第百八十五話 朝の風景/荷車
カーテンの隙間から光がこぼれている。空が白み始める早朝に、俺はふと目を覚ました。
「あっ……」
目の前で口を押さえて驚いているのは、受付嬢の制服を身につけて、出かける支度をしたルイーザさんだった。
ルイーザさんはパッと身体を起こして離れる。ソファーに手を置いて、俺のことを覗き込んでいたような――死んだように寝ていたから心配されたのだろうか。
「お、おはようございます、ルイーザさん。もう出かけられるんですか?」
「は、はい……特任職員の立場でも、五番区に滞在する間は通常業務が割り振られますので」
「お疲れ様です。朝食はどうされます?」
「先ほど『フォレストダイナー』のマリアさんの手配で軽食を届けていただきました。温かいコーヒーとお茶、スープも魔道具のポットで届いています」
「コーヒー……それは懐かしいですね。迷宮国に来てからは一度も口にしてませんが、どこかの迷宮で手に入るんですか?」
「はい、この区の迷宮に自生しているそうです。取りに行くのが大変なところにありますので、手に入る量は限られているのですが……アトベ様、お飲みになりますか?」
「ええ、できれば一杯……でも、皆も飲むなら待った方がいいですかね」
「全員の分がありますので、ご遠慮なさらずどうぞ」
にこっ、とルイーザさんが微笑む。彼女はポットを持ってくると、合わせて用意されていた陶器のカップにコーヒーを注ぎ、ソーサーに載せて出してくれた。
すでに注いだときから分かっていたことだが、この香りは――飲むだけで、会社員だった頃の記憶が脳裏をめぐる。
『後部くん、砂糖なしのコーヒーなんてよく飲めるわね……牛乳を入れてカフェオレにしたほうが美味しいと思うけど』
そんなこともあったか――五十嵐さんは一度会社のコーヒーマシンでカフェオレを淹れてくれたことがある。俺が徹夜をしたあとに出社してきた彼女が、生ける屍となっていた俺を見兼ねて出してくれたのだ。
それまでブラック派だった俺だが、半々くらいでカフェオレも選ぶようになった。五十嵐さんはさらに砂糖を入れないと飲めない――なぜ知っているかというと、俺も彼女に部下として差し入れをしたことがあるからだ。
「うん、旨い……ル、ルイーザさん?」
ルイーザさんが俺のことを、困ったような顔で見ている――他のことを考えて上の空になってしまっていた、俺のマナー違反だ。
しかしルイーザさんは、仕方ない人だというように肩をすくめてくすっと笑う。
「何か、コーヒーに思い出がある……ということですか?」
「は、はい……思い出というほどでもないんですが。五十嵐さんの部下として仕事をしていたとき、よく飲んでいたことを思い出して」
「……その時のコーヒーと、今のコーヒーは、どちらが美味しいですか?」
「え、ええと。それは甲乙つけがたいですね……」
「……そこはルイーザさんの方が美味しいって言っていいところじゃない?」
そろそろ誰か起きてくるだろうかと思っていたが、予想通りだった――今まさに名前を出してしまった五十嵐さんが、物陰から気恥ずかしそうに出てくる。
「キョウカさん、おはようございます。お話に聞いていたよりも、アトベ様に優しくしていらっしゃったんですね」
「そ、そんなこと無いけど……その何倍も無理をさせて、全然いい上司じゃなかったもの。後部くんにも、最後の方は避けられてたわよね」
「い、いや、避けてたってことは……」
「……避けてたでしょ?」
それは俺が五十嵐さんの直属として、同じプロジェクトを担当する機会が多くなりすぎたために、俺が五十嵐課長のお気に入りだという噂が立ってしまったということもある。
それを五十嵐さん本人は全く気づいていなかったので、俺も事情を説明するのに気が引けてしまった。転生したばかりの頃は、それでも俺を指名して仕事を任せてくる彼女に文句の一つも言いたい気持ちで――それにしても、あれは意地を張るところではなかったと反省している。
「あ……ご、ごめんなさい、問い詰めようとしてるわけじゃないの。私の方が、今思い出しても謝りたいっていうか……」
