その薬師は名探偵である・前
ルカ・リカイオスをこの世で一番愛しているのは、きっとカタリナ・トゥリーナだろう。
なんてことをカタリナ自身が考えることはなかったが、周囲の人間は、そんなふうに思っていた。ルカの両親である先代領主夫妻が亡くなってからは、とくに。
そう思われるほどに、カタリナは公私ともにルカに尽くしていた。
次期領主のための薬師となるべく幼い頃から育てられ、ルカの友人としても世話を焼き、おそらく家族や側付きの使用人を除けば、一番長く時間をともにしているだろうという自覚はカタリナにもある。
あらゆる薬学の本を読み、父や兄弟子から実践を学び、必要とあれば医学書のみならず魔術書にも目を通した。
それらの努力はカタリナにとっては苦ではなかったし、むしろ楽しい生き甲斐だと言っても過言ではない。
たまたま自分の資質が、役割と合致していた。そんなところだ。忠臣と褒めそやされるような話ではないのに、口にすれば謙遜と取られるだけだということも、カタリナはよく知っていた。
カタリナの主観で見てみると、実際にはまったくそんなことはない。
たしかにカタリナは主君であり幼なじみでもあるルカを愛しているが、そんなことは、彼の周囲の人間なら当然のことだと思っている。
ルカは子供の頃から明るく朗らかで、そこにいるだけで晴れた初夏の青空のように周囲を照らす、そんな人間だ。
少々抜けている部分もあるが、努力家で優しい彼は、そんなところも魅力になってしまう。
カタリナは真面目にそう考えていたし、自分以外のリカイオス家の家臣達もそう考えていると思っている。
つまり、彼女は自覚の薄いまま、彼に心底惚れていた。
そんなカタリナにとって、目下の悩みはルカの過保護さである。
ルカは昔から次期当主という立場もあって、自分が周囲の人間を守るのだ、という意識の強い子供ではあった。
誰にでも分け隔てはないが、女性や子供、身体の弱いものなど、自分より客観的に見て弱そうな相手には特に優しい。
長じてからは逞しい青年となったため、ルカにとって、守るべき弱い人間は随分と増えた。立場から考えても、大抵の人間は彼より弱者と言えはする。
当然のことながらカタリナも、彼の守るべき者に分類される。
それ自体は問題ない。慈悲深いことは領主として良いことだ。
だが、それにしたって限度というものはある。
たとえばカタリナが下町へ降りて領民達の健康状態を確認しようとすれば、自分も付いていって一緒に歩こうかと言い出すし、領主館の庭師や執事が軽い怪我や病気になった際に診察すれば、後ろで落ち着かなさそうに見守っているし、あげく雨の日など足場の悪い日にカタリナが領主館に来るだけで、帰りは送っていこうかなどと言い出す。
トゥリーナ家は領主付きの薬師という立場上、万一の際すぐに領主館にこれるようにと、庭同士が繋がっている。
カタリナは薬師としての仕事を覚えてからは、父親について毎日のようにこの道を歩いてきた。防犯上の問題から、建物や岩場や植物に隠された細い道にはなっているが、通い慣れた、いわば自宅の庭の延長線上にあると行っても良い道だ。
いくら非力な若い女とはいえ、なにもそこまで心配せずとも良いものを。そんなに自分は頼りなく見えるのだろうか。
……と、カタリナは本気で思っている。
ここまでお互い思い合っていながら二人の仲が進展しない理由の一つが、普段は博識で聡い彼女の、恋愛に関する鈍感さにあることは、彼女以外の人間からすれば明白だった。
そんな二人の間に降って湧いた問題が、今回の女王選である。
あくまで周囲の負担の少ない対処に収めようとするカタリナと、彼女を心配するルカの言い合いは、館の人間達にとっても他人事ではなかった。
なにせ彼ら彼女らは、既に二人を将来の領主夫婦と思っているのだ。
カタリナは鈍感な部分があるがルカにぞっこんで、ルカのほうは言うまでもない。幼い頃に父親とともにトゥリーナ家を訪問し、ぽうっと赤い顔をして家に帰ってきた時点で、彼の心は周囲に筒抜けだった。
今回の第三王子を含めた話し合いは館中に知らされるものではないが、かといって極秘にされてもいない。
