四章 静寂
穏やかな日々が流れていた。
先週から本格的に降り始めた雪が、深く落ち着いた沈黙と内省を、まどろみにも似た私のひとときに充たしてゆく。
雪に包まれた樹海のなかに、すべての世界と切り離されたように、この家がある。
居心地の良い静けさと穏やかさに浸された時間が、ここには流れていた。
外の寒さが厳しくなり、火が灯されるようになった暖炉のそばに座って、マフラーを編んでみる。
綿雪みたいに真っ白い色のマフラーが欲しいと、凛ちゃんが言っていたので、クリスマスプレゼントにそれをあげると約束していた。
東京にいる友達へのマフラーを編んでいると、とても遠くなった、ここに来る以前の“現実的な生活”の匂いが、脳裏に立ちこめる。
現実の世界と、今の自分を結ぶ唯一の道標のような、一筋の毛糸を指に絡ませ、心へも編み込もうとしている、自分がいる。
リビングの通機溝を塞いで、火の温もりで暖を取る贅沢は、氷馬を除いた三人のお気に入りらしい。
高校や大学から帰ってくると、広いリビングに入り浸りになっていた。
氷馬は、滅多に三階の自分の部屋から出てこない。週に二度ほど、姿を見るか見ないかだ。
《組織》からの信頼が厚い彼は、たまの会議や呼び出しで渡米する以外は殆ど外出せず、自分の部屋か、気まぐれに使うあのホテルのコテージで、「毎日二十三時間寝ている」のだそうだ。
残りの一時間はシャワーを浴びる時間だとか言われても、「そうなのか」と、鵜のみにしていいものかどうか……。
だいたい、自分の部屋専用の電話線も抜いてるなんて、はっきり言って電話がある意味もない。何度かけても繋がらないはずだわ。
それだけでも首を傾げてしまうのに、極めつけは他の兄弟三人とも、「氷馬が食事をしているのを見たことがない」と言う。
十一歳の頃から二十二歳のこれまで、ミネラルウォーターだけで生きているなどと彼らは言い、「人間とは思えないけど、そういう姿形が人間に似た生物もいるにはいる」と、氷馬を揶揄しながら、それ以上の関心はない様子。
私はといえば、ここに来て、大抵のことは驚いてもしょうがないと、諦めるようになったけど。
それでも「私を騙してない? からかって遊んでるでしょ」と言いたい気分で、腑に落ちないでいる。
とは言っても、「そんなことあるわけないでしょ!」と一笑にできるほど、単純な自分でなくなってしまったことも、憂鬱に思えたり……。
全身の色素量が極端に少ない、アルビノ体質の氷馬は、紫外線や、人工的な明るい照明が体に合わないのだという。
白い髪や白い肌、充血したように紅い唇、色がほとんどないような雨の色の瞳も、アルビノ体質特有のものだと聞かされて、私は納得した。
日本人の血が入っていても、髪や肌や瞳の色素が薄く、白人の容姿に見える冬馬も、アルビノに近い体質を持っているのだと、冬馬が自分で話していた。
結局私は、学校を休学したままになっている。
退学届を出そうとしたら、「転校することもできるのだし、しばらく休学にしてじっくり考えたほうがいい」と、冬馬と蒼馬に忠告された。
《組織・K》の規律では、高等学校卒業、もしくはそれと同等の資格を最低限の学歴として修得することが、求められているのだとか。
勉強が遅れないように、昼間は一人で教科書や参考書を開いたりもする。
頭が良い人間ではないと自覚もあるし、勉強はきちんとするように父親にも根気強く教育されてきた。
「なつめには人よりも努力できる才がある」などと誉めて育てるのが上手な人だったから、私もおだてられて頑張って、中学受験で今の学校に入って……半年の、高校生活。
もう戻らない気がする。
私の意思で、そう思う。
