多国籍な食卓 2
そんな朝があってから、この家で過ごすことへの緊張感が、徐々に薄れてきていた。
涼馬は相変わらず、私の顔を見れば悪態をついてくる。
冬馬の言うように、爆発したことで気が楽になったのかもしれない。
必要以上に気を遣おうとして、畏縮してた自分が、解放された感じ。
家の中で、誰と顔を合わせてもビクビク身構えなくなって、私らしくいられる気持ちになってきている。
会えば、笑顔で声をかける。拒否されたらどうしようなんて、考えない。
ここに来て二日目に、蒼馬が言っていたように、夕方帰宅する涼馬はいつも女の子を連れていた。
それが本当に見るたびに違って、行き会った限りでは、同じ子が二度来ていたことは一度もなかった。
大抵彼女たちとすれ違うと、私は白い目で眺められる。
私からすると、涼馬は、鋭くてコワイ感じの男の子なんだけど。かっこよくはあるから、女の子にはモテるのだろう。
私が使わせてもらっている部屋は、桜の部屋と名付けられているそうで、隣りは涼馬の部屋。
なんだけど、女の子が来て、隣りの部屋からボソボソ声が聞こえたりすると、もうダメ。
その度に、リビングに避難している。他の部屋はよく分からないから。
これだけは、何日経っても、慣れない。
慣れるワケがない。絶対ムリっ。
人のことなのに、顔が真っ赤になっちゃって、一人恥ずかしい気持ちになってきちゃう。
冬馬や蒼馬が、女の子を家に入れるのは見たことがないし、鈍行や新幹線ではるばる来た子たちも、インターフォン越しに追い返している。
私がいるからではなく、おっかけてくる子は元から相手にしないらしい。
よくよくモテる三人で。
やっぱり、どうしても、私とは、同じ血筋とは思えない……。
私は、洗濯物を乾燥機に入れながら、そろそろ学校をどうしようかと迷っていた。
この辺に編入できる高校があれば、それがいいかとか。でも、ずっとここに居るかどうかはわからないし、とか。
涼馬は不可解なことを言っていたけれど、いつまでもここに居るつもりはない。
もともと最初から、少しの間と考えていた。
それに異母兄弟とはいえ、今まで見ず知らずで暮らしてきた人たちに、長々と甘えてもいられない。
かといって、東京に戻れるかどうかも、見通しはついていない。高校を休学できるのも、三ヶ月が限界というところ。できるだけ早く、決めなきゃ。
コンコン、とノックの音にふり向くと、開けたままでいた洗濯室のドアに寄りかかって冬馬がいた。
ベビーピンクのニットと、スノーホワイトでコーデュロイのスラックスの組み合わせが似合ってしまうこの人は、本当に男性なの?
昨日は目のさめるようなカナリアイエローのボトムに、灰色のジーンズだった。
黒ばかりを着ている蒼馬と涼馬と比べると、冬馬の装いは派手ではないけど、華やかな印象だ。
恐らく、一枚二十万円はするだろう、質の良いイタリア製などのニットを普段着にしてしまえる兄弟の前で、着古したセーターやトレーナー、私の選ぶ色はピンクが多いのだけど、それで居ることにも慣れつつあるこの頃。毛玉なんて気にしてられない。
「冬馬さん」
「呼ぶときはサン付けもクン付けもいらないって、言っといたよね。呼び捨てでいいよ」
聞いてはいるけど、呼び捨てはかなり抵抗がある。
「僕もソーマも、プライベートで呼ばれ慣れてないし、リョーマはオレだけガキ扱いしやがってって、文句タラタラだしね。かといって、あいつまでサン付けで呼ぶのは抵抗があるだろ?」
笑いを含んだ目で、冬馬が私を見る。
「これ、渡しとく」
差し出されたそれを受け取ると、JRと緑文字で表記された横長の封筒の中に、キップみたいなものが入ってる。
「回数券。取り敢えず、定期は後で」
「回数券?」
「新幹線のだよ。二十枚。東京まで十往復分」
私は、封筒ごとそれをポロリと落としてしまった。新幹線、十往復分!?