騎士隊や諜報班はもちろん、館の管理を任される執事、女中頭などはすぐに内情を知り、ことの成り行きをハラハラと見守っていた。もちろん、それを顔には出さないことは、貴人に仕える存在としての義務である。
そんなわけで、領主館の廊下を歩くカタリナへ声をかける役目は、経験豊富な女中頭が背負う次第となった。
王子との会話を終え部屋を出たカタリナは、いつも通りの涼やかな表情で、領主館の廊下を迷いなくまっすぐに歩いていく。
王子の案内役としての本日の仕事がなくなり、領主の健康状態も問題ないとなれば、家に帰って薬草などの管理を行うのが彼女の役目だ。
時折すれ違う館の使用人達に控えめな挨拶をし、玄関ホールに着いたところで、カタリナは女中頭から声をかけられた。
「カタリナお嬢様、今日はもうお帰りで?」
「ええ、ルカに予定外の仕事が入り、ライア殿下も今日は館でゆっくりなさるようです」
ふくよかで小柄な女中頭に、カタリナは少し猫背になって視線を合わせ返事をする。一見無表情でとっつきにくく見えるカタリナが周囲から好かれるのは、こういった気遣いを自然とするからだ。
「あらあら、でしたらお茶請けをお土産に持って行かれてくださいな。せっかくたくさん用意しましたもの」
「お気遣いありがとうございます」
「すぐに持ってきますからねえ」
そう言い残して女中頭がニコニコと厨房へ行ってしまったので、カタリナは玄関ホールでひとりぽつんと待つことになった。
通りすがった若い女中に、ホールの壁際に置かれた椅子を勧められ、そこへと座る。そうすると視線の先は先ほど歩いてきた廊下になる。
廊下の向こう、会議室では、ルカや騎士達が領地の警備についてまだ話し合っていることだろう。カタリナとしてはそれがなんともむず痒く、申し訳ない。
背筋をピンと伸ばして、ひたと遠くを見据えるような視線をする彼女に、周囲を通りすがる使用人達はカタリナ様お労しや、早く付き合っちゃえば良いのに、と勝手な感想を持つのだけれど、もちろんカタリナがそれに気付くことはない。
たいして時間を空けず女中頭が戻ってくると、カタリナはすぐに椅子から立ち上がった。
小さな紙袋を受け取って礼を言うカタリナに、女中頭もお気になさらないでと気さくに返事をする。なにせ菓子はカタリナを引き留めるための言い訳でしかないので、本当に気にすることはない。
胸の前で両手を組み、穏やかな笑みを崩さずに、女中頭はあくまで世間話のような気楽さでカタリナに本題を投げかけた。
「ルカ様がずいぶんお急ぎの様子でお部屋へ行かれて……。子供の頃から早歩きがなかなか治りませんわねえ」
「活発なかたですものね」
幼い頃から明るく元気で、忙しなく動き回っていたルカはいまだに、領主らしく悠々と歩く、ということが苦手だ。落ち着きがないからおよしなさい、と年配の家臣達に注意されては優雅に歩こうとぎくしゃくする彼の様子は微笑ましく、周囲の人間たちの柔らかな笑いを誘った。
カタリナもまた、ルカのそんな姿を見守ってきた一人だ。思い出して小さく微笑む彼女の様子に、女中頭はにこりと笑う。
「カタリナ様、やっとお笑いになったわ」
「……そんなに固い表情をしていましたか」
普段から無表情なカタリナではあるものの、彼女を昔から知るものは小さな表情の変化にも気付く。幼い頃からこうしてなにかと菓子を持たせたがったりと世話を焼く女中頭は、カタリナの表情が読める者の一人だ。
そんな相手からの指摘に、カタリナは片手を頬に添えて小首を傾げる。しっかり者な彼女の、普段より幼く見えるそんな仕草に、女中頭は遠慮がちに頷いた。
「そうですわねえ。なにかお困りの様子に見えますわ。……ねえカタリナお嬢様、わたくしたちはルカ様のことも当然とっても大切ですけれど、おんなじくらい、昔からよく知っている貴方様のことも大切ですのよ?」
「それは流石に大切にしすぎかと思いますが……」
どう考えても領主といち家臣を同列に扱うのは無理がある。とはいえ、二人をよく知る女中頭にはカタリナも頭が上がらない。声高に注意を促すことなど出来ず、親心にも似た気遣いを擽ったく思いつつ受け止めるしかなかった。
