女王選
大きな両開きの扉が、神官達の手でしずしずと開かれる。
女王選控えの間へと足を踏み入れるルカとギルベルトの表情は固い。
ルカ一行が大聖堂へ到着したのは、数時間前だ。前女王の子という特殊な身分であるルカは、女王選中の急な来訪を、かろうじて許された。
とはいえ女王選が開催される建物内への出入りは制限され、一行は大聖堂付近の神殿兵の詰め所で待機することとなり、それが解かれたのは、儀式が始まる直前だったのだ。
女王が決まるまでは、儀式の間への出入りは許されない。既にそこは聖域であり、仮にルカ達が腹に一物を抱えてこの場に来ていたとしても、少なくとも女王選の邪魔はできない。
そう許されはしたものの、それでも本来神官と候補者、推薦者、少数の従者のみしか入れないはずだった控えの間に、全員で来るわけにもいかない。
それでルカが同行者にと選んだのが、ライアの迎えにとよこされたギルベルトだった。
控えの間は石造りの質素な部屋だが、天井が高く、窓が大きい。白く明るい清潔な部屋だ。その端に数名の神官が待機し、中央には四つのテーブルと椅子が並べられている。そのそれぞれに推薦者が座り従者が控えているが、二人がここに居ると思っていた人物はいなかった。
中年の男性貴族が二人と、それぞれの使用人だろう男が一人ずつ。老齢の貴族には、ルカも見覚えがあった。要職に就いている大貴族のはずだ。この男の側には従者はいない。
もう一人の、従者を連れていない美しい金髪の淑女が、ルカの側に寄り深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。わたくしはエルピナル伯爵家当主、クリス・エルピナルと申しますわ。……今回の女王選のために、カタリナ様を推薦した張本人でございます」
クリスの表情は緊張のためか固く、声も僅かに震えていた。ルカは頭を上げるよう促し、柔らかく笑みを浮かべる。
「私はリカイオス領辺境伯、ルカ・リカイオス。このたびは神殿から特段のご配慮をいただき、女王選という尊い場に参加させていただいております。
……さあ、どうかそう緊張なさらずに。ひとまず座りましょう」
クリスの席の横に、神官が新しい椅子を用意する。ルカはそこに腰掛けたが、ギルベルトは護衛という立場を理由に立ったままでいた。神殿側では彼が辺境伯の従者ではなく王子の迎えであることは承知しているのだが、これはギルベルトなりの遠慮だ。
クリスはひたすらに恐縮しているものの、ルカのほうとしては、彼女にそれほど含むところはない。まあ、この女性から誘いを受けなければカタリナが家出同然の行動にではしなかったのに、という考えが全くないとは言えないものの、カタリナはこうと決めたらテコでも動かず己の意思を全うする人間だ。きっかけがクリスだったというだけで、勉学のためにと突然海外に行くようなことは、普段からやらかしそうではある。もちろん、その間の薬師としての仕事を任せられる家臣がいるからこその暴挙である。
カタリナが本気で女王になろうなどと考えている可能性はない。恙なく儀式に出席したとも聞いている。だからあとはルカとしては、彼女が無事女王選の候補止まりとなり、自分と国に帰ってくれさえすればそれで良いのだ。
しかしクリスとしては、自国のすぐ側にある大国の、国境を預かる辺境伯が、自分が推薦した女王候補を追って首都までやってきたという状況だ。それなりに怯えもするだろう。
しかも連れ戻される者はカタリナだけでなくライア王子もであるため、自分がカタリナに声をかけなければこれほどの大事にはならなかっただろうに、と自省しているのかもしれない。
ルカはそう思い、この年若い当主になるべく親切に接した。横に立っているギルベルトも、なんだか同情するような目つきだ。
クリスがひとしきり謝り終え、ルカが彼女を励ましたところで、そろそろ尋ねなければならないことがある。
「ところで……、ライア殿下はいずこに?」
カタリナと共に出国したライアも、その側についているはずのヴォルフも、この場には居ない。神官達からもクリスからも何も言われなかったということは、少なくとも怪我や病気などの理由で姿を見せられないわけではないのだろう。とはいえ居るはずの自国の要人の姿が無いのだから、ルカは当然気になった。