しかも、パッと見た限り、グリーン席って……
いったい、いくらぶん――じゃ、なくて!
違うでしょ、私ッと、一人ツッコミ。
どうも身についた家計観念で、反応してしまう。
「なんで!?」
「なんでって。学校、行かないつもりでいるの?」
不思議そうに、冬馬が私を見おろす。
「ソウから、四ツ谷らしいって聞いてるけど」
「………そうですけど、でも」
話したことがあったな、そういえば。
と、思い出しながら、慌てて拾い上げたそれを、冬馬に突っ返した。
「学校のことはまだ決めてません。できるなら退めたくないけど。でも、これは、受け取るわけにはいきません」
「なぜ?」
不可解そうに眉を寄せるので、首をふって答える。
「ここまでしてもらう理由は、ないから。置いていただいてるだけで充分です。行くとしたら、自分でなんとかします」
冬馬は、受け取らず、黙ったまま私を見てる。
「気遣っていただいて、ありがとうございました」
「僕は、ヒョーマに指示された通りに用意しただけだから、僕に返されても困るんだ。ヒョウが帰ってきたら、ヒョーマに渡して」
「氷馬さんが?」
兄弟三人に何の相談もなく、私を呼んだという彼が、何を考えて私を招いてくれたのか。どんな人なのかも、私にはわからない。三人とも、何も言わないし。
「いつ、帰ってくるんですか?」
知らない、というふうに、首を傾げる冬馬。
「さあ? いつ帰ってくるんだか……。神出鬼没なヤツだから」
「氷馬さんて、冬馬さんのお兄さんなんですよね?」
「トーマでいいから」
訂正を入れてから、
「僕だけの兄じゃないからね」
と、念を押すように言う。
「僕だけあいつと繋がりがあるってのは、勘弁して欲しいね。とにかく、変わった奴だから。他の二人も言ってる。氷馬を人間として受け入れられたら、この世の中に受け入れられない人間はいないだろって。僕も同感。ほんとに、難解な奴なんだ」
冬馬の話を聞きながら、私は内心で、ひょぇぇぇぇっと、奇声を上げた。
この三人だって、変わってるというか、異質な存在で。
やっとなんとか、あまり緊張しないで話ができるかな、って感じになってきてるのに。
その上まだ、この三人に「変わってる」と言わしめる人が、氷馬さんという人なの?
ゲンナリと肩を落とす私を、じっと見つめる冬馬の瞳。
今は、夕暮れの空の色をしてる。トワイライト・ヴァイオレットのような。
こんなふうに、まったく遠慮なく人を見つめてくるのも、見た目どうり日本人とは違う性質の濃い人なのだろうか。
この人を見るたびに、思い出してしまうこと。
月の光を浴び、永遠にも思える静寂と幻想的な輝きを身に纏い、裸足で大地に触れながら、遊夢に囚われたように歩いていたこと。
夜のなかをさ迷うように、人間の存在とはかけ離れた精霊のように。
月明かりと夜を吸い込んだ、シルクブロンドの髪の先まで。
青白く輝く頬と、手と、足と、爪先までが、狂気のような美しさを放っていた。
昨夜も、そんな彼を、彼じゃないような存在を、窓越しに見つけたのだ。
下限の三日月が闇に消えた夜も、彼は、枯れた芝庭に身を投げ出して横たわり、星の広がる空、その向こうの深遠を見上げていた。
星の光の瞬きを彼は見つめていないと、そう思わされた。
見通しのきかない闇夜、家から漏れるささやかな灯影が、家の周囲をひっそりと照らしている程度の、暗い世界に。
私は、彼の姿を見つけてしまった。
冬馬に背を向けて、ウールの物を私が手洗いしている間、彼はなぜかそこにいてドアに寄りかかり、私の様子を眺めていた。
私たちの間に、言葉のない時間が流れている。