そんな相手の心情をよく理解して、女中頭はころころと笑う。
「もちろん女中としてわきまえるべきはわきまえますとも! けれど、ねえ。カタリナ様。私たちはカタリナ様の味方ですわ。もしルカ様と喧嘩なんてしたら、相談してくださいましね」
ごくごく素朴な親切心と心配からそう言われてしまえば、カタリナとて頷かざるを得ない。不承不承、という心の内も露わにぎくしゃくと頷くカタリナに、女中頭は明るく笑い声を上げた。彼女から見れば、カタリナもルカも、まだ不器用な子供でしかない。
そうして領主館から見送られ、カタリナが向かったのは庭の一角だ。
崖の際にあるよく葉の茂った生け垣の裏へ回り込むと、緩く下り坂になった隠し通路がある。これが領主館と、領主の薬師であるトゥリーナ家とを繋ぐ隠し通路だ。
もっとも隠し通路とは言うものの、近道として普段使いされている道ではあるから、知っている者は当然多い。カタリナが最初に父に連れられて領主館へ来たときも、通ってきたのはこの道だ。
植物や岩場で隠された細い道は周囲からは見えにくいが、崖の上の見張り台からはまっすぐ見下ろせるようになっており、不審者がトゥリーナ家を経由して領主館へ侵入しようとすればすぐに発見できるようになっている。
ただし領主館側からトゥリーナ家へ誰かが向かう際の警備は、意図的に少々雑だ。領主がトゥリーナ家へちょっとした使いを出したり、あるいは昔とある少年が、幼馴染みの少女の元へ、館を抜け出して遊びに行っていたのがその原因である。
通い慣れた細い下り坂を歩きながら、カタリナは今日の出来事を思い返していた。
ルカも女中頭も、そして多分執事頭や騎士達も、皆が自分を心配してくれていることは、当然カタリナだって分かっている。
分かった上で、カタリナは自分の周囲の護衛を増やしたくはなかった。
なぜかと言えば、それは彼女がルカにも誰にも内緒で、女王選へと向かうつもりだったからだ。
実のところ、彼女は数日前に、既に女王選への招待状をとある人物から送られていた。
その手紙には女王選の期日や内容だけでなく、女王選に選ばれることによるデメリットである周囲の妨害についても書かれてはいたが、これを受けるというカタリナの意思は固かった。
もちろんそれは、女王になりたいなどという理由からではない。
隣国で定期的に行われるこの行事は、隣り合うリカイオス領にもそれなりの影響を及ぼす。こうしてこの地から女王候補が選ばれることもあるし、それに伴う混乱が生じることもあるだろう。それと同時に、次代の女王候補となった人間が居る土地となれば、隣国が今後リカイオス領にそれなりの気遣いをする可能性もある。
秘密の多い女王選の内情を知り、それに伴い各勢力の権力者や女王候補と顔を合わせ、なにがしかの縁を結べる可能性があると考えれば、女王選に出る利点は大いにある。カタリナはそう考えた。
全てはリカイオス領のためであり、同時にルカのためでもある。
ついでに、見事だと噂を聞く、隣国の大神殿の薬草園への興味も、まあ、少々は。
もちろんルカは警戒するだろうとは思っていた。しかし、それに王子まで巻き込もうとしたのは、カタリナにとっても予想外の出来事だ。
そこまで厳重に見守られては、書き置きでも残してこっそり出て行こう、なんていう雑な方法では出国できそうにない。だからひとまず強固に反対をし時間を稼いだのだ。
皆の心配をよそに、これは今夜にでもさっさと出発しなければ身動きがとれまい、などと考えていることは不誠実だという自覚はあるものの、カタリナの意思は固かった。
とはいえこうも急では馬の手配もままならない。長旅に慣れているわけでもない女の足では、すぐに追っ手に捕まってしまうだろう。さてどうするか。
……というのが、カタリナが真に悩んでいた内容だったわけである。
考え事をしながら歩くうちに自宅の庭までたどり着いてしまい、カタリナは内心困りつつ、表面上はいつも通りの冷静な無表情で足を止めた。
この町の多くの家がそうであるように、トゥリーナ家もよく日の当たる斜面に立っており、裏庭からの見晴らしは特に素晴らしい。