「ええと、もちろん元気でいらっしゃるのですけれど、なんというか、そのう……。と、とても重要なお仕事を抱えていらっしゃるというか……」
曖昧な返事をするクリスに、ルカは首を傾げる。そして、会場内をちらりと視線で探った。どうやら他の出席者も、こちらの会話を伺っているようだ。自分という異物が居るのだからそれ自体は当然だが、今の会話にも、彼らはおそらく興味を持っている。つまり、クリス以外の誰も、いま王子がどこで何をしているのかを知らないらしい。
首を傾げたまま横を見れば、一番ライアの行方を知っておきたい立場であろうギルベルトは、なんだか微妙な顔をしている。困っている、というよりは、苦しんでいるというか、耐えているというか、苦虫を噛み潰しているというか、そう見えもする表情だ。
はて。この護衛殿には、何か察するところがあったのだろうか。
ルカがそう疑問を抱いたところで、一人の神官が入室してきた。
「ライア・エル・ファルシール様および、従者のヴォルフ・アーレンス様がいらっしゃいました」
静かな声でそう告げられ、扉が開かれる。先に現れたのは、主人ではなく従者だった。室内に向けて深々とお辞儀をした少年執事が、後ろにいるであろうライアに手を差し出す。
その手を取り、扉の影から現れた人物の姿に、室内は水を打ったような静けさとなった。
金色の美しい髪、緑の瞳、髪に飾られた白い百合の花飾りとリボン、それから白い簡素なドレス――。
『彼女』は誰だ?
ルカは一瞬、本気でそう思った。
いや、見れば分かる。そこに居るのはライアなのだ。目元に化粧でもしているのか、いつもより垂れ気味の目で、髪も少女らしく結っているが、顔立ち自体にそれほど変化はない。身長だって、ルカが知るままだ。
しかし、それ以外の部分では。明るく聡明で、ときおり少しだけ子供らしいところも見せるあの少年と、この目の前の少女は、それ以外の全てが違う。
夢見るような柔らかな微笑み、舞うようにたおやかな仕草、とろりと甘やかな瞳と一瞬目が合って、ルカの腕にぞわりと鳥肌が立った。
自分の中の記憶はアレをライアだと認識しているが、五感は見知らぬ少女だと訴えている。
異様な事態に、ルカは答えを求めるように周囲を見回した。
推薦者達も神官達も、誰しもあっけにとられてライアを見つめ、中には幽霊でも見たかのようにぎょっとしている者すらいる。その中で奇妙な反応をしているのは三名だ。クリスは祈るように手を組んでライアを凝視し、ギルベルトは眉間を指で揉んで苦い顔をしている。
そして、ライアが従者の手を離し、一人ゆったりとした足取りで向かった先の席にいる、アドニア・フロラキス侯爵は、『彼女』を前にして楽しそうに笑っていた。
「これはこれは、懐かしい」
そう言う老貴族に、ライアはふわりと笑う。
「お茶にお招きいただき、ありがとう。素敵なお席に素敵な香り。侯爵様に手ずからご用意していただける機会なんて、きっともうないでしょうね」
歌うように柔らかな声がライアのそれとは違うことに、ルカはもう驚きよりも納得すら感じていた。この少女なら、きっとそのような声で話すのだろう。当たり前のようにそう受け止めつつある。
しかし、彼女の発言にはひとつ疑問があった。テーブルの上の茶は、当然ながらフロラキス候の用意したものではない。しかし彼自身、彼女のそのセリフを訂正しなかった。
異様な空気に押し黙る人々の視線の中、少女はただ微笑んで、カップへと手を伸ばした。
◇
儀式が行われる女王選の間は、円柱状の壁に丸窓がはまり、そこかしこに春の恵みの女神にぴったりの、花の意匠の彫刻が施された美しい部屋だ。
その中央に置かれた円卓につき、ルビーはただ一心に、古めかしいワゴンの上でお茶の準備をしている神官を見つめていた。
その様子に、少なくともルビーは変わった様子を感じない。茶を淹れた神官が退席すると、別の神官が、これまた古めかしいトレイに乗せられたカップの位置を何度か入れ替える。その神官が退席し、次に入ってきた神官が、ようやくなみなみとお茶で満たされたカップを円卓の中央に並べた。その様子を、大神官が見守っている。
円卓はそれほど大きくはなく、候補者が手を伸ばせば、どれでも好きなカップを選ぶことができる。
儀式に難しい部分は一つも無い。お茶を飲み、一人が、女神に仕える女王は自分であると宣言する。ただそれだけだ。
ただそれだけではあるが、しかし、女王に選ばれるとはどういうことなのか?