「それで、アトベ様をお名前でお呼びにならないんですか?」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってもらっていい? ルイーザさん、今日は私に意地悪じゃない……?」
「いえ、全くそんなことは……そうですよね、アトベ様」
「え? あ、は、はい……いやあの、五十嵐さん、俺を睨まれてもですね……」
思わず狼狽してしまう俺に、ルイーザさんはくすっと微笑む。やはり大人の女性は一筋縄ではいかないと思いながら、俺は気分を落ち着けるべくコーヒーを喉に流し込んだ。
◆◇◆
全員が起きてきたところで朝食を取り、出掛ける支度を終える。
「お兄さん、ファルマさんはすぐには八番区を離れられないので、明日到着されるとのことですっ」
「ああ、連絡があったんだな。ありがとう……マドカ、前にも話してたと思うんだが、今日は荷車を買いに行こうか」
「本当ですか!? わぁ……荷車、憧れてたんです。荷車を持っていると一人前の商人さんらしいですよね」
「じゃあ、まず荷車が売っているところに行って、それから資料館に行くってことでいいのよね?」
話を聞いていた五十嵐さんは、マドカの後ろにやってきて肩に手を置く。マドカは照れつつも、五十嵐さんのするがままだ――仲の良い姿が微笑ましい。
「セレスさんの紹介で、呪印の知識がある人物に会う必要があるので……資料館で接触できるのか、居場所の手がかりがあるのかは分からないんですが」
「そうなの? セレスさんとは少し複雑な関係の人なのかしら……なんて、手がかりをもらえただけでも感謝するところだから、詮索は良くないわね」
いつも全員が居合わせているわけではないので、改めて情報を共有しておく。事情が飲み込めて行動するのとそうでないのとでは、皆の心情にも大きな違いがあるだろう。
「今さら感はあるんですけど、セレスさんって一体何者なんです? 五番区に知り合いがいるなんて、実は思ってる以上に物凄い人だったりして……」
ミサキが感嘆しているが、俺も正直を言えば気になってはいる。今はセレスさんとシュタイナーさんはすでに工房に入っているので、その辺りの質問は機会があればということになるが。
「全部話さなかったっていうことは、何か事情があるんでしょうね。呪いに詳しい人って、どういう職業なのかしら……」
「幾つか考えられるけど……シロネも呪いの類と関係がある職業だったから」
シロネの職業は『呪符使い』だったが、彼女の落とした武器は二つの剣だった。『ヘブンスティレット』と『ブラッドサッカー』――二つ同時に使うとしたら、二刀流の剣使いということになるが、『呪符使い』という名前からイメージする戦い方とは少々離れている気もする。
「彼女は元々『双剣士』だったのよ。どうして『呪符使い』に転職したのか……理由はきっと、『色銘の装備』を身につけられる可能性を探るためでしょうね」
「色銘……」
エリーティアの武器の名称は『緋の帝剣』で、色の名前を冠している。色の銘を持つ、そういった意味での『色銘』ということか。
「他にも色の名前がついている武器があって、それらも呪われているってことなのか?」
「ええ……今『白夜旅団』が所有している数は増えているかもしれないけど、団長を初めとして数人が持っているはずよ。武器とは限らなくて、防具として見つかることもあるの」
「エリーティアさん、旅団の人たちは、呪いの武器を制御することができているんでしょうか……?」
スズナの問いかけに、エリーティアは表情を曇らせる。そして、鞘に入った自分の剣を見つめながら言った。
「まず、装備して固有職に変化すること。それが『装備に選ばれる』ということで、旅団ではそれ以上の段階に達しているのは、きっと……私の兄、ヨハンだけだと思うわ」
それ以上の段階――それが『色銘の装備』を御して、呪いを克服した状態ということなのか。
エリーティアの『カースブレード』という職業も、これまでの戦いを経て変化の兆しを見せている。千体の魔物を倒した時点で固有技能が解放され、『スカーレットダンス』を習得することができるようになった。
「それ以上の段階に達するためには、何か条件があるのか?」
