第三十九話 聖域の少女
「アリヒトさん、この人、胸が動いて……」
「ああ……どうやら、この鍵で合ってたみたいだな。さて、どうなるか……」
箱が開いたのだから、この鍵と少女に関係があることは間違いない――その予想通りに、鍵は少女の鍵穴にぴったりと合った。
「呼吸をし始めたみたい……まるで、SF映画のコールドスリープみたいね。ずっと姿を保ったままで、長い眠りから覚めて……」
五十嵐さんも、やはりオーバーテクノロジーというような印象を受けているらしい。耳についているカバーのようなものも、やはり機械に見える。
「……ん……」
「っ……め、目を覚ますわ。アリヒト、みんな、気をつけて……!」
張り詰めた糸のように緊張していたエリーティアが、皆に声をかける。俺は息を飲み、眠っている少女の睫毛が震えるところを見守る――そして。
少女の目が開く。髪の色と同じ瞳には光がないままで、黒い箱の中でゆっくり上半身を起こし、動きを止める。
危険を見越して取り押さえるとか、そういう気は起こらない。殺気も何も感じないし――何より、大きな問題がある。
(……髪で隠れてはいるが……もしかして、全裸なんじゃ……?)
「…………」
「っ……な、なんだ……?」
無言のまま、少女が俺を見やる。光のない目で見つめられると不安になるが、なぜ見られているのか、何とか意図を読み取ろうとする――しかし、彼女は何も言わず、次に俺の後ろを見やる。
後ろに居るのは、テレジア。彼女は目をそらさず、蜥蜴マスクの瞳が、目覚めた少女の視線を受け止めている。
「……つ、通じあってるんでしょうか? テレパシー的な?」
「ちょ、ちょっと……茶化すのはやめなさい」
「でも……お二人とも、落ち着いていらっしゃるようです。魂は荒ぶることなく、静まっています」
スズナの霊能感知は、相手が敵意を持っているか知る時に大いに役に立つ。『巫女』の感覚を全面的に信頼し、俺たちはテレジアと少女を、固唾を飲んで見守る――すると。
(……何をしてるんだろう。意志を疎通できるのか……?)
テレジアが前に出て、左手を伸ばす。そして、少女が伸ばした右手と合わせる――すると。
「……っ」
テレジアが驚いたように手を引く。無表情でそれを見ていた少女の目に、初めて光が宿る――そして、その唇が動いた。
「『聖櫃』を解錠し、我を目覚めさせた者は貴方か。その亜人の少女から、これまでの経緯を断片的に読み取り、我は必要な情報を得た。アリヒト=アトベ、貴方の名で間違いないか」
「あ、ああ……そうだ。俺は後部有人、日本からこの迷宮国に転生した者だ」
「……迷宮国。それは、『神集め』の責を負わされた者の集う場所か。彼方の地から魂を集め、転生させ、我らを『探索』させる。それゆえの『探索者』ということか」
思いがけない少女の言葉に、ぞくりと戦慄を覚える。
――俺たちがなぜ、迷宮国に転生したあと、探索者にならなければならないのか。ずっと疑問に感じ、いつか教えられると思っていたことを、この少女は今まさに口にしたのだ。
「どういうことなの……? 神集めの責……そんなこと、私たちは何も言われていないわ」
「待って、キョウカ。彼女は何かを知っている……とても大事なことを。一通り話を聞かせてもらいましょう」
エリーティアに制され、五十嵐さんは疑問を飲み込む。彼女を見やると、心配ないというように、胸に手を当てて頷いてくれた。
「彼方の世界より転生せし、揺るぎなき『後衛』よ。ここまで辿り着いたこと、そして迷宮の謎を解いたことに、まずは感謝をしたい」
「……ここに辿り着いたこと、鍵を持っていたこと。そして、あんたを目覚めさせたこと。それが、『迷宮の謎を解いた』ってことなのか?」
「そう。我は謎を解いた者を讃え、加護を与え、代償に支配される。我は『鉄の車輪』アリアドネ。百十七番目の秘神であり、神の模造品でもある。訪れる者のなくなった迷宮の底で、眠りに就いていた」
