第百七十四話 雪解け
『炎天の紅楼』の二階層から一階層に抜けるとき、俺たちは神社の鳥居を思わせるような朱色に塗られた柱の間を通った。
転移する感覚とともに、風景が変化する。見上げても天辺が見えないほどの巨木が立ち並ぶ森――常に赤い木の葉が舞い散っているのにあたりに積もっていないのは、迷宮内の特異な環境によるものだろう。
「……エリーさん」
五十嵐さんが声をかけても、エリーティアは反応しない。車座の後部で、五十嵐さんに抱きかかえられたまま、虚ろな目をしている。
『猿候』に奪われた彼女の親友は生きていた。それ自体は喜ばしいことであっても、望んでいた形で再会することはできなかった。
「あの光景こそが、『猿候』が討伐されないままでいる理由のひとつなのでしょう。上位の冒険者であれば、『猿侯』を討伐すること自体は不可能ではない。しかし、捕らえられ、操られた冒険者を盾にされれば、彼らを……」
魔物ではなく、同じ探索者――人間を、倒さなくてはならない。それも、こちらを完全に敵視して自分の技能を最大限に使ってくる、一つのパーティといえる集団を。
セラフィナさんの苦い表情は、ギルドセイバーでもこの状況に手が打てないことを示している。
魔物が探索者を操ろうとする場面を、俺たちはすでに経験している。『蔓草の道化師』『誘う牧神の使い』の二体がそれに類する能力を持っていた。
『魅了』は準備していれば抵抗することができるが、『猿候』の能力については仔細がわからない。あの探索者たちがつけていた仮面に理由があるとしたら、仮面を破壊すればあるいは――と思うが、それで上手く行くのか確証が持てない。
亜人のつける仮面とは違う『猿の面』。あれが何なのか、一つだけでも取得することができれば――しかし、安全に外すことができなければ意味がない。
(エリーティアと同じように、操られた探索者を連れ戻そうとしている人がいたとして、俺たちよりも『猿候』の情報を集めていたら、あるいは……しかし、そんな人物がいたとして、これから残りの日数でその人を見つけられるのか……?)
今日を一日目として、残りは六日。特例として延長してくれるように申請することも考えるが、ただでさえ例外的に許可された『飛び級』を延長できるというのは見込みが薄い。
「後部くん、色々と考えていると思うけど、私達にも聞かせてもらえる? 何か前向きな話ができるといいんだけど……」
五十嵐さんも今回の事態の困難さを目にして、少し気落ちしてしまっているようだ。こんなときに俺一人でグルグルと考えていても、皆を不安にさせるだけだろう。
「帰ってからも皆と話をしますが、一旦ここで頭を整理させてください」
セラフィナさんと五十嵐さん、そしてテレジアが頷く――テレジアが一番不安だろうに、彼女の気丈さに救われ、同時に自分の不甲斐なさを戒める。
『猿候』が最後に使った『呪詛侵食』によって、テレジアの首の後ろにある隷属印は徐々に上書きされていく――まだ端のあたりが形を変えているだけだが、テレジアの苦痛は少なくはないはずで、その身体は常に熱を持っていた。
「二階層では、『猿候』ともう一体以外の猿型の魔物を見かけませんでした。通常の名前つきが引き連れているような魔物が居ないとは限りませんが、数が際限なく増えないため、放っておいてもスタンピードが起こらないということなんでしょうか」
「そう考えられます。この迷宮について私も多くを知りませんが、組織的に行動する魔物は、探索者側と駆け引きをすることがあります。罠を仕掛けたり、拠点を作ったりすることで、少しでも自分が討伐されるまでの時間を長らえさせようとする。中には魔物によって作られた城が迷宮の中に存在し、攻略が困難になっている場合もあります」
二階層の砦を『猿候』とその部下である魔物が築いたとしたら、ある程度の石工技術を持っていることになる――どうやって学んだのか、本能的なものなのか。
それほどの知能を持っているならば、自らが討伐されることのないように、策略を巡らせるのは必然といえる。そして『猿候』が持つ探索者を隷属させる能力は、その策略の中核を成してしまっている。
捕らえられた探索者こそが、『猿候』にとって無二の盾となっている。そして、俺達が見た探索者だけで全員ということもないのだろう。
「……どうして二階層なのかしら。三階層には別の魔物がいるなら、それがスタンピードを起こすことはないの?」
五十嵐さんに言われて思ったが、今までのスタンピードは『特定の名前つき』と、それの通常個体が起こしているようだった。『空から来る死』『ザ・カラミティ』と、討伐しにくく数が増えやすい種類の魔物だ。