誰かに見つめられることそのものが、私にとって慣れないことで。
戸惑いながら、背中が緊張して汗ばんでくる。
あまり見られると、恥ずかしいのに…………
何かを話さなければと思い、でも、何を話したらいいのだろうとも思い。
何も言葉に出せない。
まさかいきなり、「もしかして、夢遊病なんですか?」とも、聞けないし……。
そんなことを考えているさなかに、
「なつめ」
呼ばれて、ギョッとして、
「ハイ?」
裏返った声で飛び出した返事に、本気で驚いてるみたいな顔をする冬馬。
「な、なんでしょう?」
とっさに敬語で応じると、
「鼻のアタマに泡がついてる」
苦笑混じりに教えられて、
「へ?」
またもや頓狂な声を上げ、慌てて鼻の頭を擦り上げる。泡がついたままの両手で。
「ああ、ちょっと待って。それじゃ顔が、洗濯物の泡がよけいに」
言いながら、指を口に当てて、クッと、おかしそうに笑いだす冬馬。
あまりにも綺麗な笑顔なので、泡どころじゃなくて、ポカンとしてしまう私。
気がついたら、冬馬の口元に触れていた指が。
私の鼻や頬や額に、触れていた。
「髪にもついてる。一度、顔を洗ったほうがいいよ」
そう言って、微笑まれたら。
忘れそうになる。
この人を見ていて、「怖い」と、感じたこと。
心が、寒くなったことを。
あれは、気のせいだったのかな、と思うそばで、まざまざと蘇ってくるもの。
近づきすぎちゃいけないと、私の一部が、警告している。
そこへ蒼馬がやってきて、スカッシュをやらないかと冬馬に声をかけた。
温水プールと同じ建物にある、室内スポーツのできる場所で、三人は体を動かすのを習慣にしている。
「なにか取り込み中だった?」
蒼馬が何心もない様子でいい、
「スカッシュの気分じゃないな。ビリヤードにしないか」
聞かなかったようにそれをあしらい、冬馬は洗濯室を出て行く。
蒼馬は口元に笑みを浮かべて、冬馬を先に見送ると、素早く私に囁いた。
「あいつの好みのタイプって、性格の強い女なんだ」
唐突になにを言うのだろうと、蒼馬をふり仰ぐ。
口角を僅かに上げ、何かを含んだ微笑で、私を見おろしている。
「期待してみれば?」
言うだけ言って、去っていく蒼馬。
この人もまた謎な人だと、溜息をつく私。
冬馬の好みのタイプが、性格の強い女?
それをわざわざ私に言う真意は、いったい。
だいたい、私が、なにを期待するの?
分からないことだらけだ。
回数券の入った封筒を手に、再び漏れる溜息。
どうしてここまでしてくれるのだろう?
無視しようと思えばできただろう、私に対して。
他の三人に接した限り、私の存在は知っていたようだけど、関心はまったくと言っていいほどなかったようだし。
突然現われた私に、面食らいつつも、「氷馬が呼んだならしょうがない」と渋々ながら納得している様子。
冬馬。蒼馬。涼馬。
あの三人からも変人扱いされてるらしい人が、どういう考えで、私に連絡をくれたのだろう?
ぽりぽりと、頭を掻く。
この家に、三人に、絶対的影響力のある人。で、難解な変人?
そんな人が考えることを、私が簡単に思いつくワケがない。
「ま、いいか。会えば分かるでしょ……」
片付けなきゃならないことは、たくさんある。
動かし忘れていた乾燥機のスイッチを慌てて入れると、
「あーー! 使ってんのかよ、乾燥機っ」
直後、涼馬が飛び込んできて舌打ちする。
二台あるうちの、一台は、他の誰かが稼動していた。
「……今、回したばっかりだけど……」
勢いに驚いて言うと、
「あ。マジ? じゃ、ついでに入れて」
ついでに?
