その薬師は名探偵である・後
こうと決めたカタリナは、常に迅速かつ頑固だ。
まずは自室へと向かい、旅装に着替えて、とっくに準備してある旅行鞄をひっつかむ。
改めて書き置きに追記することはない。まあ毒を盛られはしたが、些細なことだ。必要だと思えばコンラドが言うだろう。伝えないならそれもいい。
自分の密出国とでも言うべき行動について、カタリナは信頼の置ける人間に話してはいるが、その内容は最低限に留めていた。
女王選の招待が届いたこと、今後のためにも行くべきだと考えていること、ルカに正直に話せば許可は出ないだろうこと。言ったのはその三点のみ。
それだけで付き合いの長い執事頭と薬師には自分の考えが伝わっただろうが、ルカや他の人間を欺いて黙って女王選に出るつもりである、協力してくれ。などと馬鹿正直に言いはしなかった。全てこのカタリナ・トゥリーナが一人で計画したことである、と言い張れるようにだ。それが家臣の忠誠に対する、カタリナなりの誠意だった。
といっても、いざとなったら庇われるだろう気はしている。そのときはそのときだ。
鞄ひとつ手にして裏口を抜け、足は迷いなく、敷地の一角の寂れた崖際へと向かう。
幾分傾斜がきつく庭として使うには向かないそこは、鳥が種を運んできたのか、幾本もの木が地面にへばりつくように生えている。ここからうまく進めば斜面や人家の屋上や庭を経由し、街を出ることができるのではないかと目を付けていた場所だ。逆に、この屋敷へ侵入しようとするのならば、おそらくここからがやりやすい。
といっても、ここに曲者が隠れていると思ってやってきたのではない。ここが一番使用人達に気付かれず話せそうな場所だからやってきたのだ。
標的が家から出てきたのだから、その気があるなら相手のほうから来るだろう。そう考えて、カタリナは気負わず周囲へ声をかけた。
「私は女王選への招待を受け、参加する意思があります」
声への返事はなく、風に揺られてざあざあと葉の鳴る音がするばかり。これで自分一人きりだとしたらとんだ道化だ、と内心笑い、それでも言葉を続ける。
「ただし、女王になる気はありません。私は女王選で選ばれないために、彼の地へと赴くのです。
私を害して女王選へ向かわせなかったとしても、他の人間が選ばれ送り込まれる可能性もありましょう。それならば、確実に候補者が一人減る道を選ぶのが最良ではありませんか。
とはいえか弱い女の身では、反対する領主とその兵を出し抜き国を出るのは至難の業。手助けがいります。
我々の利害は一致する。さあ、手を組もうではありませんか」
滔々と話すカタリナの声には、夜闇のどこに潜むかもわからぬ、姿も知らない相手への恐怖も、迷いもみじんもない。
雲の切れ間から差し込む月光に照らされる姿には、得体の知れない迫力があった。それに気圧されるように、数人の人影が物陰から現れる。
揃いの黒い衣服で身を包んだ曲者達に、カタリナは表情を変えず少しだけ首をかしげてみせる。さあ意見を聞かせてみせろ、とでも言いたげな態度は堂々として、この人数差では何があっても逃げようがないな、などと内心考えていることは伺わせない。
「まずは……、女王選への招待、おめでとうございます。新女王の誕生を、我々は心待ちにしております」
黒服達の中から進み出た一人が、恭しく頭を下げてそう言った。それと同時に、背後に控える数名がカタリナに跪く。
危害を加えようとした相手に向かって白々しい、と感じはするものの、それが彼らの特徴でもあり異常性でもあるのだろう、とカタリナは思い直した。
この人こそがふさわしい、と思う相手を女王とするべく他の女王候補を蹴落とすような真似をし、神聖な巫女王を選ぶ儀式に介入した不敬を身をもって償う。などという行為ははたから見れば異常ではあるが、かの国では連綿と続いてきた文化でもあるのだ。他国の人間がそれはおかしいと指摘したところで、どうなるものでもない。
そうであるから、カタリナはますます毅然と相手を見やった。「神聖な女王の候補」にふさわしい振る舞いであればあるほど、カタリナの正当性と立場は保証されるからだ。
リーダー格であろう黒衣の男は、カタリナに二歩以上の距離を開けて跪き、組んだ手を祈るように額に当てた。
「お考えは理解いたしました。しかし我々は、貴方様がそうなさった後起こるであろう騒動に対し、なんら責任が持てませぬ。よろしいのですか?」
「もちろん構いません。全ては私の意思で、私の責任により行うことです」