「……分からない。兄は装備の色ごとに条件が異なると言っていたけど、あの人は仲間を本心から信用していないから。アニエス副団長も、兄の考えが分からないことがあると言っていたわ」
「それでも行動を共にするということは……旅団のメンバーにとっては、エリーティア殿の兄君は、リーダーとして信頼できる人物なのですね」
セラフィナさんはそう言うが、エリーティアは肯定することはしなかった。
「肉親を悪く言うべきじゃないのは分かってる……でも、兄さんは変わってしまった。昔は休日には時間を忘れて本を読んでいるような、物静かな人だったのに」
迷宮国で探索者として活動していれば、過酷な出来事は少なくない可能性で起こる。
エリーティアの兄が大きく変わるだけの出来事が起きたとして、それを知らないうちは彼についてあまり先入観を持つべきじゃない。
旅団がルウリィを助けなくても、俺たちが必ず助け出す。俺たちの姿勢が旅団にどう映るかはわからないが、気にしてはいられない。
「……エリーティアの兄さんと意見がぶつかるようなことがあっても、俺は無条件でエリーティアを支持するよ」
「アリヒト……ありがとう。今のところは、会うことがなければそれでいいと思っているの。心を決めて旅団を離れた以上は、そうした方がお互いにとって良いと思うから」
「はー、優しそうなお兄さんだったら話は早かったんですけどね。話を聞いてるとちょっと怖そうなので、遠くから見るだけが良さそうですね」
ミサキはそう言うが、俺としては、機会があれば話してみたいとは思う。シロネがなぜ七番区に来てまで俺たちに敵対するようなことをしたのか、その理由が気になっているからだ。
もしヨハンの指示によるものだとしたら、彼には目的のために手段を選ばないところがあると判断せざるを得ない。旅団に対して油断はできない、それは前から感じていたことではあるが。
◆◇◆
五番区の北西部に、荷車を作っている工房がある。工房長は髭を生やした男性で、俺より少し年上なのだろうが、油の染み付いたグローブなどが年季を感じさせ、熟練の職人の風格を感じさせた。
「俺はマッケインってんだ、この工房の二代目をやってる。何に使う荷車が必要なんだ?」
「彼女は『商人』で、『荷車装備』の技能を持っています。ゆくゆくは違う荷物も載せて運びたいんですが、今回は重量のある武器を積むために使いたいと考えています」
「嬢ちゃんが荷車を使うのか? 重量のある武器か、これから相当なデカブツを相手にしようってんだな。それなら、耐荷重の補助をつけねえとな」
「耐荷重……積載量を増やせるとか、そういうことですか?」
マッケインさんは頷くと、穴の空いた金属の棒のようなものを持ってきた。
「これは荷車の持ち手の部分だ。ここのパーツを魔石穴やルーンスロットが空いてるものにして、『軽化石』『浮遊石』、はたまた『飛翔石』なんてものを装着してやると、荷車の性能は激変する。おまえさんたちが装備してる武器と荷車は、デカさこそ違えど変わらねえのさ。『荷車装備』の技能がある人間にとってはな」
「なるほど……奥深いチューンナップがあるということですね」
何となく選んだ言葉だったが、マッケインさんは『チューンナップ』という言葉に目に見えて反応する。
「俺は転生する前、車のメカニックとして働いてたんだ。この迷宮国で経験が活かせるとは最初は思ってなかったんだが、なかなかどうして、魔道具ってやつが俺に可能性を感じさせてくれた。時間をかけりゃエンジンも作れるだろうが、魔道具で同じ機能を代替できる。荷車に魔石を付けて改造できると気づいたときは、震えたもんだぜ」
「ということは……以前は、魔石のついた荷車は存在しなかったということですか?」
「そうなる。荷車も本来の使い方だけで十分といえば十分だからな。余った『軽化石』を荷車に付けてみたいと言ってた奴がいて、そこからだよ。うちの工房がそういうサービスを扱い始めたのはな」
「あ、あのっ……私が荷車を使うには、そういった魔石を手に入れて準備する必要があるんでしょうか」
マドカが言うと、マッケインさんは笑い――工房の一角にある棚を指差した。
「相応のお代はもらうが、うちにも魔石が用意してある。そうだな、大砲でも積むってんなら、重量よりは『枠』で積める改造をすべきかもな」