前のように、気ままに無邪気に学校で楽しむことが、自分にはできないと思えるから……。
三つ編みにしていた髪をほどいて、暖炉の前にいたら、入ってきた冬馬が、
「誰かと思った」
びっくりした顔で、私をふり返る。
「似合うね、その髪型。なつめは顔立ちが優しいから、ふわふわさせて頬に纏わらせると、すごく美少女に見える」
「それ、すげービミョーなヨイショじゃね? 普段は美少女じゃねぇぞって言ってるも同然だろ」
寝そべっている涼馬がツッコミを入れると、
「可愛い顔立ちが生かされて、さらに可愛くなるねって言ったつもりなんだけど」
涼馬を軽く睨んで、微苦笑する冬馬。
「オレは、そんな歯が浮いてボロボロ抜けてくるようなセリフは言えねー。だいたいこの女の、どこが可愛いって? 夜更けにポンポコ腹でも叩いてそうな、豆ダヌキにしか見えねえよ」
涼馬が言った直後に、涼馬のチェスの相手をしていた蒼馬が、堪え切れないように「ぶふっ」と吹き出した。
片手で口元を押えているけれど、そこからはみ出た音を自分の耳ではっきりと聞いてしまったので。
蒼馬とはやっぱり小三時間以上、話を詰めてみたいと思ったりする。
私の冬眠する地雷を、つま先でちょこちょこともてあそんで、知らぬ顔をしている人なのだ。この人は。
豆ダヌキって思ってるのなら、面と向かって言ってくれたほうがずっとスッキリするわよ。
涼馬の言い分じゃないけれど、「言いたいことははっきり言ってみて?」とニッコリ笑って提案したい気分。
「恋人にあげるの?」
私の手元のマフラーを見ながら、冬馬が訊ねてくる。
意地悪で言っているのではなさそうなので、素直に首をふろうとしたら、
「いないと思うけど」
私の返事を待たずに、蒼馬が言った。
「顔を真っ赤にして慌てふためいて、カップを割ったときのあの様子をみればね」
三人の笑いが沸き起こり、私は、目を点にして三人を見回す。
「“絶対あの子、処女だよ”ってぇ、オマエ言ってたもんな」
涼馬が蒼馬に言い、冬馬も、私のほうを見ないようにして笑っている。
私はとっさに、自分のスカートを押えるという、意味のない行動にかられちゃって。
顔に火がついたみたいに真っ赤になって、腰から力が抜けてガクゼンとする始末。
処女だって……
処女だって……
そんなことをこいつらは……っ!!
信じられない信じられない信じられないッ!
綺麗なカオで、涼しいカオで取り澄ましながら、私をそんなふうに観察して、男三人で下世話な評をしていたなんて!!
「カップは私が割ったんじゃないわ!」
声を上げて蒼馬に言うと、
「あれは、あんたが割ったんだよ。あんたのパニクった心理から生まれた混乱のエネルギーが、一点集中した力を放って、衝動的に物質に体当たりして破壊させたんだ。よくあることだよ、力や感情を自己制御できないときにはね」
冷静に返されてしまった。
未だ慣れず受け入れ切れない、わけのわからないエネルギー論を突きつけられ、困惑する私。
あの日。氷馬に抱えられて再びここに来た私を、冬馬も、蒼馬も、涼馬も、文句も言わずに迎え入れた。
氷馬に連れられるままこの家に戻り、「ここに居る以外に、自分が生きられる道はない」と、骨身に刻まれた恐怖を体験して、まざまざとそのことを実感させられてから。
諦めるしかない気持ちで、穏やかに見える日々に自分を横たえて、私は、ここで、生きている。
三人が冬休みに入ると、朝からひっきりなしに女の子たちが訪ねてくるようになった。
はたから見ていると、追っかけともいうのかも。
インターフォンが何度も鳴っても誰も出ようとしないので、仕方なく私が出ると、
「ちょっと、あんた誰? 涼馬呼んでよ」とか。
「すみません、あの、蒼馬くんは……」とか。