それは例えば、正解のカップがあるのか。茶を飲むことでそれと知れるのか。もしくは誰がどれを選ぶのかになど関係なく、女王であるならばただ、女王なのだと理解できるのか。
それが分からないだけでもルビーにとっては問題なのに、そのうえこのお茶には毒が盛られている可能性が高い、というのだから、カップを選ぶ手が止まるのは当然だった。
カタリナは、カップを、というかお茶をじっと凝視している。
ほかの二人の候補者もまた、どこか不安そうな目でカップを見ていた。自分たちと同じほどの情報は無くとも、彼女らだって、前回の女王選で起きた事件は知っているだろう。あれは儀式の後に起こったことではあるが、なにか不吉なものでも感じているのかもしれない。
それに、女王候補のための部屋で二人に会ったときの様子を思い返してみれば、そもそも彼女たちはそれほど女王という立場に執着していなかった気がする。
きっとふさわしい女王が選ばれるでしょうね、なんて話をした記憶がある。そこには、ルビーのように女王にならなければいけないという重圧はなかった。
そう、自分は女王になるのだ。ならなければいけないと、思っている。それはリリスのための復讐であり、リリスを愛する人たちへの祈りのために。
ルビーは、眠り続けるリリスの世話を率先して行っていた。当然一人でやりきれることではない。施設の職員、子供達、それから、癒やしの魔法をかけ、解毒のための薬品をどうにか調合できないかと苦心する神官達。倒れたリリスのために努力をしてくれた人は、たくさんいた。
きっとこの世の誰もが、こうして愛されている。あるいは、愛してくれる誰かに出会うことができる。ルビーはそう信じたい。その愛のなんと尊いことか。
だからこそ、それを踏みにじるようなことが許せない。そんな悲劇を、もし自分が率先して打ち壊すことができるのなら、ルビーはこの手がどれだけ傷つこうとも構わない。
だからどうか、私を選んで。
そう祈るルビーに、低く落ち着いた声がかかる。
「……ルビーさん、一つよろしいですか?」
「もちろん」
固い決意を秘めた声に、カタリナは穏やかに微笑む。
「これはある種の露払いです。お任せいただけますね」
「貴方がそう決めたのなら」
その返事に頷き、カタリナは自分に一番近い位置に置かれたカップを手に取った。候補者達は皆、それをただ黙って見つめている。そうするべきだと思ったのだ。
カタリナは目を伏せ、カップの中身を一息に呷った。
空のカップを音一つ立てずソーサーへと戻し、数秒の沈黙。視線は再びルビーへと向けられる。
「ルビー・メンディエタ。私は、貴方を女王に推薦します」
はっきりとそう宣誓したカタリナの、宝石のように硬く美しい緑の隻眼を、ルビーの黒と灰色の瞳がまっすぐ受け止めた。そして、自分の前のカップを手に取る。
それに続いて残りの候補者もカップを取るが、そこに女神に選ばれるのを待つ気負いは無い。候補者達は皆、ルビーを見つめ、そして微笑んでいた。
ルビーは一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた。そこにはもう、迷いは一つも無い。
神に捧げられた杯を、ルビーは全て飲み干した。
◇
『侯爵が用意した』カップを手に取り、『彼女』はにっこりと花の咲くような笑みを浮かべた。
ゆったりとした仕草は上品で、どこか無邪気な愛らしさがある。普段のライアとて王子らしい品があり、子供ならではの可愛らしさがあると言えるが、これらは言葉で表せる以上に、ルカの目には別人の動きに見えた。
何の変哲も無いカップから、ゆっくりと茶が飲み干される。
そして、次の瞬間。ライアがぐらりと頽れ、床に頭を打ち付ける直前に、彼の護衛と執事がその体を既の所で支えた。
顧みられなかったカップがテーブルへ、そして床へと転がり落ち、粉々に割れる。それと同時に室内は騒然とした。
明らかに服毒としか思えない状況だ。高位神官が側に控えていた部下達へ指示を飛ばし、推薦者達がたじろいで、椅子ごと後ろへずり下がる。倒れた王子を見下ろす侯爵の顔には、未だに意図の見えない微笑みが張り付いてた。
「これは、ライア殿下は一体なにを」