言われるまま一時停止ボタンを押したら、涼馬は抱えていた洗面器の中身を鷲づかみにして、乾燥機の中に放り込む。
「どこで洗ってたの? それ」
「風呂場。体操着と靴下、ドロにまみれて体育やったから洗濯機じゃ落ちねーし」
袖が捲られた両腕の、派手なイレズミを見るとかなり意外になるけれど。
きちんと自分のことをこなしている、それぞれが自立した生活態度には、つくづく驚かされる。
この兄弟は、いちおうずっと家事をやってきた私がびっくりするぐらい、何でもこなすのだ。
「止まったら、オレの分も持ってきといて。オマエの洗濯もの触るのヤダから」
「私だってヤダよ。ここに置いとくよ?」
「いちいちオマエが取ったかどーか確認すんの、メンドクセーだろ! どーせ隣りの部屋なんだし、ついでだろ。よろしく」
口早に言って出て行きながら、背を向けたまま軽く手を上げる、ヨロシクの合図。
私は、笑ってしまった。
“互いに頼らず干渉せず、自分で勝手に”が合言葉の、この異母兄弟の間の潤滑油になっているのは、どうやら「ついでに」ということ、らしい。
乾燥機に入れられてた涼馬の洗濯物は、体操服と靴下だけだったので、たたんで彼の部屋の前に置いた。
それから、自分の部屋に戻り、そのままベッドに入った。
その夜、一度眠ると朝まで目が覚めない私にしては珍しく、何度も目が覚めた。
三十分と空かず時計を確認して、寝返りを打つ。
ようやく眠り始めたころ。
キーン……という甲高い音が聞こえて、再び目を覚ました。
枕元を見ると、時間は午後二時を過ぎている。
…………何の音だろう。
むっくりと起きあがると、寝つけずにぼー……とした意識で、辺りを見回す。
外から聞こえてくる……?
両開きの窓の片側を開けてみると、外は夜の静けさに浸されていた。
ささやかな物音ひとつしない。
寒さに身震いして、窓を閉めたとき。
音が、部屋の中から響いていることに気づいた。
部屋の中から――――?
私は、両手で耳を塞いでみる。
音はまだ、私の中に響いてくる。
金属と金属を、擦り合わせたみたいな。
これは、耳鳴り?
寝つけないことといい、体調が悪いのかな……と思っていると、音はだんだん、もっと大きくなっていく。
甲高い音と、とても低い、重低音の唸りとが波のように広がる。
瞬く間に、気分が悪くなってくる。
立っていられずにベッドにうつ伏せていても、音は絶えず響いていて。
耳鳴りに気をとられて、音に酔ってしまったのか、強い吐き気と頭痛に襲われてきた。
やっぱり、おかしい。
確か、リビングに常備薬の箱が置いてあったはず……。
とにかく早めに、風邪薬か頭痛薬でも探して飲めば楽になるかもしれないと、フラフラしながら部屋を出て、階段を降りていく。
途中まで来てから、リビングと繋がっているもう一つの階段のほうへ行けばよかったと気がついたけど、戻らずにそのまま、手摺りに掴まって降りていくことにした。
耳鳴りはさらに、ひどくなる。
リビングまでが、とても遠い。
歩くのさえやっと、という具合の悪さに、気持ちが心細くなってくる。
……お父さんがいなくなって、私は、いつも気丈でいようとして。そうしなければ耐えられなかったんだけれど。
……なんだか、いまは、大声で泣きだしたい。
そばに、いてよって。
どこにも行かないで、そばにいてって、言いたい。
やさしく頭を撫でて、「だいじょうぶだよ」って、言って欲しい。
眠るまで、「そばにいて」って。
昔みたいに、わがままでを言って甘えたいよ……。
涙が、こぼれそうになって。
やっとのことでリビングのドアの前に立ち、ドアノブを―――引いた。
その途端。空気の重い震えに包まれた、気がした。
所どころに間接証明が点いたままで、部屋全体が薄暗かった。
誰かまだ起きているなら、薬の置き場所が聞けるからよかった。
ここからは見えない右手の奥まった方に、暖炉に面した広い空間がある。
そこにいるだろう’誰かに声をかけようとして、そちらへと顔を向けた私の目に、三人の姿が映った。
冬馬、蒼馬、涼馬が、そこにいた。
白いムートンの毛皮を敷いた床に、三人で向き合うように胡座で座っている。
広げられた両腕が、一つの円陣を組んでいる。
左の手のひらを上に、右手のひらを下にして。
それぞれ、一人一人と、手のひらを重ね合わせるようにしながら。
目を閉じて、身動き一つしない。
何を、しているのだろう…………?