「お心は固いのですね……。では」
男は一度言葉を止め、カタリナを見上げた。暗く影の差す覆面の隙間から、静かな視線が彼女を見つめる。人相は分からないが、その目が理知的で冷静に見えるだけに、彼らの行動はカタリナには理解が及ばない。
とはいえ、その上でカタリナはこの話を自分の思い通りに決着させる必要がある。
「誓って頂けますか」
「内容によりますが、私なりの誠意は示しましょう」
「本当に女王選へ出場した上で、女王にならぬと」
「私は女王選の詳細を知りません。もしもくじ引きのような、あるいは天啓を下されるような方法である場合確実にとは言えませんが、私の自主性が必要になるのならば、もちろんお約束いたします。……女神フロルに誓って」
この土地は隣国と縁深く、文化もよく似ている。神殿も国教である調和の女神スフィアのほかいくつかあり、隣国と同じ春の恵みの女神フロルを信仰している人間も多い。
多数の神を信仰することが許されており、カタリナはどちらの女神にも親愛に近い緩い信仰心を抱いているが、彼らが聞きたいのは彼らの崇める、春の女神への誓いだろう。
この世界では、神が実在している。当然それらへの誓いを破るという行為は、地球でのそれより重い意味を持つものだ。
「承知いたしました。女王候補たる貴方様の願い、聞き届けましょう」
男が再び頭を下げ、重々しく応えを返す。
それに対してカタリナはあくまで平然とした態度で頷いてみせたが、内心ではもちろんそこまで余裕があるわけではない。
いかに貴族として、医療者として教育を受け、時に人の命に関わるような場面を経験しているとはいえ、こんな駆け引きなど当然それらの範囲外だ。
どうにか自分の望む方向に話を持っていくことは出来たが、黒服の男達の後に付いていき、無事女王選へたどり着く保証もなかった。
それでも行かなくてはならない。領地のため、ルカのため、なにより自分がこうと定めた決意のために。
カタリナが固い意思で一歩を踏み出したその瞬間、予想外の声がその場に割り込んだ。
「双方、お待ちください!」
闇夜の重苦しい雰囲気は似合わない、声変わり前の子供の鈴を振るような声は、それでいて話し慣れている人間特有の張りがある。
カタリナだけでなく、隠密を生業とするであろう黒服達も、虚を突かれて声のした方向を振り向いた。
そこに居たのは、本来であれば領主館の客室で寝ているはずの、第三王子ライアだ。背後には側仕えのヴォルフが、明らかに不似合いな背嚢を背負って立っている。
「殿下……、なぜ、ここへ」
黒服達より先に我に返ったのは、カタリナだった。
どうやって、とは聞かなかった。彼の立場と頭脳があれば、屋敷の警備の隙を突くくらいのことは出来るだろう。側近である魔法に長けた少年の助けがあればなおさらだ。
しかしながら、なぜ、と問うたほうがこの場合は愚問なのかもしれない。
数日過ごしただけでも、夜の帳の下で泰然と立つ少年が、極度にお節介かつ人助けに執着する質らしいということは理解できたのだから。
案の定、ライアは当然という顔でカタリナを見上げた。
「付き合いの短い僕がこんなことを言うのもなんですが、昼間のカタリナさんの話しぶりは、どこからしくない気がしました。普段の貴方なら、もっとルカさんの対策に譲歩し、あらゆる可能性を探ったはずです。
しかし貴方は強固に反対した。そのあとも譲歩したふりをして、明日までの時間を稼いだように、僕には見えました。
貴方はきっと、私利私欲のためにそういうことをする人間ではない。それに、軽率な判断をすることもない。だからそうするからには、それだけの理由があるはずです。
ひょっとすれば今夜中に、なにか起きるかもしれない。けれどこの考えは全部、僕が受けた印象からの、推理とも呼べない想像でしかありません。貴方の意思を尊重するためにも、ルカさんにお話しするのは気が引けました。
だから僕は今夜、信頼できる腹心一人を伴って、ここへ来ています」
まっすぐな視線は、今度はカタリナから黒衣の男達のほうへと向けられた。
いまこの場で、誰にも遠慮することなく、ただ己の意思を突き通さんと確固たる意思を一番強く掲げているのは、ひょっとするとこの少年なのではないか。そう思わされるひたむきさがその視線にはある。
それに晒されながら一言も発さずじっと立つ男達は、さすがに最初に見せた動揺はもう押さえ込んだようだ。しかしそんな彼らも自分と同じように、どうするべきか選べずにいるのではないかとカタリナは考えた。
