい。彼が私のために国を変えているなら、私は彼のために自分を変える。そのために、私はここまで努力してきたのだから。
「アレス、私はあなたを信じてる。だから、もう少しだけ待っていて。あなたが誇れるような私になって、必ず会いに行くから」
ルナは窓の外、王都の方角を見つめた。不安がないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に強い「推しへの信頼」と「愛」を胸に、ルナは魔導書を再び開いた。




