第二百十五話 炎天に臨む
空が白み始める頃に目が覚める。
膝枕のままで休むわけにもいかなかったので、テレジアが眠った頃を見計らって彼女の膝から降りた。感覚が鋭敏な彼女であれば気づきそうなものだが、今日のテレジアは深く眠っているようで、ソファに横たえて毛布をかけて起きる様子はなかった。
◆テレジアの状態◆
▼イビルドミネイト 進行度:48
呪詛の進行度は50を越えていない。しかしこの数字が示しているのは、行動を操られる頻度や確率であり、すでにリスクが生じる境界は越えている。
(だが……前に確認したときから、10時間は経過したはずだ。それで2しか上昇していない……)
昨晩の過ごし方が、呪詛の進行度に影響したとしたら――線形で上昇していくわけではなく、進行を遅らせる方法はあるのかもしれない。
だがそれは確実ではなく、進行度を下げることができなければ意味はない。
今日、猿侯を倒す。エリーティアとの出会いからすでに始まっていた因縁を終わらせる。
顔を洗って目を覚まそうと、居間を出る。すると、玄関のドアが軽くノックされた。
「はい……ああ、ルカさん」
「おはよう。他の部屋を借りて休ませてもらったけど、ここの宿舎はなかなかいいベッドを使ってるわね」
ルカさんは革製の、いかにも年季が入っているトランクケースを俺の前に出す。
「お客様、オーダーされたスーツが完成いたしました……ってね。着てみせてくれる?」
「はい。支度をしてくるので、それからでもいいですか」
「ええ、戦う男の顔に変わってらっしゃい。あなた、いつにも増して優しい顔してるわよ。これからひと勝負するって人にしてはね」
「い、いや……そんなことも無いと思うんですが」
それ以上は聞かず、ルカさんは一度玄関から出ていく。どうやら着替えは、ルカさんの滞在している部屋で行うことになるらしい。
「ふぉぉ……なんですかあの、分かり合ってる大人の男性二人って空気は……お兄ちゃん、渋い感じも似合いますねえ」
「ハードボイルド……っていうのかな……ち、違う?」
「スズちゃん、そっちの方向だったんだ。ずっと男の人に興味ないって感じだったから、ずっと気になってたんだよね」
「っ……そ、そうじゃなくて……すみませんアリヒトさん、ミサキちゃんが……」
「二人ももう起きてたのか。済まないが少し出てくるから、居間で休んでるテレジアを頼めるかな」
「は、はいっ……」
「はーいっ」
寝間着姿のミサキとスズナが、話し声が聞こえたのか寝室から出てきていた。その後ろから五十嵐さんも出てくるが、まだ眠たそうだ――そして寝起きをじっと見ていてはいけない。
「はふ……あら、有……じゃなくて、後部くん」
「お、おはようございます、五十嵐さん。ちょっと顔を洗ってきますね」
「ええ。でも洗わなくてもそのままでかっこいいわよ、ちょっとよれてるくらいがいいから」
「……え、えっと、お姉さんもうちょっと休みません?」
「うーん……」
寝ぼけているとはいえ、何かいつもの五十嵐さんが絶対言わなそうなことを言われた気がする――俺の聴覚に何かしらのエラーが起きているのか。
「……わ、私も、アリヒトさんの起き抜けって、いいなって思います」
「う、うん……んん?」
起き抜けの冴えない姿が良いと言われても、どうすればいいのか――と、困惑している場合ではない。
スズナとミサキは一度寝室に引っ込んでいったが、朝食の支度ができる頃にはみんなも身支度を終えるだろう。俺も改めて洗面所に入り、冷たい水で目を覚ました。
◆◇◆
ルカさんの部屋を訪ね、新調されたスーツに袖を通す。軽く、通気性が良い――普段使っていたスーツとは素材の質が全く違う。
「サイズは丁度いいわね。裾を上げる必要もなさそうだし」
「本当にピッタリですね。今までより動きやすいですし」
「アタシのノウハウを注ぎ込んで、戦闘用スーツとして仕上げたのよ。探索者でスーツを着てる人なんて、アリヒトくらいだけどね」
「おかげさまで『スーツの男』なんて呼ばれてしまってるみたいです」
他に特徴がないから、見たままを呼ばれているということなのだろうが。ルカさんは肩を揺らして笑うと、俺のスーツの袖などの長さを確認し、背中をブラシで払ってくれた。
◆【MP】ブラック&ホワイト◆
・『物理防御』が強化される。
・『間接防御』が強化される。
・『魔法防御』が強化される。
・『敏捷性』が少し強化される。
・『雷属性攻撃』が少し強化される。
・『加護:悪魔』悪魔に類する魔物から受ける打撃を軽減する。
・『雷耐性1』が身につく。
・『闇耐性1』が身につく。
・品質:マスターピース 『ルカ』によって作られた。
「表地には『ダークネスブリッツ』、裏地には『サンダーヘッド』の毛糸を使って、スーツの名前に反映されてるのはその二つの色ね。他にも素材は入れてるんだけど、この二種の素材を組み合わせると悪魔に対する耐性がつくみたい。『マスターピース』以上の品質じゃないとオプション性能は付加されないんだけど、今回は上手くいったわね」
