第二十九話:騎士の目を欺く奇策と、束の間の自由
約束の火曜日。放課後。
ルナは、マリアと共に、王都の流行の刺繍店へ向かうため、学院の正門を出た。同行するのは、アレスの命を受けた二人の護衛騎士、体格のいいグレンと、寡黙なシモンだった。彼らはルナの周囲を厳重に警戒し、ルナの動きを逐一観察している。
(ここから東門の廃墟まで、この騎士たちの目を誤魔化すには、確実な一瞬を作らなければならない)
ルナは、マリアにだけ聞こえるように、小さな声で耳打ちした。
「マリア様、ごめんなさい。実は、どうしてもこの後、個人的に確認したい場所があります。少しだけ、騎士の方々から時間を盗む必要があります」
マリアは驚きに目を見開いたが、ルナの真剣な表情を見て、すぐにルナの事情がアレスに関わる危険な秘密だと悟ったのだろう。彼女は、少し顔を青ざめながらも頷いた。
「ルナ様…わ、わかりました。私にできることがあれば、何でもおっしゃってください」
ルナはマリアの協力に心から感謝した。
「ありがとうございます。では、刺繍店に着いたら、私が合図をするまで、店内で騎士の方々の注意を引いていてください」
刺繍店は、王都の賑やかな大通りに面していた。店内には、色鮮やかな絹糸や、複雑な図案が施された布地が所狭しと並んでいる。ルナとマリアが入店すると、二人の貴族令嬢と護衛騎士という組み合わせは、すぐに店員の注目を集めた。
ルナは、マリアに最高級の刺繍糸の棚を指し示した。
「マリア様。殿下への贈り物の図案で悩んでいます。この青い糸と銀の糸の色合いについて、騎士の方々の意見を聞いてみてはいかがでしょう。彼らは殿下の好みを熟知しているはずです」
マリアはルナの意図を察し、すぐに二人の騎士、グレンとシモンに近づいた。
「グレン様、シモン様。大変恐縮ですが、殿下の瞳の色に最も近いこの青い糸は、どの銀の糸と合わせるのが、殿下のお好みに合うか、教えていただけますか?」
マリアは、ルナの計画通り、アレスの「好み」という、騎士たちが無視できない話題を彼らに提供した。騎士たちは、殿下の好みを尋ねられて無視するわけにはいかず、真剣な顔で糸の色合いについて議論し始めた。
その瞬間、ルナが動いた。彼女は店の奥、あまり人目につかない試着室へと繋がる通路に一気に足を踏み入れた。試着室は三つ並んでいる。ルナは、騎士たちが自分の姿を確認できる一番手前の扉を開け、中に入った。
「失礼します、試着を」ルナは店員に声をかけ、すぐさま試着室の小さな窓を調べた。窓は外の裏路地に面しており、簡単に開くようになっている。
ルナはすぐに持参していた大きなローブを纏い、顔を隠す深く被れるフードを被った。そして、試着室内にあった自分の私物を少しだけ残し、窓から身を乗り出した。
(今だわ)
ルナは静かに窓枠を乗り越え、裏路地へと降り立った。彼女が店内にいる時間は、騎士たちがマリアと糸の色について議論している、わずか五分間だけだ。
裏路地は人の通りが少なく、ルナはそのまま東門の廃墟へ向かう道を急いだ。彼女はマリアの協力と、騎士たちの「殿下の忠実なしもべ」としての性格を逆手に取ったのだ。騎士たちは、ルナが試着室に入ったのを確認している。まさか、窓から抜け出しているとは夢にも思わないだろう。
ルナは、アレスの監視の網を初めて潜り抜けた。
東門の廃墟は、古く崩れた石造りの建物で、学院の華やかな雰囲気とは対照的に、静かで荒涼としていた。ルナが到着すると、既にクリスが、持参した分厚い羊皮紙の束を広げて待っていた。
「遅れてすみません、クリス様」ルナは息を切らしながら言った。
クリスはルナの服装を見て、すべてを察したように静かに微笑んだ。
「王子の檻から抜け出すのは、大変でしたね、ルナ。さあ、始めましょう。誰も知らない、僕たちの異端の研究を」




