第二百十四話 夢現
いつもより長く、鮮明な夢を見た。
迷宮国に来る前、俺はオフィスで仕事をしている。一緒にスキーに行こうとしていた同僚が仕事の調子はどうかと聞いてきて、俺は多忙を極めているのにボチボチだと答える。
変わり映えのしない日常の中に、ささやかな幸福を見出す。提出した仕事が評価されたとか、五十嵐さんと一緒にやったプレゼンが成功し、コンペに受かったとか。
生きるとか死ぬとか、そんなことを考える瞬間は少なく、時折考えても通り過ぎていくだけ。
平和な日々だ。それを当たり前として生きることも、間違ってはいない。迷宮国に来て、探索者としての日常に慣れた今でもそう思っている。
けれど、戻りたいと思うことはもうない。
俺たちの目指す場所は明確じゃない。それでも成し遂げたいことはこの迷宮国にある。
テレジアと出会ったから、俺は後衛として立つ場所を見つけることができた。
亜人は感情を持たず、傭兵として雇われる。『リザードマン』という種族から想像したのは、二足歩行の蜥蜴人間だった――もし本当にそういう姿をしていたら、俺はどう思っていただろう。
しかし俺の前に現れたのはテレジアだった。迷宮で一度命を落とした少女。そんな経緯を聞かされた初めは、迷宮国では珍しくないことなのだと、深く疑問も持たずに受け入れていた。
テレジアに感情がないなんてことはない。他の亜人とは違うのかもしれないが、フェリスさんにも感情の片鱗は垣間見えるし、彼女の家族はそれを理解している。
それでも俺はどこかで、テレジアは普通の人間とは違うと考えてしまっていた。
亜人だから、一緒に風呂に入っても恥ずかしがらないし、言い聞かせても入りたがる。亜人だから、そういうことをしても仕方がない。
――亜人だから、俺に忠実でいてくれるのかもしれない。
そんな自分を許すことができないから、俺はテレジアを人間に戻したいと思った。それを認めれば、自分のエゴに向き合うことになる。
彼女が言葉を発することができたら。思っていることをもっと理解できたら。
そのとき初めて、俺はテレジアに、何の引け目も感じずに向き合うことができる。
俺と一緒に探索者を続けていく以外に、本当はやりたいことがあるのかもしれない。置かれた状況に従うしかないから、そうしているのかもしれない――そんなことはないと思いたいのに。
四番区の大神殿に行くことを望みながら、同時に恐れてもいる。
『猿侯』の呪詛は、そんな俺の迷いに対する罰のようにも思えた。テレジアはパーティのために、危険を顧みずに役割を果たしてくれている。そんな彼女を、なぜ十割信じられていないのかと。
これからも一緒に旅がしたいと言うことが、テレジアが人間に戻れたとして、彼女が望むことなのかが分からない。
テレジアの攻撃を受けた時にさえ、俺は報いのように感じていた。
責められたいという思いがあった。周囲の誰もが触れなくても、傷は開いていた。
完璧を望むことの傲慢さ。誰も傷つかずに、リスクを負わずに進むことなどできないのだと知りながら。
『……マスター』
夢の中で、声が聞こえる。意識が闇の底から引き上げられる。
ムラクモの声。それが意味するものは、おそらく警告だった。
薄く目を開けると、薄暗い部屋の中で、テレジアが横になっている俺を覗き込んでいる。
その手には何も持ってはいなかった。ただ、テレジアは俺の首に手をかけて、力を込めずに触れたままでいた。
何が起こったのかは分かっていた。それでも俺はライセンスを確認することはしなかった。
「俺は……」
テレジアになら、殺されても構わない。だがそんな言葉は、ただの逃避だ。
俺の首に触れた手は冷たかった。冷えきった手に触れると、俺の頬に何かが落ちてきた。
覗き込んでいるテレジアの頬から、涙が伝っていた。それは止まることなく流れて、暗闇の中で白い軌跡を残す。
テレジアはいつも身につけているスーツを着てはいなかった。
淡い明かりの中で、テレジアの白い姿は、青白く浮かび上がるように見えた。
浴室で突然スーツの留め具を外した時、俺はすぐに目を逸らした。見てはならないと、当たり前にそう考えた。
罪悪感があるのは、テレジアの姿を直視すれば、感情を動かさずにいられないからだ。
テレジアは『隷属印』を与えられている。一緒に浴室に入ろうとするのも、だからこそなのだとしたら――そんな想像さえ、するべきではないと思った。
傭兵として雇われる亜人。雇用主の中には、雇った亜人を尊重することをしない者もいるのかもしれない。
俺はそうなってはならないと思った。そんなことは望んでいないし、テレジアを傷つけることは絶対にしない。
それでも、こうなってしまった。
テレジアが泣いている。感情がないなんていうのは、やはり彼女には当てはまらない。
彼女は自分を責めている。そうして今、俺の手を取って引き寄せている。
俺はそれに抵抗しなかった。
――しかしテレジアが自分を傷つけたいと思っているのなら、絶対にそうはさせない。
「…………」