「え……百十七番目って、最初の迷宮なのにですか? ひしん? 模造品?」
俺にもついていけないが、ふと気がついてライセンスを見たことで、彼女の言っていることが少しだけ理解できた。
俺が使った鍵は『秘神の鍵』で、開いた箱は『聖櫃』と表示されている。聖櫃という言葉が元来意味するのは、神聖な者の遺骸であるとか、そういったものを安置する箱のことだろう。
その中に眠っていた少女は自分を秘神と呼び、『神の模造品』という。模造品――つまり複写、あるいは贋作だ。
「加護を与え、支配されるって……私たちに力を貸してくれるっていうこと?」
エリーティアが尋ねるが、少女は答えない。すっと立ち上がり、その身体を見せる――そして。
「っ……な、なに……? 身体に模様が浮かんで……これって、電子回路……?」
五十嵐さんが言うとおり、アリアドネの身体に回路のような光る模様が浮かび上がる。しかしその模様は途切れ途切れになっているように見えた。
胸の鍵穴のあたりからも模様が広がっているのだが、中途半端なところで切れている。豊かな隆起を持つ胸の途中までは明瞭に模様が出ているのだが、その先は薄れて消えているのだ。髪で隠れているからとかそういうわけではなく、不完全な状態に見える。
やがて少女――アリアドネの身体に現れた回路は消え、元の姿に戻る。彼女は俺を見て、申し訳なさそうに頭を垂れた。
「やはり、廃棄されてからの期間が長すぎたと考えられる。我が与えられる加護は弱く、全ての機能を回復できる可能性は極めて低い。より良い状態で保全された秘神を起動し、支配することを推奨する」
「それって……アリアドネ、おまえをそのままにして、放っておけっていうことか?」
「我は元から、廃棄された存在。守護者であるゴーレムは眷属ですらない。創造主は、模造品としての完成度が低い我を『はずれ』として箱に入れ、迷宮に封じ込めた。誰にも見つからずともよく、我が目覚めることで何かを成すことなど期待していなかった」
――まずは感謝をしたい。その言葉の意味を、最初は深く考えなかった。
『まずは』と前置きをしたのはなぜなのか。自分を目覚めさせても意味がなく、彼女自身が徒労だと思っていることを告げるつもりだったからだ。
「はずれなんて、酷い……意志があって話せる人を、箱の中に入れて何年も……どんなに冷酷だったら、そんなことができるの?」
「……あの巨人兵も、彼女の寂しさを癒やすために置かれたわけではなく……本当にただ、探索者を阻むために置かれたということなのですね」
五十嵐さんとスズナは怒っている――アリアドネの話す内容は、彼女の口調が淡々としているだけに、哀れさを増して聞こえた。
しかし、その無表情から察することができるのは、アリアドネにとってはただの事実であり、悲しむべきことですらないということ。
「…………」
「……テレジア」
テレジアが胸に当てた手を強く握りしめている。アリアドネの境遇に、彼女を箱に入れた『創造主』に対して、彼女は怒っている――今までにないほどに強く。
「……アリヒト、彼女をどうするの? ここに置いておいて、他の誰かに後を任せる……そういう判断も、可能性としては考えられるわ」
「我の力で、貴方たちを地上に送ることができる。第三層からここに至る転移装置は、起動したあとに自らを転移させ、再び地中に埋没する。貴方がたは、自分たちの所属する組織に我のことを報告することもできるし、放置することもできる」
全ては俺たちの自由で、どちらの選択も等価だとアリアドネは言っている。
――しかし、それは彼女の一方的な見解でもある。ここまで来た以上、アリアドネを見なかったことにはできない。