「冬馬さんは御在宅ですか」とかとか。
何度も訊かされて、そのたびに居留守の口実を言わなければならない。
「あの、私、門番じゃないんですけど? 自分で出て断わらないの?」
リビングに寝転んで、映写機でスライド映画を観たり、テレビを見たり、チェスをしたり、本を読んだり。
思い思いに過ごしている三人を見回して言ってみても、聞こえないふりをしている。
ひとまとめにして、東京まで宅急便で送ってやろうかしら。この三バカ兄弟。
「この時期の女は要注意。クリスマスを一緒に過ごしたいって執拗に絡んでくるしよ、うっかり一緒に過ごそうもんなら“アタシは特別なのね”とか図に乗りやがって、鬱陶しいったらねぇの」
「好きだから、少しでも一緒に過ごしたいって思うんでしょう? そんなふうに言ったら、わざわざここまで押しかけ……はるばると、こんな田舎くんだりまで来てくれた女の子たちが、かわいそうじゃない」
「偽善者」
もっともらしい意見で説得を試みた私に対して、涼馬がすかさずそう返す。
「押しかけてきて鬱陶しいんだよ、バカドモが!ってのが本音だろが」
皮肉げに言われ、そういうこともあると、少しは認めはするけれど。
この三人が冬休みに入ってから、私は、日に何度となく溜息をついている。
女をなんだと思ってるんだろう、この兄弟は。
冬馬と蒼馬は、「女遊びは飽きた」とか言ってるけど、そう言うってことは相当だったのかとか、想像してしまう。微妙に、複雑な気分で。
「性欲を満たすのは、溜まりやすいエネルギーを解放する、一番手っ取り早い方法だから。自分でエネルギーコントロールできないうちは、定期的なガス抜きも重要なんだ」
私の非難めいた眼差を、察したらしい蒼馬が、チェスの一手を考える間の息抜きのように言うと、
「心身に溜まる力は、解放して循環させずに抑圧したままでいると、体も心も病気になる。鬱屈が溜まって犯罪にも走りやすくなるしね」
冬馬も、読んでいる本から顔を上げずに付け加える。
「俺らも犯罪者みたいなもんだろ」
気に止めるふうもなく口だけで答えた蒼馬に、冬馬が、薄っすらとした微笑を浮かべて切り返した。
「死後の裁きは永遠の地獄だな」
「地獄の支配者になるのが、オレ様の目指す到達点!ってことでチェックメイト!!」
本気で負けたのか、弟に花を持たせたのか、チラリと冬馬に目配せをする蒼馬。
「未来の大魔王様に点を稼いでおけば、情状酌量も期待できるかな」
「負け犬の遠吠えはうぜーよ。さっさと千円よこせ」
乾いた言葉で感情を彩りなぞり、笑いあう。
……私も、いつか、そうなっていくのだろうか。
ここにいて、この人たちと一緒に生きていくということは。
抗えない運命を受け入れて……ただ、ただ、自分の力では敵わない大きなものに、支配を許して。
苦しみ、あえぎながら。絶望に呑まれて、無気力になって、生きるしかないということなの?
門の外には、十五、六人ほどの女の子たちがたむろっている。
いないと伝えても、すぐに帰る気にはならずに、留まっているようだ。
中学の時に冬休みの自由課題で作った手編みのストールを、今も家の中では膝掛け兼用として愛用していて、それを肩に掛け直して、外へ出た。
頬の素肌の奥まで、ピリピリと冷気が刺し入り、吐く息が真っ白になる。
この家の敷地をぐるりと取り囲む、広大な私有林は、結界になっているのだという。
社会の雑念や、彼らの言う《他の組織》からくるおびたたしい想念の攻撃を避けて、“仕事”に集中するのに適しているのだという。
御用邸に選ばれる土地は、地脈と呼ばれる磁場がとても精妙で安定しているのも、大きな理由だそう。
何が精妙で安定しているのかは、わからない私でも。