テレジアの心臓の鼓動は、驚くほどに早まっていた。緊張しているのか、こうすることが本当は正しくはないと思っているのか。
どちらにせよ、もう見ているだけではいられなかった。
身体を起こし、テレジアの背中に手を回して抱きしめる。
「……っ」
「……こんなに冷え切ってる。いったい、何をするつもりだったんだ……なんて、恍けるつもりもないけど。思い切ったことをしたな」
テレジアは動かない。その身体は震えていて、少しでも腕の力を緩めたら、離れていこうとする素振りを見せている。
「俺は何も怒っちゃいないよ。むしろ怒っているとしたら、自分に対してだ。テレジアがこんなに思い詰めているのに、明日を一緒に乗り越えようとか、綺麗事ばかりで……」
「…………」
言葉を話すことができないテレジアに、こちらの思いを一方的に言葉にして伝えるのは、バランスが崩れた関係だと思うこともあった。
だが、今は言わなければならない。そうでなければテレジアを安心させられない。
「俺が探索者として俺が歩き出せたのは、何も見えない中でも希望を見出せたのは、テレジアに会えたからだ。全ての始まりは、君だった」
「…………」
「大袈裟だと思うかもしれないけど、俺にとってはそうなんだ。俺は一人じゃ何の役にも立たない。テレジアがいてこその俺で、少しずつ自信を持つことができたんだ」
一度は小さく首を振ったテレジアだが、続けた言葉には首を振らなかった。
いい年をした大人が、伝えるべきことを言うだけでガタガタになっている。後になったら情けなくて仕方なくなるくらいに――それでも逃げられない。
「皆は俺より年下で、十も離れてるようなメンバーもいる。テレジアも含めて、お仕着せかもしれないけど、妹みたいに思うようになっていった。五十嵐さんやルイーザさん、セラフィナさんは歳が近いほうだけど、それでも大きくは変わらない……そう思うようにしたのは、自分で決めたルールを守らないと、長く組むことはできないと思ったからだ」
テレジアはもう離れる気配はない。一度身体を離して、俺はテレジアと向き合う。
彼女の涙の跡が残っている頬を、指で拭う。テレジアは動かずにされるがままでいた。
「けどそれは、認めてるようなものだ。同じパーティということ、尊敬するべき相手だということ。それ以外に、異性としての見方をしてるっていうことを」
「…………」
テレジアが話を聞きながらすん、とする。このままでは寒いだろう――俺は自分の毛布をテレジアの肩からかぶせる。
白い肌を見せ続けていても、彼女は自分から隠そうとしない。毛布で身体を覆うと、ようやく自分で引っ張って隠してくれた。
「でも、そういう見方が少しでもあるって思うと、それはルール違反だからな。だから俺も、テレジアが一緒に風呂に入ろうとすると、本当は良くないって思いは常にある」
「…………」
テレジアは視線を少し下げる――どこを見ているのかというと、自分のことを見ているようだ。
「い、いや、そうじゃなくて……テレジアが思ってることの通りかは分からないけど。テレジアだから良くないってことじゃなくて、むしろ俺が嬉しいと思う部分が少しでもあるなら、良くないってことなんだ」
「…………」
もう、テレジアは泣いてはいない。俺の方を見て、話に耳を傾けてくれているようだった。
今までは何度言っても通じているか分からなかったが、ようやく伝えられていると思う――普段なら、とても言えないような本音を話すことで。
「テレジアが俺を攻撃したことで自分を責めたり、望んでいないことをするのは絶対に……ん?」
――テレジアが、ふるふると首を振る。
それは、俺の言葉のどの部分に対してか。『望んでないことをする』という部分なら、どういう意味で首を振ったのか。
「…………」
部屋が暗いから、分からないことにしておきたいが――テレジアの蜥蜴のマスクも、見えている顔も、一気に真っ赤になっていく。
「…………」
「……そ、そうか……いや、でもそんなことは……」
俺を攻撃したことで自分を責めて、スーツを脱いで何かしようとした。そうとばかり思っていたが、それが違うということなら。
猿侯との戦いを前に、テレジアが俺と――そう思って、寝ている俺のことを覗き込んで。
そのとき呪詛の力が働いて、俺の首に触れてしまった。
望んでいないわけではない。そうだとしても、やはり、俺は目を覚まして良かったと思う。ムラクモに起こされたから目を開けられたといえばそうだが。
「……今日のところは、ゆっくり休もう。テレジアが寝るまで、俺も見てるからな」
「…………」
テレジアは少し迷っていたようだが、しばらくして頷いてくれた。
彼女は俺の斜向いのソファに――行かずに、俺の隣に座る。そしてじっと見てくる。
「……起きたときに見られたら、恥ずかしいことになるけど。共同責任でいいか」
テレジアはこくりと頷く。俺はテレジアの膝に頭を預ける――そうして、頭を撫でてくれる。
「……少しだけ。テレジアも、身体が休まらないから……」
テレジアはもう一度頷く。蜥蜴のマスクから覗いたその表情は、確かに微笑んでいるように見えた。