「枠……決まった枠の中であれば、重量に関係なく積めるってことですか?」
「この『収納石』を使う。今の相場は金貨2500枚になるが、時期によっちゃもっと跳ね上がることもあるような価値のある魔石だ。これを装着した荷車は、重さに関係ない枠を設けてものを積めるようになる」
今回の用途を考えると、まさに必須の改造だ。出費は大きいが、今から狙った魔石を探すのは時間的に困難なので、資金で時間を買うと言ったところか。
「お、お兄さん……」
「大丈夫、予算に余裕はある。マッケインさん、収納石は必須で付けてもらうとして、移動の補助をするような改造もできるでしょうか」
「いざというときに魔力で車輪を走らせるような改造と、あくまで自分で引っ張る上での取り回しを軽くしたりする改造がある。運用の仕方を想定して、どんなクルマに仕上げるかを決めてくれ」
荷車を買いに来たのに、何か自動車でも買いに来たような感覚になってしまった――オプションを決めて車を買ったりするのと似ている気がする。
『いざというときは、私を動力にすれば良い。私が実体化できない状況下については、マスターに一任するが』
アルフェッカの声が聞こえてくる。すると背中に背負っているムラクモも会話に入ってきた。
『荷車には荷車の役割がある。アルフェッカの役割がなくなるということはない』
『そのようなことは考えていない。むしろ荷車に兵器を搭載したとき、ムラクモの必要性が低下するのではないか』
『そのようなことはない。マスターが装備できる強力な近接武器という特性は、これからも戦闘において貢献の余地がある』
アリアドネのパーツ――『アーマメント』同士で口論のようなことをするというのは、今までにないことで少し意外だ。
『二人とも、これからも頼りにさせてもらうつもりだから、喧嘩はしないようにな』
『……善処する』
『私を可能な限り有効に使ってもらいたい。マスターたちが強くなっても、敵もまた強敵であれば使用許可は降りる』
「アリヒト殿、どうされますか? 私も装甲車に随伴した経験はありますし、荷車の移動を補佐できると思いますが」
「ありがとうございます、セラフィナさん。でも、私もパーティの一員なので、お任せしてもらった仕事は果たしてみせますっ」
戦闘に慣れていないマドカを護衛するという点で、セラフィナさんやシオンの力を借りることは想定しておく。
そして彼女の希望通り、一人でも荷車を運用できるように魔石で強化してもらう――すると、このような仕様になった。
◆ヘブンスチル・ホイール+3◆
・『ヘブンスチル』を素材として使用した荷車。
・『収納石』が装着されている。
・『加速石』が装着されている。
・『軽化石』が装着されている。
「車台には軽くて強度の高いヘブンスチルを使う。白っぽい光沢のある金属で、六番区あたりで装備に使われることが多い金属だ。もう少しいい金属が入ることもあるんだが、さすがに高くなりすぎるんでな。だが、この工房で荷車に使う金属としては二番目にいいもんだから、信頼してくれていい」
「ありがとうございます、マッケインさん」
「まあ、二日で仕上げろってのは面食らったがな……元々売り物として作っておいた荷車の仕様が近くなけりゃ、少々厳しかったぜ」
可能であればと一か八かで日程を相談したが、マッケインさんは快諾してくれた。特急料金は、加工に使う技能を使用するためのマナポーション分だけで良いとまで言って。
「できれば聞かせてくれ。一体、何をそんなに急いでるんだ?」
「ある魔物を倒すために、この荷車が必要なんです。できる限りの準備をして挑むために」
「そうか……期限つきってことだな。今回の仕様で物足りなけりゃ、またいつでも言ってくれ。時間さえあればもっともっと良くしてやれる」
マッケインさんは笑い、俺の肩を軽く叩いて言った。
「無事に帰ってきた時には、少しくらい武勇伝ってやつを聞かせてくれ」
「はい、ぜひ。よろしくお願いします、マッケインさん」
荷車の製作依頼を終えて外に出る――表に出て資料館へと歩き始めると、すでに後ろから金属を打ち鳴らすような音が響いてきていた。




