第百五十七話 迷宮の声
朦朧とした意識の中で、俺は白い天井を見ていた。
ずっと思い出すことはなかった。忘れていた――いや、思い出せなくなっていただけだ。
『――ご親戚は、どうして引き取ろうとしなかったのかしら』
『やむを得ない事情だよ。母親の実家が資産家で、父親と駆け落ちをしたって話だから』
『それで小さな子を残して……さぞ無念だったでしょうね』
子供の頃に親を亡くし、俺は一人になった。
自分では『天涯孤独』と思うことにしたが、それは本当のことじゃない。
親族の誰も俺を引き取らなかった。実際に引き取られて、親族の間をたらい回しにされるようなことが無かっただけ、良かったのかもしれない。
しかし、時折感じることがあった。どれほど親身に接してくれても、施設の大人たちは、時折内心を態度に出した。
――飲み込まれた言葉は、こんなものではないかと想像することはあった。
『この子を病院に連れていくために、急いでいて事故に遭ったんですってね』
『相手の運転手は軽傷で、有人君もほとんど無傷で。心的外傷っていうけど、目覚めたらどんな気持ちになるでしょうね』
聞きたくない――聞いたとしても、俺はずっと聞こえないふりをしてきた。
大人になり、社会の歯車に組み込まれて、無心に働いていれば、俺はその感覚を忘れられた。やっと思い出さなくなっていたのに、傷は容赦なく抉られる。
『――可哀想』
『生まれてこなければ良かったのにね。そうしたら、この子の両親も……』
分かっている。
施設の先生たちは、そんなことを俺に一度も言ったりはしなかった。
こんな幻影を見せられて、傷ついたような気分になるのは、俺が弱いからだ。
親を失った原因を、俺が作ってしまった。あの日急いで車を出さなければ、俺は一人にならずに済んだかもしれなかった。
――それでも。
あのとき、大破した車の後部座席で、俺が最後に見たものは。
◆現在の状況◆
・『☆憐憫の幻翅蝶』が『幽閉の繭』を発動 →対象:『アリヒト』
空から白いものが降り注いでくる――それは、『幻翅蝶』の吐いた糸だった。シオンを巻き込まないようにと飛び退いたところで、俺は糸に絡め取られる。
五十嵐さんの声が聞こえる。シオンの吠え声も――だが俺は近づくなと叫ぶしかない。皆を巻き込むわけにはいかない、それに。
『幻翅蝶』のやり方が、俺には全く受け入れられない。罪の意識で人を苛み、そして取り込もうとすることが『中立』だなんて、そんな詭弁は認めない。
(こうしてシロネを取り込んだのか……そういうことなんだな)
『幻翅蝶』は明確に、探索者を脱落させようという敵意を持っている。カルマに応じて打撃を与える技能で命を落とす者がいてもおかしくない。
シロネも同じ道を辿ったなら、この糸に囚われることで見えるものもあると思った――そして俺は、実際に『それ』を見た。
繭に囚われ始めた俺を取り込もうと、空間に切れ目が生まれる。その向こうに見えたものは、糸に巻き取られ、身体の自由を奪われたシロネだった。
『――生まれてこなければ良かったのなら、もう一度生まれ変わればいい。迷宮に飲み込まれて、迷宮から生まれたものとして』
声は俺を責めるものではなくなっていた。糸に巻き取られ、全てを放棄してしまえば楽になれるかのような、優しい声。
それは俺がもう忘れてしまった、母親の声にも似ていて――けれど、全く違っている。
「俺が聞いてもいない言葉を……そんな声で、聞かせるな……!」
俺を巻き取ろうとする白い糸も、青い蝶の狂騒も止まらない――だが、聞こえてくる声は胸の奥にまでは届かない。
「罪の意識も、償いたいという思いも、他の誰かに決められるものじゃない……!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』パーティの信頼度ボーナス → 『ギルティフィール』を無効化
「後部くんっ……!」
「アリヒト……!」
罪悪感で動けなくなるなんてことが、決してあってはならない。俺たちはパーティだ――一人が動けなくなれば、全体に関わることになる。
(ここまで追い詰められなければ使えなかった……シロネを、向こう側から引き戻す。今の俺なら、それができる……!)