混乱のままに呟きながら、ルカはライアの側へと駆け寄ったが、容態を見ている神官達と彼の側近に阻まれて、近くへと寄ることはできない。
すっかり取り残された中年貴族二人が、一体何事だ、説明を、と喚きはじめたところで、石の床をカンと踏む音がした。
「静まれ!!」
金属を打ち鳴らすような固いソプラノが、高い天井へ響き渡る。
ルカが驚いて後ろを振り向くと、そこにはクリスが、金髪を靡かせて立っていた。先ほどまでの縋るような気弱さを拭い去り、伯爵家女当主としてふさわしい威厳にみちた険しい表情を、未だ優雅に座したままの侯爵へと向けている。
「フロラキス候、貴殿にはその少女の姿に見覚えがおありのはず。これはライア殿下が女王選とこの国の未来、そしてかの痛ましい事件の被害者を哀れに思い行った、貴殿の罪の告発です!
毒を持ち込んだ方法や混入方法も、既に調べはついています! わたくしは神殿へ、貴殿に対する、女神の鐘による審問を要請いたします!」
その声に応えたのは侯爵ではなく、事態を見守っていた一人の年嵩の神官だった。
「やはり『彼女』は、リリス・マルティなのですね?」
嗄れた声に、クリスはきっぱりと頷く。
「そうでしたか……。ええ、私は覚えております。十五年前のあの女王選、あのとき見た彼女と、殿下は、……まるで同じひとのようでした。
調和の女神の加護を受けた者が、この神聖な日に、実際に服毒してまで告発したのです。大神官の命を受け、控えの間の管理を取り仕切る者として、私はフロラキス侯爵からお話を聞く必要があると考えます。よろしいですね、侯爵」
厳しい視線に晒されてもなお、侯爵の微笑みは変わらない。
鷹揚に頷き、侯爵はつ、と人差し指を立てた。
「よろしいでしょう。しかし一つだけ」
「伺いましょう」
「私は女王選の結果を見届けたい。終わるまでは、この場で待たせていただこう」
罪を問われる身としては随分ふてぶてしくはあるものの、次代の女王が誰になるのか知りたいというのは、こうして推薦者として参加した以上、当然の申し出ではある。
どう答えるべきか、と老神官が悩む間に、次の事件が起きた。
控えの間からの短い廊下の先、いままさに神聖な儀式が行われているはずの女王選の間から、何事かを叫ぶような声がしたのだ。ざわざわと話し声が響き、続いて扉が勢いよく開かれる音。同時に、騒ぎの原因を知るべく控えの間の扉も開かれ、その向こうから聞こえる音が明瞭になる。
「誰か! お医者様でも薬師さまでもなんでも呼んで! 中和剤が効かないの!」
声を荒げている女性が誰なのか、ルカは誰何することを忘れた。
女王選の儀式の間から、担架に乗せられて、誰よりよく知る女性が運ばれてきたからだ。
「カタリナ」
呆然と彼女の名前を呼ぶ。運ばれていく彼女の青白い顔が見え、それを追おうと駆け出す前に、笑い声が背中にかかった。
「ああ、こうなるんだねえ。なるほど。良いとも。意外性とお約束というやつだ」
廊下へと向けていた体を振り向かせれば、楽しそうな声の主と、蒼白になったルカの視線がかち合う。
「やあ、リカイオス伯。きみのことは噂には色々と聞いているよ。こうしてこの場で会えるとは、私は運が良い」
「……貴方がこれを?」
会話には答えず問うたルカに、老貴族はこっくりと頷いた。男の瞳にも、表情にも、愉快で仕方が無いという色が現れている。それを見るルカの表情がぎしりと強張り、それと同時に瞳孔が開き、ざわりと毛髪が逆立った。ルカの中に混じる狼の特徴は、目の前の男を今すぐにでも攻撃したいと思っているのだと訴えている。それでもただその場に立ち唇を噛みしめるその姿に、元凶であるアドニアは首を傾げた。
「おお、きみは我慢強いね。今すぐ私を殴り倒して、なにを盛ったか聞き出さなくて良いのかね?」
揶揄いの滲むその口調に、ルカは額に青筋を立てる。それでも、その足は侯爵のほうへは向かわない。
「当然貴方は神殿兵に拘束され、今すぐにでもカタリナの治療の協力をするべきだ。しかし、そのために私が貴方を殴るなどということはない。
カタリナは公明正大で賢く優しい女性だ。領主ともあろうものが、いかな罪人相手であろうが私的な制裁をくわえることを、彼女は、あのうつくしいひとは許さない!!
