第三十話:古代文献の解読と、禁断の研究
東門の廃墟は、冷たく湿った空気に満ちていた。崩れかけた石壁が、外界の喧騒とアレスの監視から、この空間を完全に切り離していた。クリスは石の台座に羊皮紙の束を広げ、その上に小さな魔力発光体を灯していた。
「この廃墟は、昔、魔導学院ができる遥か前に、辺境から来た魔導士たちが一時的に住居として使っていた場所だそうです。誰も気にしない、最高の研究室ですね」クリスは楽しそうに言った。
「本当に誰も来ない場所ですね」ルナはローブを脱ぎ、クリスの隣に座った。
「さあ、本題に入りましょう」クリスは羊皮紙の束をルナの前に差し出した。「これが、僕たちイシュタール家が代々、辺境の遺跡から持ち帰って守ってきた、古代無属性魔導の文献の写しです。王都の学者たちが失った、純粋な魔力制御に関する記述が含まれているはずです」
羊皮紙は古びて茶色く変色し、その文字は王都で使われている共通語とは異なる、奇妙な古代の記号で埋め尽くされていた。
「これが…」ルナは感嘆の声を漏らした。「私たちが学院で学ぶ魔導とは、根本的に異なる体系ですね。魔力の流れを、属性ではなく、物理法則と幾何学で捉えている…」
クリスは熱意をもって頷いた。
「その通りです。そして、君が独学で会得した魔力制御の技術は、この古代文献に記された『円環収束』の応用と酷似している。君の技術の原点が、この中にあるはずだ」
二人の研究者としての情熱は、アレスの監視や、王妃としての立場といった世俗的な問題を忘れさせた。ルナは、学院でアレスから指導を受けている時でさえ感じられなかった、純粋な知的好奇心の充足感を覚えていた。
「この最初のページにあるこの図形は…」ルナは指で文字を追った。「魔力を一箇所に収束させるための、座標軸を表している。もし、この理論が正しければ、多重属性の魔法を一つの力場で制御することも可能になるかもしれません」
「その通り!多重属性の制御!それが古代魔導士たちが目指した領域だと、僕も考えていた」クリスは興奮してルナの言葉に同意し、すぐに自分のノートを取り出した。「僕が解析した古代言語の法則によれば、この記号は『秩序の楔』と訳すべきだ。魔力に、人工的な秩序を刻み込む技術だと示唆している」
二人は廃墟の片隅で、夢中になって古代文献の解読と、ルナの技術の理論化を進めた。ルナが持つ実践的な技術と、クリスが持つ古代言語の知識と理論が、見事に噛み合った。
時間があっという間に過ぎ、廃墟の外が夕焼けの薄明かりに染まり始めた。
「まずい、もうこんな時間だ」ルナは慌てて言った。「私はすぐに王都へ戻り、マリア様と合流しなければなりません。護衛騎士たちに試着室から出てきたと思わせる必要があります」
クリスは寂しそうに羊皮紙を畳み始めた。
「名残惜しいが、今日はここまでだ。ルナ、君は本当に素晴らしい研究者だ。君との研究は、僕がこの学院で過ごしたどの時間よりも有意義だった」
「私もです、クリス様。ありがとうございます」
ルナはローブを再び被り、急いで廃墟を後にした。彼女の足は王都の刺繍店へ急いだ。
(アレスの監視を欺き、公然と禁断の研究を始めた。これは、もう後戻りはできない。私は、アレスの王妃になるという目標と、魔導を探求するという個人的な目標を、両立させてみせる)
ルナは、自分の裏切り行為に対するアレスの報復を恐れながらも、新しい知識を得たことへの高揚感に満たされていた。彼女は、王子の檻の中で、静かに翼を広げ始めたのだ。