一応の体面を考えて貴族らしく草花の植えられた前庭とは違い、裏庭にあるのはどれも薬草ばかりだ。地味な見た目のものも多いが、崖際に広く植えられた白い花を付ける薬草は、特別清楚で美しい。
幼い頃のルカは今以上に陽気でやんちゃで、子犬が転がるように走り回って遊んでいたものだ。けれども、薬草を間違って踏み荒らさないように、と注意するカタリナの言葉はよく聞いて、薬草を摘むカタリナの後を静かについて回っては、その手伝いをしたがった。
薬というのは一歩間違えれば毒になるものもある。次期領主という立場の人間にそのようなものを触らせるわけにもいかないが、この白い花は乾燥させなければ薬効が出ないもので、安全だからまあいいか、とカタリナは手伝いを認めた。渡された薬草を、ルカは大事に大事に受け取って、細い茎を折らないよう優しく握りしめるのだ。
使うのは花びらだけだからそんなに気をつけなくても良い、と伝えても、首を横に振って、いや、これは大事な花なんだ、と拘っていたルカの気持ちを、カタリナは未だにいまいち理解できてはいない。
けれども、花の一本すらも優しく握るこの人を、自分も大切にしたいと思った。
その気持ちは、今も昔も同じままだ。
裏庭から正面へ回って門番へ帰宅の挨拶した後、カタリナは玄関からまっすぐに自室へと向かい、外出着から動きやすい服へと着替えた。
トゥリーナ家は執務室がこぢんまりとした作りであるのに対して、その隣に作られた調合室は倍も広い。中には調合台や薬研、フラスコなどの道具の他に、壁面いっぱいの薬棚が備え付けられている。そこへ主が籠もっている間は、助手として働く年配の薬師以外、屋敷の使用人たちは近寄らない。
勝手に薬師の仕事を放棄して出国しよう、などと考えてはいるものの、カタリナは職務に忠実で真面目な人間だ。
来るべき時に備え、傷薬や腹痛薬、このあたりに自生する毒キノコなどの解毒剤、火傷薬、軽い睡眠薬や風邪薬まで、必要になりそうなものはなるべく作り貯めている。
それに長年トゥリーナ家に仕える薬師であるコンラドと、執事頭のシーロにだけは、自分の計画をそれとなく伝えてもいた。もちろんおおっぴらに背中を押されたわけではないが、カタリナがこうと決めたら梃子でも動かないことは二人もよく知っており、最終的には領主と領地のため、とこの無茶をのんでくれている。
常備薬に不備はないか、保存している薬草の状態はどうか、と満足いくまで念入りに確認してから、カタリナは素知らぬ顔で夕飯の席に着いた。
いつも通りに食事をし、風呂に入り、後は寝るだけという頃合いになると、トゥリーナ家ではさっさと女中や従者を休ませてやるのがしきたりだ。
元々職業の特殊性から貴族として取り立てられてはいるものの、どちらかと言えば平民寄りの家なのだ。常に使用人を側に侍らせておくという習慣が無いのである。
さて後は夜闇に紛れて家を出てしまおう、と書き置きを作成したところで、ふとカタリナの自室の戸が叩かれた。
何事かと出てみれば、部屋の前に居たのは薬師のコンラドだ。
「お嬢様、書き物の合間に休憩なされてはいかがですか。今日頂いた焼き菓子も、まだ召し上がっておられないでしょう」
「……。そうですね、少し頂きましょうか」
コンラドは先々代の当主の頃この家に弟子入りした古株で、普段は当主の薬師としての仕事を補佐し、薬草の世話に薬棚の整理にと忙しく働く男だ。現当主であるカタリナも、薬師としての勉強を始めるまではあまり話す機会はなかった。
とはいえ決して愛想が無いわけではないし、女中の代わりに茶を淹れてくれることも珍しくはない。
カタリナが作業の合間に夜食を食べることは普段からあり、こうして声をかけられることはなにも奇異なことではない。今夜でさえなければ、の話だが。
自室に茶を運び込むのではなくリビングへ通され、カタリナは勧められるまま窓際の席へと着いた。
既に起きている人間の方が少ない家の中は極力明かりが落とされているが、窓際のランプは灯され、手元を見るのに不便はない。