……許してくれないんだ……」
絞り出すような声とともに、一筋の涙が流れ落ちる。握りしめられた拳には血が滲み、その激情の強さを示していた。
「この場を取り仕切るのは神官長代理殿だろう。私はこれ以上貴方に構っている暇などない、失礼する!」
きびすを返して部屋を出たルカの後を追うように、担架に乗せられたライアと、ヴォルフにギルベルト、クリスが、神殿内の医務室へと向かう。
後に残された推薦者達が見守る中で、長く政治の中枢にいた大貴族は、神殿兵の手で拘束された。男の目は穏やかに、そして満足げに伏せられている。
「ああ面白かった。なんて素敵なんだろう……」
噛みしめるような呟きを耳にしたものは、一人も居なかった。
◇
「カタリナーッ!」
大声を上げながら医務室へと入室したルカは、ベッドに横たえられたカタリナの側へ一直線に駆け寄った。
隣のベッドにはライアが寝ており、まだ意識が茫洋としているのか、いまにも再び眠ってしまうそうな様子で瞼を閉じかけている。そちらに付いている神官は少ない。中和剤が効いたのだ。
しかし、いまのルカは彼の無事に気付くだけの余裕が無かった。カタリナのベッドの足下に縋るようにして泣いているクリスさえ、目に入らない。
お静かに、とルカを押しとどめようとする神官に、鬼気迫る形相のルカは一歩も引かない。
「確かに医療の知識は貴方たちのほうが断然多い。しかしこのカタリナという女性については、私は誰よりよく知っている。その私が断言するが、彼女は絶対に治療のための手がかりを残しているはずだ!
彼女は賢くて大胆で無鉄砲でたまに周囲を振り回す人間だが、勝算もなしに服毒するような人間ではない! ものすごくふてぶてしいんだ!」
たいへんな言いようではあったが、勢いと説得力はあった。おそらく実感がこもっているからだろう。何かあるはずだ、と必死に考え込むルカの視線が、ふと床へと落ちる。ベッドの影になったそこには、栞の挟まれた小さな手帳が落ちていた。
「カタリナのものだ」
呟く声に、泣きじゃくっていたクリスが顔を上げる。
「も、もしかして、そこになにか書いてあるやも……!」
「いや……」
手帳に挟まれた栞を、ルカの指先が丁寧に抜き取る。白い押し花がついただけの、シンプルな紙の栞だ。
ルカはその白い花に、見覚えがあった。
この花を、自分は何度も見たことがある。カタリナの家の薬草園に植えられている花だ。これを、彼女はなんと言ったんだったか。そう、確か――。
「死人も目を覚ますほど苦い薬だ、と……」
呟きながら、ルカは押し花の花弁を剥ぎ取った。そして神官達が止める間もなくカタリナの上へ覆い被さり、口移しでそれを飲ませた。
悲嘆に暮れていた人々が静まりかえり、クリスが顔を真っ赤にして口元を両手で覆う。いまなにを? という驚愕の中で、小さなうめき声がした。
「……苦い」
明らかに苦しんでいるその声の主は、先ほどまで死んだように眠っていた、カタリナだ。
「カタリナ!!」
部屋が震えそうな大声をあげ、ルカが思い人を強く抱きしめる。それと同時に再び苦しげな声が上がる。どう考えても、耳元での大音声と力強すぎるハグは、寝起きの人間には強烈すぎた。
ルカの号泣に、クリスの号泣も重なる。カタリナはやかましくも暖かい二重奏に苦笑した。
自分をみしみし音がしそうな強さで抱きしめるルカの背中を、眠そうな目を顰めながら優しく撫でてやり、心配そうに見つめてくる神官に向かって、問題ないと示すために軽く手を振った。
「ルカ、そろそろ離してください。皆さんが困っています。それに手のひらに怪我をしていますね? とりあえず私のハンカチでも巻いておきましょう。後で手当を」
「あ、ああ、すまない……」