「『炎天の紅楼』について、できるだけ詳しく調べてみましょう。そうすれば何か分かるかもしれない」
「五番区には資料館があります。『特別選抜探索者』の称号を所持していれば、閲覧許可は降りるでしょう」
奇数番号の区には資料館があると聞いていたが、今までは出向く時間が無かった。有効な情報が見つかるといいが――『猿候』の他者を従属させる能力について文献に載っているようなら討伐困難と言われるようなことはないと思う。
「……ごめんなさい……私……何もできないのに、また一人で……」
「……エリーティア」
エリーティアの頬に、再び涙が伝い落ちる。
こんなとき、何を言ってやれるだろう。エリーティアが無事だったからそれでいいなんて、一時の慰めにもなりはしない。
「エリーさん、貴女が一人で行ってしまったのは何か理由があるんでしょう?」
「……ルウリィの装備を……彼女を倒して、奪おうとしている人たちがいて……その人たちも、『猿候』に……っ」
「酷いことを……倒して装備を奪うなんて、『猿候』に操られている人にそんなことをしたら、カルマが上がるはずじゃないのか?」
セラフィナさんが目を伏せ、首を振る――それは、『猿候』に操られている人たちが、探索者として判定されないことを意味している。
「……ライセンスによって、彼らは魔物と判定されていました。探索者たちが『猿候』に従属した状態が、自然解除されないと見なされたのでしょう」
その現実を目の当たりにすれば、操られた探索者を救おうとした人々も、戦意を保つことは難しい。
――そうして『炎天の紅楼』は見放された。放っておいても町に脅威が及ばない、そして人の命を奪ってまで『猿候』を倒す理由を感じないという理由で。
「その『原則的に解除されない状態』を、俺たちは解除しなきゃならない。『猿候』を倒せば従属が解除されるとしたら、『猿候』と眷属の魔物だけを倒さなくてはいけない」
口に出してみても、まだ希望の光は見えない。正面からぶつかっても格上の相手と戦い、難しい条件を満たして勝つ――誰も失わずに。
「…………」
テレジアは俺の腕の中でじっと話を聞いていたが、後ろの俺の様子をうかがう素振りを見せる。
想定していなかったと言い訳はできない。テレジアが猿候の裏に回ってくれたからこそ、俺たちは無事に脱出することができた。
誰が欠けてもここまで来られていない。だからこそ、猿候に挑むとしても、『エリーティアが単独で侵入してしまったから』という状況ではなく、全員で資格を得て挑みたかった。
「エリーティア殿、貴女は一度五番区に来ていて、『白夜旅団』に所属していたことで5つ星迷宮の探索資格を得ていた。それをパーティに秘匿してでも単独行動をした理由についても、今話していただけただけで十分でしょう。しかし貴女は、とても無謀なことをしました。これまで一緒に困難を乗り越えてきたパーティを、もっと信じても良かったのではないですか……?」
「……私は……みんなが、傷つくところをもう見たくなくて……私が、我がままで、またみんなが……誰かが、いなくなったらって……」
ずっと最前線で戦い、勇敢に魔物と戦ってきたエリーティア。
時に彼女は自分の命を削るかのようにして、自分の数十倍もある巨大な魔物に挑んで、そして俺たちを助けてくれた。
――それは、もう二度と失いたくなかったからだ。
しかし、そうだとしても。エリーティアの側から見た俺たちが、あまりにも遠すぎるのだと思えて。
同時に、彼女の事情に深く立ち入ろうとせず、それを正しいとばかり思っていた自分にも心底厭気がさした。
「……私は『死の剣』……もう誰とも、本当は一緒にいちゃいけない。みんなだって、本当は私のことを怖がって……」
十分に分かっていたはずだ。
『幻翅蝶』が俺に見せた幻は、俺が最も見たくないものだった。エリーティアも彼女にとっての悪夢を見せられて、感情を露わにしていた。
そして『ザ・カラミティ』との戦いで、パーティに負傷者が出た。それを目の当たりにしたエリーティアが考えることは一つだ。
分かっていて、俺は物分かりがいいような顔をして、エリーティアを一人にした。
「……いいか、エリーティア」
「……っ」
誰からも嫌われないように、大人としてパーティのバランスを取っていく。
そんな建前ばかりでは、乗り越えられないところに俺たちは差し掛かっている。
――今さら遅いなんてことは決してない。俺はエリーティアと出会った時から今まで、一度も諦めようなんて思ったことはない。
だから、彼女をもし傷つけるとしても、俺も同じだけの傷を負うとしても、言わなくてはいけない。