この場所に深と漂う静けさと清涼さの、単なる高原地ではない土地の息吹を、この頃は体の内側から感じたりする。
四人が、不便な田舎に暮らしているのはそういうことで。
東京の私立校、中、高、大学の一貫校に、わざわざここから通っているのは、そこの理事長が《組織・K》の存在を熟知していて、研究所から玖珂兄弟を任されている人物でもあるから、らしい。
蒼馬と涼馬の制服姿を見て、三人が水尾秀学院の学生だと知った。
全国的にも名の知れた名門校で、理事長は確か、テレビにもよく出てくる著名な政治家だったと思う。
冬馬いわく、「監視の目的もあるし、突発的に心身エネルギーの暴発が起って、窓ガラスが割れたり校内のものが破壊されても、対処してかくまえる」事情もあるという。
冬馬は付け加えて、「涼馬のいる中等部では、ポルターガイスト現象が有名なんだ」と言い、苦笑していた。
……きっと、あんな名門校で、元は黒髪らしい頭を赤くしたり、派手なイレズミを入れて通学しているのも、涼馬くらいだろう。
彼なりの、無駄な足掻きと分かりながらの、自嘲的な反抗なのかもしれない。
東京で暮らしていた頃は、知らずにいた寒さ。
思いきり息を吸い込むと、体の隅々まで新鮮な大気の粒子が行き渡る。
瞬時に、身体が凍えそうな冷やかさ。
知らずにいたことは、たくさんある。
一面が純白になる雪景色。
寒々とした澄んだ空が、さえぎるものなくどこまでも続いていることも。
上空を、阻むものなく吹き遊ぶ、風の音。
清らかに澄んだ冷水を口に含んだみたいな、酸素の匂いも。
ここに来てはじめて知ったことは、たくさんある。
知らなかったことがたくさんあることに、私は、茫然と立ち竦む。
知らずにいることは、この世界に限りなくあり。
そしてこれからもそれらは、私を驚かせたり、戸惑わせるのだ。
たくさん、たくさん、無限にあるということ。
それらのすべてを知ることは、できなくて。
それが私にとって、本当の事と思えない事でも。世界のどこかでは、本当の事としてそこにあること。
何が本当なのか、何が偽りで何が幻なのかは、私には分り得ず。
大切なのは、私が何を信じて、何を大切にしたいか、それだけ。
ただ、自分の目の前にあることを、見つめるということ。
自分の目で見て、耳で聞いて、鼻で匂いを感じて、皮膚で触れてみて。
心を研ぎ澄まして、そうして信じようと思うことを、自分のなかに、自分の呼吸する時間に、自分の現実として受け入れるということ。
ただ、それだけなのだろうとも思う。
彼らの存在も、特別な力に思えることも。
私がただ、知らずにきただけ。
これからどう向き合うかは、私自身が決めるだけのこと。
目に見えない様々な想いや力で、この世界の事象が成り立ち、形としてそこにある現実は。
目に見えない心の力によって動かされて、形となった結果である。そのような事実を知ることも。
あの飛行機事故も、つまりは、そういうことの現れなのかもしれない。
ただ、それだけなのだろうとも思い。
ただ、それだけなのだと、思いたいのだろうとも思い…………
『なつめ。楽しいことを想い描くんだ』
『どんなに辛いときも、どんなに悲しいときも、心が勇気を取り戻す魔法を、いつでも自分にかけられるように』
人の、想念が持つ力の大きさを身を持って知りながら、さりげなく教え続けてくれた、父の優しい声。
蘇える、心に響く声。
大地を照らす太陽が、純白の雪景色にきらきらと反射する。
世界が、眩しくなる。
いま、このとき。
私の前に広がるこの世界の美しさは、いまの私にとって、真実だと思える。
きらきらと眩しいこの輝きは、私の心が、勇気を取り戻す力。
いま、この瞬間。私は自分に、魔法をかけるのだ。
「なつめええええっっ」
