第百五十六話 追憶
「エリーさん、落ち着いて! エリーさんっ……!」
エリーティアはアルフェッカの影に隠れていることができずに、剣を握って飛び出そうとする。五十嵐さんが後ろから組み付き、メリッサも協力して辛うじて止めてくれたが、それでもエリーティアは周囲を飛び回る蝶を見ている。
「エリーティア、一体……」
俺は彼女の表情を見て息を飲んだ。そこにあったのは敵意でも、怒りでもない。
――エリーティアは唇を震わせて、怯えていた。
「……そんなこと……アリヒトも、スズナも、私のこと、怖がったりなんて……」
ライセンスには『青い蝶』が『ギルティフィール』という技能を使ったと表示されている。エリーティアに何が起きたのかまでは表示されていない――酷なことだと分かっているが、彼女に聞く以外にはない。
「俺はエリーティアを怖いと思ったことは一度もないよ。これから変わるなんていうことも絶対ない」
「……分かってる……でも、本当は……」
エリーティアは俺の方を見ようとせず、五十嵐さんに抱きとめられたまま、俺に背を向けている。
「言葉だけじゃ難しいのかもしれないが、信じてほしい。俺はエリーティアを恐れたりしない。もし嘘をついたら、その時は……」
『その先は言わぬほうがいい。契約者よ、ここに至るまでの経緯を注意深く考慮せよ』
車輪の化身であるアルフェッカの幻像が、輿の上に現れる――そして、俺に忠告する。
(経緯……エリーティアはあの蝶に何かをされて、攻撃を仕掛けた。それが中立の敵に攻撃したということになって、カルマが上がった……)
「あの蝶は、探索者がカルマを上げるように誘っている……おそらく、カルマに関わる能力を持っているんだろう」
「それなら、どうしてエリーさんだけが……?」
他のメンバーは、あの蝶に自分から攻撃を仕掛けてはいない。蝶がなぜエリーティアだけを標的にして、俺たちに『ギルティフィール』を使わないのか――偶然か、それとも確たる理由があるのか。
「……私が、罪を犯したから。それを、償っていないから……償わずにカルマを相殺しただけじゃ、まだ何も……っ」
「エリーティア、落ち着いて。そのままだと、命取りになる」
メリッサの声はいつも通り淡々としているが、はっきりと危惧を言葉にする。それでもエリーティアはまだ青い蝶に意識を囚われていた。
「……敵が何かを仕掛けてくる前に、理解しておかないといけない。エリーティア……あの青い蝶は『ギルティフィール』という技能を使ってきた。エリーティアに一体何が起きたんだ?」
「辛いなら話さなくてもいい……でも、話してくれたら全力で力になるわ。私なんかじゃ力不足かもしれないけど」
五十嵐さんの語りかけに応じて、エリーティアは剣を握る手から力を抜く。そして俺の方を振り返らないままに、小さな声で言った。
「……アリヒトも、スズナも……みんな、本当は私のことを怖がってるって……私のことが怖いから、仕方なく一緒にいるだけだって……みんなの声がして……っ」
――そんなことを聞かされて、冷静でいられる人間がいるだろうか。
青い蝶はエリーティアに技能を使ったにも拘らず、カルマは上がらなかった。グレイがやったように『トリックスター』で技能の発動を隠蔽したというのとは違う。
「……罪悪感を刺激しただけってことか。それでカルマが上がらないなんて、詭弁もいいところだ」
「後部くん……」
誰だってそうだ。人間関係の中で、他人の一つの側面しか見えない中で、それでも信じようとするから生きていける。
俺たちが本心ではエリーティアを恐れている。そんな弱みに付け込んで、攻撃させて――それを業だと言うのなら。
「いいだろう……それがルールなら付き合ってやる」
カルマは迷宮国の探索者が遵守する法を体現するものだ。上がってしまえばギルドセイバーに拘束され、何らかの罰則を受ける。
シロネはカルマが上がった状態であの蝶に遭遇し、そして足跡を絶った。つまり、カルマが上がった状態のエリーティアが戦うのは危険だ。この場を一度離れることをまず考えるべきだろう――しかし。
『この霧の中からは、何らかの方法で霧を解除するまでは逃れられぬ。そして、私は車輪を動かすことができぬ……動けばあの蝶に触れることになる』
「ああ、ここは俺たちで何とかする。あの大きな蝶は『中立』とは表示されてなかったから、攻撃はできないわけじゃない……」
「――エリーさんっ!?」
◆現在の状況◆
・『エリーティア』が『?青い蝶W』に攻撃
アルフェッカの陰から飛び出し、エリーティアが青い蝶に斬りかかろうとする――もう、これ以上カルマを上げさせるわけにはいかない。
「――エリーティア、誘いに乗るな!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『支援高揚1』を発動 →『エリーティア』の士気が13上昇
・『エリーティア』が士気を消費して『混迷』から回復
「っ……アリヒト……」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『支援回復1』を発動 →『エリーティア』の体力が全快
