第三十一話:偽装工作と、報告書の提出
ルナは裏路地を猛スピードで駆け抜け、王都の刺繍店へ引き返した。心臓は激しく鼓動し、肺は冷たい空気を必死に求めていた。時計を確認する。廃墟でのクリスとの研究に夢中になり、予定時間を正確に五分三十二秒超過していた。このわずかな超過が、護衛騎士に不審を抱かせる隙になるかもしれない。
(まずい。騎士たちがマリア様の隣で不審に思い始めているかもしれない。私が試着室で悩んでいたという設定を、どう強化するか)
ルナは刺繍店の裏口の窓に素早く接近し、周囲に人影がないことを確認してから、そっと窓枠を押し上げ、試着室へと滑り込んだ。彼女はローブを脱ぎ捨て、乱れた髪を乱れたままにし、服に付いた廃墟の土埃を払った。同時に、わざと試着室の壁に立てかけてあった箱を大きな音を立てて倒した。
その直後、試着室の扉が力強く叩かれた。
「ルナ様、大丈夫でしょうか。もうすぐ閉店の時間ですが」
マリアの声だった。ルナは深呼吸をし、焦りと疲労が混じった声を装って返事をした。
「ええ、マリア様。今、出ます。すみません、手が滑ってしまいました」
ルナは扉を開け、再び店の煌々とした照明の下に出た。マリアの傍らには、まだ糸の見本を真剣に見つめている二人の護衛騎士、グレンとシモンが立っていた。彼らは音に反応し、一瞬警戒の視線を向けたが、ルナの姿が視界に入ると、すぐに糸の議論へと戻った。
「お待たせしてすみません、マリア様。糸の組み合わせがあまりに多くて、図案で頭を悩ませてしまいました」ルナは騎士たちにも聞こえるように、少し疲れた声で言った。
マリアはルナの無事を確認すると、安堵したように目配せをした。
「ルナ様、この青と銀の組み合わせが一番殿下の瞳に近くて素敵だと思いますよ」マリアは騎士たちに意見を聞いていたという体で、話を完璧に繋げた。
騎士たちはルナの試着室からの退出を確認すると、すぐに元の厳格な表情に戻った。
「ルナ様。お時間が参りました。帰還いたします」グレン騎士は短く告げた。彼らはルナが試着室に入ったこと、そして出てきたことしか知らない。ルナの作戦は、マリアという優秀な共犯者を得て、見事に成功した。
馬車に乗り込み、学院へと戻る間、ルナは頭の中で、アレスに提出する報告書の内容を組み立てた。クリスとの秘密は絶対に漏らせない。その代わり、偽装の理由をより説得力のあるものにする必要があった。
(刺繍店で見た図案と、マリア様との会話、そして王都の貴族たちの消費活動に関する感想。これが、殿下への報告書の内容だ)
寮室に戻ったルナは、疲労を感じる間もなく、すぐにペンを執った。報告書は、王妃教育の進捗を示すものでなければならない。
彼女は、刺繍の配色が王家の伝統的な魔導具の装飾にどう影響するかという技術的な視点に加え、王都の流行品への貴族たちの購買意欲が、王国の税収と財政に与える影響について、独自の分析を書き加えた。これは、アレスが最も興味を持つ政治と経済の話題だ。また、マリアを通じて得た、他の貴族令嬢たちの学園生活に対する不満などの微妙な人間関係の情報も、簡潔に付記した。
報告書を書き終え、アレスの側近に提出した後、ルナは通信機を握りしめ、アレスからの返信を待った。彼女の心は、自分の裏切りが露呈するかもしれないという恐怖と、古代魔導の研究という新たな探求への喜びで、激しく揺れ動いていた。
深夜、通信機が短く振動した。
「報告書を確認した。貴族の経済的な動向に着目したのは、良い傾向だ。刺繍図案についても、僕の好みを理解しようとする姿勢は評価する」
アレスの返信は、ルナの偽装工作の範囲内を褒めるもので、ルナの秘密には全く触れていなかった。
ルナは安堵のため息をついた。アレスは、ルナが報告した内容の正確さと、彼女が自分の望む王妃の役割を演じていることに満足している。その裏で、ルナが自由な研究を行っていることには、まだ気づいていない。
(私は、アレスの支配の網を、初めて完全に潜り抜けた。この秘密の研究は、私の推し活である王妃への道と、平民である私の真の目標を両立させる、唯一の道になる)
ルナは、クリスとの秘密の研究会で得た古代魔導の文献の写しを、隠し場所である自室の書棚の底からそっと取り出した。文献の古びた羊皮紙を撫で、ルナは興奮に胸を高鳴らせた。彼女は、アレスの知らない場所で、静かに、そして着実に、知識という名の翼を広げ始めたのだ。