その隙を突くかのように、月光をよく弾く白金の髪の少年は、てらいなくハキハキと口を開く。
「お仕事ご苦労様です!」
「……」
黒衣の男は押し黙った。それはそうだろう。ある種同情のようなものを感じながら、カタリナはこの奇妙なやり取りを見守ることにした。先ほどまでの緊張感がふっと途切れ、やけになっているとも言える。
一方ライアはといえば、大人達のそんな反応も、背後で心配を顔いっぱいに出している部下のことも気にかける様子はなかった。
「僕はライア・エル・ファルシール。ファルシール王国第三王子です。
まずは謝らせてください。行儀の悪い行いをしてしまい申し訳ありませんが、お話を盗み聞きさせていただきました。
本来であれば王族ともあろうものが、他国の間者とこうして対面し直接話をするということは、あってはならないことでしょう。
しかし今回は、我が国の大切な国民であり、今回の私的な旅行においてとてもお世話になっているカタリナさんの一大事です。領地の将来を考えてのこととはいえ、このような状況で彼女一人が全てを背負い隣国へ向かうなど、見過ごせることではありません。
なので、無理を承知でお願いをします。責任はもちろん、できうる範囲で取ると誓わせていただきます。
僕も、カタリナさんと一緒に連れて行ってください!」
そう言って頭を下げる高貴な子供に、黒服の男がぐっと息を詰まらせた。本来ライアの立場であれば、自国に侵入した他国の間者など、視界にも入れずに「処分せよ」と指示一つ出すだけで消せるだろう。黙って話を聞く余裕があったということは、見つからず兵を呼ぶこともできたということだ。そうせずわざわざここまで下手に出てお願いをしている。
これは彼らにとっては酷いプレッシャーだろう。
先ほどまでは不気味さすらあった男が、こちらへちらりと伺うような視線をよこしてきたものだから、カタリナは黙って首を横に振った。
ライアに対する説得は、まず間違いなく無意味だ。
そもそも大人に諭されて自分の考えを曲げる素直な子供なら、こんなことにはなっていない。カタリナは人間の感情の機微に対する理解は浅いほうだと思っているが、ライアと数日過ごす中で察することはあった。
「……お初にお目にかかり、恐縮でございます。直接言葉を交わすご無礼をお許しください。……ライア殿下、ちなみに断られた場合はどうするおつもりで?」
「大声を出して人を呼びます!」
清々しい笑顔を浮かべる少年は、見た目の清らかさと可憐さを裏切り、たいそう強かにそう答えた。
そう言われてしまえば、もはやこちらに選択肢などはない。
相手の背後には、プロの間者から完璧に隠れてみせる程の魔法の腕前を持つ側近が控え、本人はこの国で上から数えたほうがだいぶ早い権力を持ち、そしてそれらを活用することに全くの抵抗がない。
仮に自分たちが一言も言わせず二人を制圧したとして、その後に残るのは第三王子が隣国の間者とこの国の男爵に共謀して暴力を振るわれた、という事実だけだ。
そんなことになるならばまだ、王子が我が儘を言って隣国までの無茶な旅に着いていった、そして自分たちはその我が儘を説得できず折れた、という話のほうが穏便である。
何より今は時間が無い。王子は確実に、それも織り込み済みで話をしているのだろう。
大人達の間で生ぬるい視線が交わされ、それから、どうあがいても付いてくるつもりだろう自由な王子へ向けられる。
カタリナはとっくに腹をくくっていた。そして、やる気があるのだか無いのだか分からないターゲットと、やたらお節介な闖入者に仕事を引っかき回された間者もまた、腹をくくらざるを得ないと認めた。
「……可能な限り、安全に配慮いたしますが、これは人目を避ける道行きでございます。ご不便も多々ありましょう。失礼ながら、子供の身には辛いことも多うございます」
「ある程度の野営技術と山歩きに関しては、個人的に教育を受けています。それに、僕は王族として、国民の苦難をともに分かち合い、寄り添う覚悟があります。なにも問題ありません!」
せめてもの悪あがきの忠告へ、ハキハキとよい子の返事をされ、間者の男は些かうなだれたように見えた。カタリナとしてはもはや若干の面白みを感じつつあったが、それは屋敷を出た当初の、堅固で重い決意に満ちた心と比べれば、随分息がしやすい心地でもある。
「……それでは、ご案内いたします」
絞り出すような間者のリーダーの声の悲壮さと夜の暗さとは裏腹に、こうして一行は、奇妙な明るさとともに旅立ったのだった。