ここに来るまでに、何度も窮地に立たされた。迷宮を一人で駆け抜け、魔物に囲まれ、『三面の泥巨人』と戦い、『幻翅蝶』の攻撃で瀕死に追い込まれた。
確認するまでもないほどに、俺の士気は上がっている。糸を引きちぎってでも動く力を得るための唯一の方法――それは。
「――『全体相互支援』!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『全体相互支援』を発動 制限時間120秒
・パーティメンバー個人の強化技能が全員に拡張
・パーティ全体が『群狼の構え』により強化
・パーティ全体が『剣の極意2』により強化
・パーティ全体が『包丁捌き』により強化
・パーティ全体が『傲慢なる戴冠』により強化
アルフェッカの持つ『傲慢なる戴冠』――技能の中断を阻止する特性が、『幻翅蝶』の吐いた糸の束縛に拮抗し――そして、打ち勝つ。
「――うぉぉぉぉぉっ!!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『バインシュート』を発動
・『シロネ』が『蔓草』によって『拘束』
蔓草でシロネを巻取り、一気に引っ張り出す――空間の裂け目が閉じてしまう前に、糸で絡め取られたシロネを辛うじて引き出した。
『……全く、無茶をする。咄嗟の機転で、異空間に囚われていた者を救い出すとは』
「ああ……アルフェッカ、シロネを保護していてくれ。あの蝶は倒さなくちゃならない。みんなの力を貸してくれ」
地面に刺さった剣に縋っているエリーティアに近づく。彼女の瞳からは涙がこぼれていた。
あの蝶が俺たちの罪を哀れんでいるのだとしても、生まれ変われば楽になれるとは思わない。だから俺は、エリーティアに右手を差し出す。
「……私は……旅団を出て、あなたたちと出会う前に、『死の剣』と呼ばれるようなことをした。本当は……仲間を集めたいなんて、言う資格は……」
『――資格なら、あります!』
◆現在の状況◆
・スズナが『月読』を発動 → 成功
・秘匿された『☆憐憫の幻翅蝶』の技能『咎人の檻』を看破
――霧を貫くような、凛とした声だった。
霧に遮られていた月光が、『幻翅蝶』に降り注ぐ――そして、蝶の翅から放たれる鱗粉が、この霧に何かの力を持たせていることが分かる。
(青い蝶と遭遇したときには、すでに俺たちは『檻』の中にいた……エリーティアは攻撃を当てなくてもカルマを上昇させられた。それこそが、この状況が不自然に作られたものだと示していたんだ……!)
◆看破した技能の詳細◆
咎人の檻:『鱗粉』が届く範囲内に地形効果『咎人』を発生させる。探索者の魔物に対するすべての敵対行為でカルマが上昇する。使用者が戦闘不能になるまで地形からの脱出は封じられる。
(ライセンスは、探索者の行為を判定してカルマを上昇させる……そこに魔物が関与できる。ありえないことのように思えるが、実際にそうなっている……『幻翅蝶』による『法の歪曲』が起こってしまっていたんだ)
『スズちゃんっ、この霧の中にお兄ちゃんたちがいるんだよねっ……!?』
『うん……外から私たちができることは、今はこれくらいしか……アリヒトさん、エリーティアさん、負けないでください! 私たちもここにいます!』
ミサキとスズナ――二人だけじゃない。二人をここまで連れてきてくれた誰かも一緒にいるようだ。
『契約者よ、道は開けるか。私の力は必要か』
「ああ……大丈夫だ。道は見えてる……敵は『ルールの外』にいるわけじゃない。『ルールを捻じ曲げていた』だけだ」
「後部くん、それってどういうこと……?」
「五十嵐さん、『雪国の肌』の技能を取ってましたよね。他に氷属性の技能は新しく出てきてますか?」
「え、ええ……『囮人形』の他に『エーテルアイス』を取らないといけないけど、スキルレベル2の『フロストアーマー』っていう技能があるわね」
◆キョウカの新規技能◆
スキルレベル2
・フロストアーマー:氷属性で打撃を反射する。探索者が作り出した人形、ゴーレムなどにも効果が付与される。
五十嵐さんは雷、氷の系統の技能を覚えていく――チャンスが何度も来るか分からない以上は、使える攻撃手段は全て使いたい。士気解放の制限時間がどういうわけか伸びているので、指示を出し終えてからでも効果は多少続くだろう。その間に有効打を入れられれば、形勢はこちらに傾くはずだ。
「五十嵐さん、スキルポイントを一気に使うことになりますが、『フロストアーマー』を取ってもらっていいですか。こちらから能動的に攻撃せず、敵から仕掛けさせる形なら、カルマの上昇は防げるはずです」
「もし上がっちゃっても、その時は覚悟しておくわよ。後部くんもエリーさんも同じ痛みを味わったのなら、私も怖がっていられないわ」
「……アリヒト、私は何をすればいい?」
メリッサは戦闘に加われていないことを気にかけていたようで、今しかないというように聞いてくる。クールに見える彼女だが、その瞳には確かな闘志が宿っていた。
「もし『咎人の檻』が解除されることがあったら、部位破壊を狙ってくれ。そうじゃない場合は無理はしちゃいけない、致命的なカウンターが来るからな」
「……わかった」
一度死地に飛び込み、見えたものがある――それは、この場を埋め尽くした『青い蝶』の弱点。
『青い蝶』を対象に攻撃を仕掛ければカルマが上がり、『贖罪の痛覚』で大きな打撃を受ける。それなら――こちらも詭弁に乗るのは今回だけにしておきたいが、一つだけ『カルマを上げずに青い蝶の動きを封じる』方法がある。
敵が地形効果を利用して一方的にこちらのカルマを上げてきていたなら、俺たちも地形効果を利用する。蝶の弱点を突く地形効果を生み出す――それができれば、カルマを上げずに有利な状況を作ることができるはずだ。
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次回は10月4日(金曜日)更新を予定しています。