彼らにとっては、起こり得るとは予想できなかった現実を、私は私の気まぐれで、起こすこともできるということ。
様々な想念が雑然と空中に飛び交い、自分の中にまで知らず入り乱れて、想うような現実を引き起こす力が働かなくても。
それに頼らなくても、何が起こるかわからない今を、楽しめることも大切だということ。
リビングに、きゃあきゃあと喚声を上げて流れ込んだ女の子たちに、寝転んだままでいた三人は絶句している。
なかなか見ごたえのある、がく然とした表情で。
二階までの吹きぬけになった、リビングの螺旋階段を知らぬ顔で昇って。私は、彼らの様子を眺めてみる。
彼らにそんな顔をさせられたことも、面白かったり、すっきりしたり。
それから、なんとなく……そわそわしたり……。
「サプライズ。クリスマス・イブイブプレゼントだよ」
「プレゼントだあ!?」
涼馬の絶叫に満足を覚えながら、階下に向かって笑ってみせる。
「三人にプレゼント、女の子たちへもプレゼント。みんなでゆっくり過ごしてね」
「いーーー度胸じゃねぇか、てめえっ。降りて来いっ! 一人でせいせいとトンズラするな!」
感極まって泣いたり、抱きつかれたり、髪を引っ張られたり。
女の子たちに、ネコの子のように揉みくちゃにされている三人を見やっていると、取り巻かれて困惑しきった様子の冬馬が、こちらへと視線を投げてくる。
鮮やかな菫色のセーターが、その瞳の色とあいまってびっくりするぐらい似合っていて。
私は、冬馬がそれを着るたびに、彼に一番似合っている色だと見惚れてしまって。
幾度となく、彼を見つめてしまいそうになる。
冬馬からそれとなく視線をそらして、二階の廊下へと通じるドアを閉めた。
女の子たちの甲高い声は、自分の部屋に入るとまったく届かなくなった。
賑やかさから、静けさへの転換。
急に、自分が遠くまで連れ去られたような、おぼつかない気分になる。
ベッドに座り、おさげの髪をほどいて、両方の三つ編みを編み直し終えたころには、いまここにいるこの場所に、自分が調和され、感覚が落ち着いくのを感じる。
この家に来て、ひと月あまりが経とうとしていた。
この部屋が私の居る場所になり、体が馴染んでいることを。目を閉じて、心の息づかいに耳を傾け、確かめてみようとする。
不安定な安心と憂鬱を乗せた、メリーゴーランドが。心の中で、ゆっくりと、絶えなく回転している。
「組織のことを知ってどうするんだ」
ほとんど三階の自分の部屋から出てこない氷馬を玄関先で見かけて、この機会を逃してなるものかと、私は急いで氷馬を追いかけた。
彼は、足首まであるシーツ並の大判の、真っ白なパシュミナを体に纏っていた。
彼が身動きをするたびに、しなやかに揺れる柔らかなドレープも、彼の身体の一部を思わせるくらい違和感がない。
いったい、この人は何なのかという、不思議な感覚。
白銀の長い髪や、白い肌が、雪景色に妖しいくらいに馴染んで見える姿は、雪の女王でも現れたかと疑いたくなる存在感。
下の服装は見えないけれど、この装いで外へ出て、どこに行くのか大丈夫なのかと心配していたら、どうやら森の中に造られている温室に行くらしい。
氷馬以外は入れないと聞いていた所で、私も見るのは初めてだった。
誰にも踏みならされず、白い雪がヴァージンロードのように残る森の細い小道を、氷馬と少し距離を置いて歩く。
傍まで近づく勇気もなく、ここまでついてきて何も聞けずに戻るのも虚しい。
「それが訊きたくて、ついて来てるのだろう」
こちらから言い出す前に突き出されて、二の句に窮していると、
「余計なことは知らなくていい」
あっさりと返される。
「…………」
……それはないんじゃない?