心底冷静な声でそう言われれば、顔を涙でびしょびしょにしながらも、ルカは素直に離れた。ちなみにその背後のクリスの顔も負けず劣らずびしょびしょだ。
カタリナが室内を軽く見回してみると、医務室の中には神官長を筆頭に治療のために集まった神官達のほか、王子とその家臣二人、ルカにクリスにルビーと、壁際には候補者の女性二人も並び、ほとんど全員が勢揃いしている。自助派の貴族と従者はさすがにここへは来なかったようだ。
隣のベッドで寝ているライアと目を合わせ、二人は小さく笑い合う。
「ご無事でしたか、ライア様」
「もちろんです。カタリナさんも無事で良かった」
「ええ」
問題なく話をする服毒者二名の様子を見て、どうやら本当に無事なようだと、周囲の人間もそれぞれに胸をなで下ろした。経過を見ていた神官長は小さく頷き、穏やかな笑顔でそうっと会話に割って入る。
「大事ないようでなによりです。ところで申し訳ありませんが、先ほど服用された植物の薬効について、お教え頂いても構いませんか?」
医療者としては当然聞いておきたい事だろう。カタリナは頷き、シーツの上に落ちていた栞を手に取る。
「ああ、これですか。ただの気付け薬の原料です。これが毒の成分を打ち消した、というわけではありません。単に私が効きの早い睡眠薬を飲み、この刺激で起きただけですから」
「えっ!?」
目を見開いたルカがカタリナの顔を凝視し、カタリナがその顔をいつもの無表情で見つめる。いや、ルカには分かる。カタリナのこの顔は、やらかしたことを何事もなかったかのようにしれっと流す気でいる顔だ。
が、当然そうはいかない。
「……そういえばカタリナ様は、寝付きが悪いと申し出ておられましたね。そのとき処方された睡眠薬ですか?」
「はい、それです。まあ多少、効きが早くなるよう工夫は凝らしましたが……、体調に問題の出ない範囲です。ついでに言うなら、枕が変わって寝にくかったのも事実です」
「……貴方ほど知識のある方の言葉です、信じましょう」
神官長はそれで引いてくれたものの、心配をかけられた人間はまだ他にもいるのだ。ずいと側に寄ったルビーが、目をつり上げてカタリナを見据える。
「つまり、どういうこと? 貴方は盛られた毒で倒れたわけではないのよね? それじゃああの男が盛った毒はどうなったの? どうやって盛ったの?」
「さあ……」
「さあ!?」
いままで何もかもを理詰めで語っていたカタリナらしくもない言葉に、ルビーは目を白黒させる。さすがにこれだけでは返事にならないとは、カタリナも自覚はしていた。しかしながら、これは彼女にとっては別に必要の無い謎解きだ。まあ、周囲はそんな理由で納得してはくれないだろう。
「そうですね……。まず、どうやって、という部分については解明する必要を感じませんでした。結局、毒が効かなければそれで良いのですから。
……それよりも、もし最近ナギス系睡眠薬の中和剤や、その他の解毒剤の購入を申請した神官がいるのなら、身柄を確保していただきたい。最悪の場合、自害するでしょう」
「ええ、問題ありません。それについては貴方が倒れた時点で手配しています」
「ありがとうございます。それで一つ心配の種がなくなりました」
神官長に軽く頭を下げ、カタリナは言葉以上にとてもほっとした。侯爵に協力していた神官が、なぜそのようなことをしたのかは今のところ分からない。私利私欲のためなのか、それともやむにやまれぬ事情があるのか。逃亡のおそれもあるが、己の仕える神のための神事を穢したことを苦に、罪を命で雪ごうとする可能性もあった。カタリナとしては、そのような犠牲を出さなくて済むなら、そのほうがいい。