立ち尽くしているうちに、耳鳴りはさらにひどくなっていた。
頭の中で、メチャクチャな金属音と重い唸りが、グヮングヮンと反響している。
耳元で、鉄製の中華鍋とおたまを、派手に乱打されているみたいに。
両手で頭を支えて、体を屈めながら、「助けて」と、言いたくても。
……声が、出ない。
焦点が定まらなくなった目で、すがるように三人の方を再び見る。
と、同時に、空中に走った、凄まじい閃光。
眩しい何かが、私の視界と脳裏を貫く。
全身で、強烈なカメラのフラッシュを浴びたように、何も見えなくなった。
目の奥まで痺れる眩しさで、全神経の平衡感覚が失われ、私は床に倒れこんだ。
ドサリ、と重く鈍い音も、全身を打ちつけた痛みも。
現実感が、ない。
何が起こったのかなんて、かけらも考えられない。
無意識の余力で両目を開くと、さっきよりも穏やかな光が、そこにあった。
三人を呑み込みながら、光の柱が立っている。
天井へと、空へと――――闇をはじくように、昇っていく。
白い龍のように、輝く光の柱。
そこに、グルグルと絡んで、赤、橙、緑、青、紫の、様々な光の渦が見える。
それは、炎のように姿を変え、獣のように躍動していた。
伸び上がる柱を、空へ、その先へ、導く勢いで。
これは、まぼろし……?
具合が悪くて、幻覚を見ているのだろうか?
それとも、夢を見ているの?
茫然と、起き上がる力もないまま。
うつろな目に、力をこめて、見定めようとする。
生きもののように見える、光の柱を…………
三人は、何も話さない。
目を閉じて、同じ姿勢で、光の中にいる。
……この光の柱を立てているのは、この人たちなの?
痺れる頭で、視線をさ迷わせる。
すぐ目の前に、立ちふさがる両足。
うつろに見上げた先にあるのは、白っぽい影。
色白の、透きとおるような肌をした、髪の長い人が、立っている。
腰よりも長い、真っ白に見える髪。
表情のない、見知らぬ容貌の中の、私を見おろす冷たい双眸。
照明が暗い中でもわかる、血に濡れたような朱い唇。
まばたきのない、蛇のような眼。
――――――ゾッとする。
見つめられているだけで、体中の血が冷たくなる。
背筋を、しびれる衝撃が走り抜けた。
恐いのに、全身が氷になったように、指一本さえも動かせない。
目を見開いたまま、そこから視線を逸らせない。
恐い。
恐い。恐いんだ。私。
言葉になって浮かんで、やっとそう、自覚した。
この部屋に入ってから、言い表わせなかった不安が、言葉になって。
さらに恐れを増幅させる。
私に、身動きのできない恐怖を、憶えさせる。
“恐い。”
この家に来て、前にも感じたことがある。
はっきりとした理由が掴めない、寒々とした恐れ。
冬馬と向き合って、彼の、冷ややかな無表情を見ていたとき。そう、感じたことがあった。
あのときの不安は、この恐怖を知るための前触れだったのだと。
私のなかの、意志ある何かが、訴えている。
――――ボーダーラインだ。
最初の最初にも、そう感じたはずだろう、と。内なる声が絶叫する。
そして。今、また、私を見おろす、冷酷な眼。
感情のない、人間のものとは思えない眼差。
腕が、蛇のごとく動き、私の方へと伸ばされ肩が掴まれた瞬間。
「いやあぁぁっっ……!! ……っ」
烈しく昂ぶる恐怖が、悲鳴となって。
私はそのまま、意識を失ってしまった。