「……アリアドネ、保全された状態が悪かったっていうが、俺にはそうは見えない。何年か、何十年か分からないが、ずっとここで眠っていたとは思えないくらい、今の君はしっかり会話もできるし、俺たちを気遣う感情だってある。その姿も、何か欠けてるところがあるとは俺は思わない」
それこそ神を模したということが納得できるほど、彼女の造形にはおよそ無駄というものがなかった。
それでも彼女は捨てられた――不完全な神の模造品として。
しかし、神が俺たちが想像するように途方もない力を持つ存在なのだとすれば、完ぺきに模倣できなかったとして、それが無益なことなのだろうか。
アリアドネを作った存在が無益だと断じても、俺はそうは思わない。俺たちにとっては、彼女が与えてくれる加護は、そしてもたらしてくれる迷宮の謎の一端は、きっと何にも代えがたいものになる。
「完全に機能を取り戻せる可能性っていうのも、『極めて低い』ならゼロじゃない。俺たちだって、まだ探索者になったばかりの駆け出しだ……エリーティアはベテランだけどな。だから、これから一緒に成長していけばいい。それが、俺たちが成長することにも繋がると思う」
「……我の加護を得れば、我の機能を維持するために信仰が必要となる。貴方がたは不完全な神である我を信仰し、我と敵対する秘神に遭遇した時は、無条件に戦わなくてはならない。それでも加護を望むのならば、『札』を見せてほしい」
「札……ライセンスのことか?」
ライセンスを見せると、アリアドネは頷いてみせる。俺はみんなの意志を確かめる――誰もが反対せず、互いに顔を見合わせて苦笑する。
「後部くんなら、最初から答えは決まってると思うから。全部リーダーの選択に任せるわ」
「アリヒトさん……私なんかじゃ力不足ですが、アリアドネさんを助けてあげたいです。ここにずっと一人では、きっと寂しいですから」
「アリヒトさんとアリアドネさんで、アリアリコンビですねー。あ、今は冗談言うところじゃなかったですか?」
「緊張感がないけど、まあミサキだから仕方ないわね。アリヒト、私も賛成するわ。私たち探索者は、きっとアリアドネのような存在を迷宮から探すために集められたのよ。私たちが探索を続ける上で、彼女とパートナーシップを結ぶことは大きな意味を持つと思う」
俺もエリーティアと同じ考えだ。しかしそれは、俺たちを転生させた存在――ひいては、迷宮国を作った存在の思惑通りに動くということになる。
(……初めは、手のひらの上で踊ってやろうじゃないか。最後まで踊り続けなければいいだけの話だ)
駆け出しの探索者が、転生した意義や迷宮の謎になど、関心を持つことすら早いとは思うが――彼女を、アリアドネを見つけてしまったのだから仕方がない。
「俺たちはアリアドネの加護を受けたい。君を『信仰』するっていうのは、どうすればいい?」
アリアドネはしばらく沈黙したまま、俺の顔を見ていた。彼女が答えない間に、テレジアが前に進み出て、アリアドネに手を差し出す。
その手を取り、箱から足を踏み出したアリアドネは、俺に向けて右手を差し出した。その手にライセンスを渡すと、アリアドネは左手で持ち、右手をかざす。
「『札』に、いかなる第三者にも関知されない秘匿した機能を追加する。これを使うことで、我と連絡を取ることが可能になる。貴方がたは我に『供物』を捧げることで、加護を得ることができるようになる。もし探索中に迷宮で倒れたときは、我に十分に供物を捧げていれば、強制的にこの場所へと呼び出すことができる。ただそのときは、装備などを失うことがある」
「……それって、俺たちにメリットしかなくないか?」
「これでも機能は限定されている。秘神の中では私は最も弱く、そして敵対している者も多い。やはり、推奨は……」
「そんなに謙遜することないわ。だって探索者で、『秘神』の加護を受けている人を今のところ見ていないもの。アリアドネさんの加護を受けられるなら、きっとこれからどうしようもない危機が訪れたときに、助けてもらえる……その可能性があるだけでも、凄く頼りになるわよ」