「それも大事だけれど答えてちょうだい。ねえ、貴方はなんで薬を飲んだの?」
「それは、ライア様のお話を聞いたからですね。犯人の動機が騒ぎを起こすこと自体にあるのなら、その期待に応えれば満足するかと」
「犯行が成功したと勘違いさせたかった、ってことね?」
その通りだ。頷くカタリナに、ルカは渋い顔をする。
「確かに非常にご満悦の様子だったな……。犯行も自白してくれた」
「それは良かった」
相変わらずの無表情でいるカタリナに、周囲は逆に頭が痛い。しかし、この行動が功を奏したのは間違いなかった。せめて事前に伝えておいてくれ、と言いたくはあるものの、自然な「騒動」を演出するには伝えない方が良いことも理解できる。
「いえ、ちょっと待って。結局毒はどうなったのよ!」
食い下がるルビーに、カタリナはなんてことのないような顔をして小首を傾げる。
「ええ、ですから申し上げたとおり、効かなければ問題ないのです」
「だから……」
「実際効かなかったでしょう」
そう言って僅かに微笑むカタリナに、ルビーは一瞬怪訝そうな顔をする。そして、あっと声を上げた。
「わ、わたしが飲んだの!?」
春の女神の巫女たる女王には、その加護によって、あらゆる毒と薬が効かない。誰がどんな毒を盛ろうが、問題の無い人材だ。
だからといって知らぬ間に毒を飲まされていたと知れば、驚きもするし怖くもある。なにせルビーはつい先ほどまで、毒が効かない体などではなかったのだから。
「ちょうど問題のカップの前に座っていましたし……」
「そ、それこそ一声かけなさいよ! というか今更だけど、毒が入ってますって言って中止すればよかったんじゃない!?!」
「あのときは儀式を中断せず、無事終えることが大事だと考えましたので」
「もう!」
ルビーも怒りはするが、結果として起きたことだけを見れば、女王選はルビーが新女王となって何事もなく終わり、犯人はあっさりと自白して逮捕され、全員が無事で済んでいる。だからこそ、他の人間も文句を付けようがなかった。いや、なにか言えば言えただろうが、仕掛けたカタリナ本人が、睡眠薬を飲んで倒れるというヘタをすれば怪我くらいはしかねない役を買って出ているのだ。
「まあ、犯行の細かい手順や動機については、尋ねれば本人が答えてくれることでしょう。私は解明する立場にはありません」
それはそのとおりで、カタリナはそもそも、事件を調べたり解き明かしたりする立場には就いていない。彼女は捜査官でも探偵でもなく、ただの薬師なのだ。
とはいえ彼女とて、なんとも思っていないわけではない。怒れば良いやら礼を言えば良いやら悩んで難しい顔をしているルビーの様子を、伺うように少し口ごもる。
「……申し訳ないとは思っています」
いつもの無表情へ、少し困ったような色を滲ませるカタリナのその顔に、ルビーはがくりと肩を落とした。なんだか力が抜けたのだ。
「わかったわ。もともと貴方にはとっても世話になっているもの。それ毒ですよって言われなかったことくらい水に流すわ。貸し借りなしというやつね。……だから、貴方は私の恩人ではなくて、ただのお友達よ!」
つんと顔を上げてそう宣言するルビーに、カタリナは優しい微笑みを向けた。
一段落した二人の様子に、べしょべしょの顔をカタリナのベッドのシーツで勝手に拭っていたクリスが、へにゃへにゃと長いため息を吐く。
「はあ~~~~~~。それにしても、肝が冷えましたわあ~。カタリナ様も、ライア様も、なんというかとても体を張るのですもの。必要なことだったとしても、心配でしたのよお」
そう言ってまたはらはらと涙を零すクリスの純真さに、さすがにカタリナも、これが一番手っ取り早そうだったので、というような言葉は返せなかった。代わりに隣のベッドでライアがふわりと笑い、見守るような優しい視線をクリスへ向ける。