「いや、本当に凄いです。丈夫そうなのに動きやすいですし」
「そう言ってもらえるとありがたいわね。今まで着ていたスーツも一応直してはおくけど、基本的にはこのスーツ以上のものを提供し続けたいと思ってるわ……素材次第だけどね」
「はい、使えそうな素材を見つけたら相談させてください。当面はこのスーツで大丈夫そうですが」
ルカさんは目を糸のようにして笑うと、スーツを着るときは外していた俺の銃のホルスターを見て、状態を確認した。
「魔法銃、使ってもらってるみたいね。どう、活躍の場はあった?」
「何度も助けられています。俺の技能とは相性がいいですし、装填する魔石次第で戦術の幅が広がりますから」
「……あなたはやっぱり、そう見えて『狼』なのよ。仲間を勝利に導く嗅覚、そういうものが身についている。平和な世界でのオフィスワークなんて退屈だったんじゃない?」
俺のスーツを見れば、どんな仕事をしていたか想像がつくものなのか。
ちょうどと言ってはなんだが、昔の夢を見たばかりで、ルカさんの問いに対する答えははっきりしている。
「元の仕事も、達成感がある瞬間はありました。ですがルカさんの言う通り、迷宮国に来て生きている実感というものを知った気がします。ここに来た経緯を考えれば、皮肉にも聞こえるかもしれませんが」
「ふふっ……そうね。でもありえない話って笑うかもしれないけど、アタシは転生する前にアリヒトに合っても、友達になれたんじゃないかって気がするわ」
「それは……何だろう、嬉しいことを言ってもらってますね」
「色々な人の目を開けさせる力をアンタは持ってる。だから、生きることに貪欲でありなさい」
俺はどうなってもいいから――そんな考えはいつも根底にある。それは時に、命を捨てようとしているように見えるかもしれない。
だが、皆と生きたいからこそ、俺は死中に活を見出そうとする。それは死にたがりではなく、生きることへの執着だ。
「……その胸の傷、塞がってはいるけど。一歩間違えば終わってたわよ?」
「そうですね……でも、痛みはないんです。むしろ、覚悟が決まったようにも思いますから」
思ったままを答えただけのつもりが、ルカさんは瞠目している――これは、引かれてしまっただろうか。
「一流になれる人間は、窮地でこそ笑う……というのがアタシの持論だけど。アリヒト、アンタが戦いの中で笑うところを見たくなってきたわ」
「俺は戦闘狂ではありません。前に進むために必要なら、戦うだけです」
ルカさんが拳を差し出してくる。俺も軽く合わせたあと、廊下に出る――ルカさんと宿舎の玄関ホールにやってくると、装備を済ませた仲間たちが待っていた。
◆◇◆
マドカの手配でセレスさんの工房に荷車が運び込まれ、『クィーンズテイル』が搭載された。他のメンバーには先に迷宮の入り口前まで移動してもらい、荷車を使うマドカとシオンを伴ってマッケインさんの説明を受ける。
「商人の嬢ちゃんが荷車の制御役か? 『加速石』を組み込んであるから自力で走れるが、魔力には気をつけてな」
「はい、気をつけて使わせていただきます……っ!」
「まあ、荷車に乗ってるメンバーの誰かが魔力を供給すりゃいいから、そこは臨機応変にやってくれ。馬力のある奴の力を借りれば、引っ張って動かすこともできるしな」
「バウッ」
シオンなら引っ張れなくもないと思うが、基本的には『加速石』で自走し、自走能力を維持できるように守りつつ運用するのが一番だろう。
『私が召喚可能であれば、その時は牽引すればよい』
『ああ、よろしく頼む』
アルフェッカの声に応じる――荷車を最高速度で運用できるのは、アルフェッカに牽引してもらった場合だろう。『バニシングバースト』は加速による付加にどれくらい耐えられるかわからないので、あまり無茶はできないが。
「マッケインさん、ありがとうございました」
「ああ、何かあったらまた来てくれ。メンテナンスでも、改造でもな。素材さえあればご機嫌な車にしてやるぜ」
マッケインさんに握手を求められる。握り返すと、彼は白い歯を見せて笑い、貸し工房を出ていった。
「まず、この『クィーンズテイル』を試し撃ちしようと思う」
「この大きい……何ですか? すごい武器なんですよね……っ」
『ザ・カラミティ』の素材である『九尾』は、おそらく砲身の役割を果たす。それらが配管で動力源である『残光』に接続されている――セレスさんとシュタイナーさんの職人芸を感じさせる、芸術的とさえ言える造形だ。
「おそらく、とんでもない威力だが……どれくらいのものか、確かめておきたい。これで何ができるかを把握しないとな」
「わかりました。私も、これを発射したときに驚かないように慣れておきたいです」
「バウッ」
「では、わしらも迷宮前まで乗せてもらおうかの」