ここまで巻き込まれた身としては、余計なことなんて「いまさら」でしかない。
ムッとしつつも、困る気持ちのほうが勝って、私は溜息をつく。
「もう、ここまできたら、何を知っても驚かないと思う」
強がりじゃなく、そう思う。
冬馬も蒼馬も涼馬も、《組織》については話そうとしない。
氷馬に訊けば、と、それだけだ。
「君を呼んだのは、正解か、不正解か。私はまだ、計りかねている」
こちらを見ずに、彼は言った。
「君を獲得しておけと、組織からの指示ではあったが。君が、長いものに安易に巻かれる性質でもなさそうなのが、厄介でもある」
「その組織が、何なのか、教えてくれないの?」
「《K》の中枢は米国西部、アリゾナにある。詳しい所在地は秘されている」
「アリゾナ?」
「州都はフェニックス。それくらいの知識はあるだろう」
馴染みのない地名に首を傾げる私に、氷馬が付け加えて言ったものの、やっぱりピンとこない。
地理の成績はフツウだけれど、アメリカの州や州都の名称まではさすがに厳しい。
「政府が保護している土地を使用している。関係者以外は中枢に近づけない。《組織》の体系は、秘密結社の類の団体だと捉えればいい。情報の管理は非常に厳格だ。私の一存では答えられない」
氷馬の声は、四人の兄弟の中では一番低くて、話し方も滑舌も隙がなく整っている。
正確で、余韻がない。
人間の声なのに、人間らしさがまるでない。
「詮索が人間にもたらす心理は、一瞬の満足と際限のない迷いだけだ。知の欲求を煽り、納得する。すぐに新たな疑問と迷いが際限なく広がり、再び詮索する。延々同じループだ。
知を高めるために努力をする人種のほうが、考えない人種より救いようがない馬鹿なのは明白だ」
抑揚のない口調で吐き捨てるように言い、後を追ってきた私を初めて振り返った。
「私は、自分と血縁にある者が、馬鹿な人間だとは知りたくない。これ以上の詮索によって、己の愚かさを更に極めないためにも、この件について君は口を閉ざしたほうがいい。私も、自分の妹を軽蔑する人間のリストに加えるのはなるべく避けたい」
「…………」
…………妹。
辛辣な言葉で言い包められながら、たった一言のそれに耳を奪われた。
あのときも、駅のホームで私を助けたときも、「私の妹です」と、この人は言ったのだ。
「……あの、私……。あなたの、妹、なんですか?」
まるっきり、どこも、似てないけれど。
血の繋がりがあると言われても、地球上の大多数の人は、私たちを見て兄妹だとはゼッタイに信じないと思う。
「咄嗟にものを考える必要に迫られると、君は、下唇を軽く噛む癖がある」
「え?」
脈絡のないことを返され、キョトンとする。
氷馬が目を細めて、正面から私を見据えた。
「ほんの短い時間だが、考えるために脳に刺激を与える動作なのだろう。
湘馬も同じ癖があった。私が八歳の時まで、彼は研究施設にいた。共に集団生活をしていたから、彼と過ごした記憶は他の三人よりも鮮明にある。二歳になるまでそこにいた君の顔も」
「……お父さん?」
二歳の、私。
異国で暮らした記憶はおろか、その頃のことは断片すらも憶えていない。
断言されも、それは本当に……本当のことなのだろうか。
お父さんの、下唇を軽く噛む癖。
そうだったっけ?
と、半信半疑でびっくりして、記憶にある父の表情をあれこれ思い巡らしながら。
そうだったかもしれないと、今になって気づき、更にびっくり。
「今も噛んでる」
指摘され、ハッとする。
「え? あ、あれ? そう?」
そういえば。目をぱちくりしながら視線を泳がせ、これまで自覚がまったくなかった自分の癖にまで驚く。
「冬馬も同じ癖がある」
「冬馬さん?」
「蒼馬も、涼馬も、私も。湘馬から受け継いだ癖だろう」
「…………」
「観察してみるといい」
言って、氷馬は踵を返して歩き出す。
「ここから先は立ち入り禁止だ。温室は私の瞑想する場所だから、邪魔をしないように。私以外の人間が侵入すると場が乱れる」
白い小道の先の、木々の間で、何かが光る。
冬の薄い日差しを受けて、キラキラときらめいて見えるピラミッド型の建物。
温水プールのある建物と同じ、光に弱い氷馬の体でも、太陽の明るさに触れることのできる、特別なミラー硝子なのだと思う。
氷馬の、美しい白銀の髪。
均整の取れた、すらりとした後ろ姿。
見つめながら。
苦しいような、安堵するような、二つの気持ちが交錯する。
独りきりじゃないんだと思う、安堵と。
現実離れした、途方にくれる状況を、現実として呑まなければならない、苦しみと。
兄だなんて、微塵も思えないし。
自分が妹だとも、思えないし。
血の繋がりがあったとしても、違和感だらけだし。
…………でも。
ほんとに、ずっと、私は、彼らと一緒にいるのだろうか。
氷馬と。蒼馬と。涼馬と。……冬馬と。