秘神の存在自体、どれくらい伝わっているのか――ルイーザさんや、パルム小母さんが『秘めたる神』と言っていたが、それが秘神のことを指しているのだとしても、彼女たちは秘神が実際に存在すること自体は知らないように見えた。
俺たちだけの発見なのか、上位の探索者ならば知っている人間は多いのか。分からないが、アリアドネがライセンスに追加するという機能が『いかなる第三者にも関知されない』ということは、ギルドや他の探索者に対しても、俺たちが明かさない限りはアリアドネの存在は隠されるということになる。
「……アリアドネは、ここから動くことはできないのか?」
「今の状態では、『聖域』を出ることはできない。失われた機能を回復する『パーツ』を集められれば、外でも一定時間は活動することができる。それまでは、一時支援のみ、限られた回数だけ行うことはできる」
それはアリアドネの力を何らかの形で借りることができるということか。いずれにせよ今はメリットしか見えてこないが、彼女があれほど遠慮していたのだから、場合によって何らかのリスクはあるのだろう。
だが、俺のライセンスには既に新しい機能が入れられた。『秘神』のページが追加され、信仰している神の欄に『アリアドネ』の名前が表示されている。
「……外に出ても、三層の転移床からなら、ここに戻ってくることはできるか?」
「見つけることができれば。供物によって聖域の力を補充することができたら、新たな入り口となる転移床を、外部に設置することはできる」
「分かった。まず、その供物だが……」
「……それについては、また後で連絡をする。我を選んでくれただけで、今は嬉しい。それより多くを求めることはしない」
今はまだ、それ以上は話してくれないようだ。水色の髪を持つ少女は最後まで裸身のまま、その肌に光る文字を浮かび上がらせる――そして。
アリアドネが俺たちに向けて手をかざしたかと思うと、俺たちは、広い野原の中に転移していた。
この風景は、『曙の野原』の一階層。皆がまるで夢でも見ていたのかという顔をしている。
「……みんな、心配しなくても夢じゃない」
巨人兵を倒した証拠も、そして俺のライセンスに追加された機能もそのままだ。
「ほんとに帰ってこられたんですねー……ああ、もう足に力が……」
ミサキがその場にへたり込む。皆も同じ気分のようで、安堵のあまりに気が抜けてしまったようだ。
無事に帰ってくることができたが、ルイーザさんにどう報告すればいいのか。彼女が失神するだろう要素が多すぎて、どう説明するか今から悩ましいところだが――今はとりあえず、何も考えずに生き残れたことを喜びたい。
「ああ……生きて帰れて良かった。一時はどうなることかと……」
「後部くん、お疲れ様。少し休んでから帰りましょうか」
「そうですね……アリヒトさん、ずっと気を張っていましたから」
「……この人と出会ったことが、私たちにとって何よりの発見なのかもしれない。こんなに次々と、色々なことが起こって……」
エリーティアが気恥ずかしいことを言っているが、今は聞いていないふりをして、草むらに大の字になって寝転がろうとする。
するとテレジアがやってきて、俺のすぐそばで、膝を揃えて草の上に突き――そして。
「ああっ……テ、テレジアさん、そんなこと……」
五十嵐さんが慌てるのもわかる。テレジアは俺の頭を抱え、自分の膝の上に誘導したのだ。
「あ、ありがとう……でも、急にどうした?」
「…………」
テレジアは答えない。しかし、蜥蜴マスクから覗いている口元に、かすかな微笑みが浮かんでいるように見えて――俺は他のメンバーの視線を感じつつも、このままほんの少しだけ、柔らかな膝に頭を預け、生還した喜びに浸ろうと思った。