セレスさん、シュタイナーさんと一緒に荷車に乗り込み、『加速石』を使ってみる。ダイヤルがついていて、歩くくらいの速度から、最大で走るくらいの速度は出せるか――方向転換のためにハンドルがついているが、回すにはかなり力が必要そうだ。
◆現在の状況◆
・『マドカ』が『荷車の熟練1』を発動
「お兄さん、何とか動かせそうです。では、出発進行……でいいですか?」
「ああ、頼む。最初は速度を抑えめにして、魔力の減り方を見てみよう」
舗装されているとはいえ、多少段差のある道をゆっくり走り始める――マドカのライセンスを見せてもらっても、歩くくらいの速度なら魔力の減りは気にならない。
「マッケインもなかなかの職人じゃな。五番区で店を出しておるのじゃから、わしらより腕が立つのは当然じゃが」
『でも「クィーンズテイル」とか、我輩たちの仕事は褒めてくれてたよ。いい人なんじゃないかな』
シュタイナーさんに俺も同意見だが、まずマドカの運転を見守ることに集中する――しかし安全運転で、何も言うことがない。おそらく俺が運転するより上手いだろうというくらいだ。
「魔力で動いているとはいえ、なんだか自動車みたいですね。スイスイって走りますけど」
「確かにな……こういう乗り物に、迷宮国で乗れるとは思ってなかった」
先導してくれるシオンの後について、『炎天の紅楼』の入り口前広場に着く。
すると、そこにはパーティの仲間たちとフェリスさんの他に、ホスロウさんとクーゼルカさん、イヴリルとヴァイオラ、そして三等竜尉のナユタさんの姿があった。
「アリヒト様、思ったより早かったですわね。ですが、毎日心の準備はしておりましたから。今日はなんなりと役割をお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます、イヴリルさん。迷宮の一階でやっておきたいことがあるので、少し待機してもらいますが……」
「作戦を立てるためには、まず現況の把握が必要ですわね。『猿侯』は狡猾な魔物……一度交戦したとなれば、二度目に備えて何かしてくるかもしれません」
あの砦は、探索者を引き込んで罠にかけるような機構を備えていた。『猿侯』は自分が生き残るため、そして従属させる探索者を増やすために、再び罠を仕掛けてくる可能性が高い。
「まず『猿侯』の本体を特定することです。影武者を倒しても意味がない……本物がどこにいるかを探り、見当がつけられるようなら、そこに瞬間最高火力を持つメンバーを当てます。俺たちのパーティにおいてのエリーティアです」
「そうですわね……私たちも配下の名前つきは相手にできますが、エリーティアさんを見る限り、私とヴァイオラ二人よりも攻撃役としては優秀でしょう。私たちはどちらかというと、絡め手を得意としていますし」
操られている探索者を無力化する上では、その絡め手が役に立つ――そう期待する。
「アトベ殿、申し訳ありません、ディラン司令官の指示により、私も本作戦に協力させていただくことになりました」
「ありがとうございます。しかし、なぜディラン司令官が……」
「それについては、本人が参加することができないことを謝罪したいとおっしゃっておられました……私は、それ以上は聞いておりません」
『猿侯』を放置していることについて、ギルドセイバーにも思うところがあるとすれば、ナユタさんが派遣されたのは分からなくもない。それは、この戦いの顛末について情報を得たいということもあるのだろう。
今は戦力は一人でも多い方がいい。ナユタさんの実力は実際に見ているし、仲間として戦ってくれるならとても頼もしい人だ。
「まず作戦を立てるために、情報収集をします。ナユタさん、一緒に迷宮に入ってもらえますか」
「了解しました」
「情報収集といえば私の出番ですね。アトベさん、私の力は入用ですか?」
セラフィナさんの後ろから出てきたのはアデリーヌさん――彼女の技能は、周辺の地形を探る上で非常に有効だ。
「……アリヒト、そのスーツ良く似合ってるわね」
こんな時に――いや、こんな時だからなのかもしれない。エリーティアの一言が、パーティの皆の緊張を和らげる。
「高級なスーツは、着ることはないと思ってたんだけどな」
「そんなことないわよ。凄く決まってる」
「お兄ちゃんが頼れるのって、スーツを着てるからっていうのもあるかもですね」
「本当に……きりっとした黒色で、空気が引き締まります」
「ありがとう。みんな……俺たちはこれからルウリィを助ける。そして、テレジアを呪詛から解放する。さあ、行こうか」
『はいっ!』
一度は『猿侯』から逃げるしかなかった――だが、今は違う。
テレジアは『呪詛喰らい』の武器、グロリアスティレットを携え、俺の少し前を歩いていく。彼女がそれを振るい、呪いごと『猿侯』を薙ぎ払う光景――そこに、必ず辿りついてみせる。