「どうぞお気にならずに。好きでやったことですから」
「私もそうです」
そういう話ではない、という返事を平気でするライアには、ヴォルフの困ったような微笑とギルベルトの咎めるような視線が向けられ、王子に便乗したカタリナには、ルカの仏頂顔が向けられた。そう、ルカはまだ、カタリナに怒っている。なにせ手紙一枚で家出どころか出国され、ここまでずっと心配させられていたのだから。
それを当然分かっているカタリナも、その顔を鉄の無表情で真っ向から受けて立つ。
「まだ何か問題が?」
「ああ、もちろんある。もう二度とこんなことはしないでくれ。俺はきみが大事なんだ」
「します。私の行動は私の意思の元、決定しますので」
先ほどまでとは若干違う緊張感をはらんだ二人の会話に、周囲の人間達は若干そわそわする。どう見ても二人はただならぬ関係だということくらい、誰だって察せられた。つまりこの場で痴話喧嘩が発生することを危惧しているのだ。部屋を出たほうが良いかと考えるものも居たが、物音を立てて注目を集めるのも気が引けた。
一方、注目の二人はそんな室内の様子にも気がつかない。
「ああ、そうか。きみがそう言うのなら、俺にだって考えがある!」
「考え。なるほど、うかがいましょう」
睨んでいるのかというほど眼力のあるカタリナに、ルカは一瞬たじろいだ。が、大きく息を吸い、緑の隻眼をしっかりと見つめる。
「きみは当然きみの考えのもと行動する権利がある。俺はそれを制限する気はない。しかし、心配する権利はこちらにもある! 幼馴染みでも友人でも主君でもなく、もっと意見しても良い立場になる!
きみを一番そばで守ると決めた、結婚してくれ!!」
ルカの言葉に、一瞬周囲がざわっと動く。が、声は出さない。明らかに出してはいけない。このまま自分たちに見守られていることを思い出さず、突っ走ってもらうべき場面だった。
そわそわと身を縮めて目立たないよう努める野次馬と化した人々と対照的に、カタリナは石のように固まっている。が、その鉄のような表情には、徐々に赤みが差していた。
真っ赤になったカタリナに、再び周囲の声なき注目が集まる。未だかつてこの中で、間違いなく誰も見たことのないカタリナの表情だった。
もはやこれだけで返事に等しいとすら思える反応ではあるものの、カタリナ自身はなにか言うべく、唇を何度か開閉している。
散々迷ったカタリナは、考えのまとまらないまま、衝動的に口を開いた。それは彼女の人生の中で、初めての行動だ。
「わ、私は、……あなたの瞳のコバルトグリーンが、きっとこの世界で一番きれいなコバルトグリーンだと、思います」
精一杯の愛の言葉を述べた才女は、真っ赤な顔を控えめに伏せる。
ルカはその姿を目に涙を浮かべ、愛おしさを隠さず見つめた。そして彼女の意識が戻ったときとは違い、今度は柔らかく、包み込むように愛する人を抱きしめる。
「ああ、俺も、……俺も、同じように思う。きみの瞳はいつだって、この世で一番美しい」
仲睦まじく寄り添う二人。ついに結ばれた幼馴染み。美しいその光景に、「メッ」と挟まる鳥のような奇声。
「めでたいですわ~~~~~~!!!!」
爆発した感情を乗せに乗せたクリスの大音声祝辞につられたように、固まっていた人々が次々と似合いの二人を祝福する。状況を忘れていたルカとカタリナが顔を赤くしたり青くしたり身を捩って恥ずかしさに耐えようが、周囲からの滝のような言葉は止まらない。
今日の良き日に、女王より先に盛大に言祝がれた二人が、やけになったようにルビーへ祝いの矛先を向けるまで、この騒ぎは盛大に続いたのだった。