窓にはカーテンが引かれず、とっぷりと夜の更けた庭のオレンジの木立が、黒い影の塊となった木立を風に揺らしていた。
ほどなくしてコンラドが運んできたトレイには、湯気の立つ茶の注がれたカップ、小皿に盛られた土産のビスケット、それから手製の柑橘のジャムが乗っている。
それをテーブルへと配膳しながら、老薬師はカタリナへ穏やかに語りかけた。
「本日は予定にないこともあったようで、お嬢様もお疲れでしょう。体調を崩されませんよう、栄養はしっかりおとりになってくださいませ」
「もちろんです。今日の食事も、しっかりいただきましたよ」
「ええ、良いことです。……しかし殿下がいらっしゃってからは、変わったことが多いですな」
「そうですね。そのぶん、楽しいこともあります」
「そうでしょうとも。わたくしもこんな歳ではありますが、体験したことのない新鮮な出来事というのは、やはり日々起きるものです。楽しいこともあり苦しいこともあり、しかし、役に立つものだ。……お嬢様、どうぞ大いに、お楽しみください」
そう言ってあくまで柔らかく微笑むコンラドの瞳に心配が滲むことくらいは、心の機微に幾分疎いカタリナとて察することができた。
そして彼の意図については、それ以上にはっきりと、カタリナの頭脳は読み取っている。
カップを持ち上げ、まずカタリナは優雅に香りを嗅いだ。
それからいつもよりもわかりやすく笑みを浮かべ、一度カップをソーサーへと戻す。
「良い香り。けれど先に菓子を頂きますね。甘いものが食べたい気分なので」
「ええ、どうぞ。領主館のコックの焼く菓子は絶品ですからね」
そんな会話を交わしながら、ビスケットの上にたっぷりとジャムを乗せる。滴りそうなほどになったそれを一枚、二枚と食べてから、ようやくカタリナはカップに口を付けた。
用意されたジャムと菓子全てと、カップ一杯の茶を飲み干して、カタリナは静かに席を立つ。
「片付けは明日、女中達に任せても良いでしょう。まだ確認し終わっていない薬草がありますから、そちらを任せてもいいかしら」
「ええ、もちろん。わたくしはゆっくり作業をさせていただきますが、お嬢様はどうぞ、お休みになってください」
「そうですね。けれど、私が休んだら、あなたも確認が済んでいなくても休んで結構ですよ」
「かしこまりました」
きちりと整った礼をしてコンラドが調合室へ向かうのを見送り、カタリナはからになったカップの縁を指先でなぞった。
奇妙なタイミング。わざわざ開けられたカーテン。普段は添えられないジャム。ポットから注いだ状態で運ばれた一杯きりの不自然な茶からは、かすかに薬品のにおいが漂っていた。
銀のスプーンに反応は無く、茶の水色や味にもさほどにも影響しない。香りも含めた複数の条件から、カタリナは盛られた毒の種類と量をすぐに脳内で割り出した。
毒性はそれほど強いものではない。飲めば風邪に似た症状を引き起こすが、二、三日も寝ていれば治る程度のものだ。
ビスケットとともに食べた柑橘はいくつかの薬の吸収を阻害してしまうもので、今回盛られた毒にも効果がある。果皮がたっぷり使われたジャムを先に食べたため、ほとんど身体に害を及ぼさずに排出されることだろう。
問題は、なぜコンラドがわざわざカタリナに効かないよう、気付かれるよう毒を盛ったのか、という点だ。
コンラドの忠誠を、カタリナは疑っていない。
外から見えるようにカタリナへ毒を盛ったのは、それを確認したい人間が外にいるからだろう。
カタリナがコンラドを調合室へ下がらせたのは、あの部屋の地下に、領主館と庭同士を繋ぐバレバレの隠し通路とは別の、緊急時用の脱出路があるからだ。「ゆっくり作業をする」という返事と、なりふり構わず助けを求めなかったこと、毒の種類からから考えて、おそらく毒を盛るようコンラドを脅した人間の危険性は彼の目から見ても比較的低いのだろう。
カタリナを害して得をする人間は探せばいくらかは居るだろうが、今の状況から考えれば、最も可能性が高いのは女王選の関係者だ。
暗く沈む窓の外を目を細めて眺めながら、カタリナは低く呟きを零した。
「これは僥倖」