「『本当』なんてものがあるとエリーティアが思っていたなら、俺たちの信頼関係は上辺だけのものだったことになる。そうさせたのは俺の責任だ。俺はエリーティアが言いたくないことがあるならそれでいいと思っていたし、いつか話してもらえればいいと思っていた。そのいつかがもう来ていてもなお、そう思い続けようとしたんだ」
「……アリヒト」
「後部くん……」
五十嵐さんは一瞬、俺を止めようか迷ったようだった。
彼女の前でも、俺は「良い社員」「良い部下」であり続けようとした。
それが正しい歯車のありかたで、今になっても完全に否定はできない。組織というものには、本音を口にしない人員が必要不可欠で、それが和を保つということでもある。
しかし自分が、そして仲間が生きるか死ぬかというときに、ただ『良い人』であろうとするのは。
――一度はそれを選んでしまった俺は、どうしようもない大馬鹿だ。
「エリーティア……その剣のこと。これまでどんなことがあったのか、全部俺に聞かせてほしい。皆の前で話してもいい、それは自分で選んでもらって構わない」
「……アトベ殿、今のエリーティア殿に、それは……」
「俺はパーティの誰もが大事だと思っています。加入した時期は関係ない、セラフィナさんにもできれば傷ついてほしくはないし、何か悩みがあれば全力で解決する方法を考える。けれどエリーティアは、まだ俺たちに話していないことの分だけ、一歩引いているように感じられる。その壁を取り払わなければ、俺たちはいずれ行き詰まります」
誰もが、心に壁を持っている。
これ以上は人に踏み込まれたくないと距離を置き、それ以上は立ち入らせない。
しかしそれは、自分からも立ち入れないということでもある。
どれだけスズナやミサキたち、他の仲間たちとエリーティアが打ち解けているように見えても、本当に笑えてはいない。
「……俺は、一人じゃ戦えない職業だ。それが傭兵斡旋所でテレジアと出会って、迷宮国でやっていけるかもしれないと手応えを掴めて。だけど俺とテレジアと五十嵐さんの三人だったら、まだここまでは来られていなかった。エリーティアの攻撃の手数の多さと自分の技能が組み合わさったとき、本当に感動したんだ。こんなことが起こるんだって。スズナやミサキも加わって、俺たちは立ち止まらずに進んでいけるんだって」
エリーティアの目はまだ虚ろなままだ。けれどその耳に届いていると信じて、俺は言葉を続ける。
「どんな強敵でも、倒す方法は絶対にある。その条件を満たすために、誰一人欠けてはいけない。俺たちはエリーティアに何度も助けられてきた。伝わるまで、何度でも繰り返し言わせてもらう。テレジアはエリーティアを助けたいと思ったからこそ、あの危険に飛び込んでいった。俺にできなかったことを、テレジアはしてくれた……それはもう理屈じゃなくて、そうしたいと思ったからそうした。単純にそれだけのことなんだ」
「……テレジアまで……猿候に、操られてしまったら……」
「絶対にそうはさせない。でも、そのためには皆で強くなる必要がある。ここまで来るのは早かったと痛感してはいる、だが遅いよりはずっといい」
ずっとルウリィのことを想って、彼女がどんな境遇にあるかを考えて、エリーティアは戦い続けてきた。
魔物に囚われた探索者が果たして生きていられるのか。その不安を誰より抱いていながら、誰よりも親友の生存を信じてここまで来た。
俺が、テレジアを亜人の姿から元に戻せると信じているのと同じくらいに。
「……ルウリィは生きてるんだ、エリーティア。エリーティアが勇気を出したから、彼女の姿を見られたんだよ」
「……あ……」
エリーティアの瞳が揺れた。
「だから、俺たちと最後まで走ろう。ルウリィを助けるまでも、助けてからも、ずっとだ。俺たちは二度と置いていかれないようにする。もう逃げられないぞ、エリーティア」
「……っ」
光が戻った瞳から、もう一度涙が溢れ出した。エリーティアは顔を覆って、ぐしゃぐしゃに髪を振り乱して、声を上げて泣いた。
「……うわぁぁぁぁぁぁんっ……!」
五十嵐さんは泣きじゃくるエリーティアをただ抱きしめていた。
今だけは――けれどまだ、俺にはその資格はない。
「…………」
「……テレジア?」
腕の中にいたテレジアが身体を起こす。アルフェッカから降りるのかと思ったが、そうではなかった。
彼女は俺の頭に手を置いて、撫でて――そして、俺の頬に伝っているものに触れた。
「…………」
テレジアの唇が動いたが、音は紡がれなかった。
俺の頬から涙を拭った指を、彼女はあろうことか、自分の唇に触れさせた。
彼女が何を思ってそうしたのかは分からない。俺は気恥ずかしさも何もかもを飲み込んで、ただテレジアの蜥蜴のマスクに触れて、しばらく何も言わずにいた。