少しでも気付けになればと『支援回復1』を発動する――士気消費で踏みとどまれたのは幸いだったが、それだけでなく、少しでもエリーティアを安心させたかった。
「俺も皆も、絶対にエリーティアを傷つけない。信じてくれ……!」
「……私……私も、二度と疑わない……っ、でも……」
「――後部くん、なんとかしてあの蝶を倒さないと……そうじゃなきゃ、シロネさんを連れ戻すどころか、私たちも……っ!」
『憐憫の幻翅蝶』は中立とは表示されていない。しかし攻撃したときに、それを無視してカルマが上がるのではないかという疑念が、今さらになって拭いきれなくなる。
(カルマが上がれば何が起こる……それが致命的なものだとしたら、賭けに出ることもできない。奴に攻撃を仕掛けてもいいと確信できなければ……それとも、何かあるのか? カルマを上げずに攻撃する方法が、何か……っ)
「――後部くん、あの大きな蝶が何か……っ!」
◆現在の状況◆
・『☆憐憫の幻翅蝶』が『透明な触腕』を発動 →対象:『エリーティア』
月光を浴びながら、空に浮かぶ『幻翅蝶』の翅が淡く光を放つ。次の瞬間、俺は言いようのない悪寒を覚えて叫んでいた。
「――エリーティア、逃げろっ!」
「っ……!?」
エリーティアは俺の声が届くと同時に、後ろに飛ぼうとする――だが、間に合わない。
青い蝶の群れがエリーティアから離れ、目に見えない暴力が彼女に襲いかかる。
「ワォォーーーーンッ!!」
「っ……シオン……!」
◆現在の状況◆
・『シオン』が『カバーリング』を発動 →対象:『エリーティア』
・『アリヒト』が『支援防御1』を発動 →対象:『シオン』
・『透明な触腕』が『シオン』に命中 『ハウンド・レザーベスト』が破損
「キャゥンッ……!!」
「シオンちゃんっ……!」
『支援防御』でダメージを軽減しきれず、シオンが弾き飛ばされる――体力が全体の三割も持っていかれている。胴につけていた防具まで、一部が壊れてしまっていた。
あの高度から地上に攻撃ができる上に、この霧の中ではほとんど視認できない――『鷹の眼』で辛うじて見えたのは、透き通る巨大な腕のような輪郭だけだ。
「グルルッ……!」
「シオン、退けっ! 皆も気をつけろ、あの蝶は遠距離でも攻撃してくる上に、ほとんど見えない……!」
「敵だけ攻撃してきて、こっちは何もできないの……? そんなのルール違反よ……!」
五十嵐さんが憤る――俺も全く同じ気持ちだ。相手が何をしてもカルマが上がらず、俺たちは上がるとしたら、『幻翅蝶』を倒せたとしてもメンバーのカルマが上昇した状態になってしまう。
しかしライセンスの表示に目を滑らせ、俺は理解する。
◆現在の状況◆
・『☆憐憫の幻翅蝶』のカルマが上昇
・『☆憐憫の幻翅蝶』が『無辜の静謐』を発動 →地形効果:徐々にカルマが低下
エリーティアを狙った攻撃をシオンが『カバーリング』したことで、『幻翅蝶』のカルマが上昇した。その直後、『幻翅蝶』の様子が再び変わる――高周波のような音を発して、それが次第に小さくなって聞こえなくなる。
「……何が起きてるの?」
「敵もシオンに攻撃した時にカルマが上がったんです。それを下げようとしてる」
「カルマが上がったままだと、あの蝶にも不都合がある……?」
メリッサの言う通りなら、『幻翅蝶』のカルマを上昇させることで行動を封じることができるかもしれない。
エリーティアの上昇したカルマも地形効果で下がるとしたら、青い蝶は『ギルティフィール』を使わなくなる――とはいかなかった。
「……違う……アリヒトは、私のことを怖がってなんていない……違うっ……」
◆現在の状況◆
・『?青い蝶D』が『ギルティフィール』を発動 →対象:『エリーティア』
――エリーティアのカルマが下がりきっていないのか、それとも『ギルティフィール』はカルマに関係がないのか。
(……そんなことは今はいい。俺がいましなくちゃならないことは……!)
あの高度に浮かぶ『幻翅蝶』に攻撃を届かせる手段は、一つしかない。リスクは大きいが、少しでも早くエリーティアを助けなくてはならない――だから。
「みんな、悪い……少しだけ無茶をやる。あの蝶が高度を下げたら、そこを狙ってくれ……!」
「――後部くんっ!」
「っ……!!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『バックスタンド』を発動 →対象:『☆憐憫の幻翅蝶』
意識が一瞬途切れて、風景が変化する――重力から投げ出され、俺は『幻翅蝶』の裏を取っていた。
(ムラクモは……今は抜けないか……!)
『マスターに警告する。今回の魔物に対して、大きな打撃を与えるにはリスクが伴う』
ムラクモを抜くことができる時は限られている――彼女自身が勧めないときも、力を借りることはできないということだ。
それでも俺は、独力で可能な範囲で最大のダメージを与えに行かなければならない。少しでも『幻翅蝶』の高度を下げるために。
「――落ちろっ!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『フォースシュート・フリーズ』を発動
・『☆憐憫の幻翅蝶』が『フレアディビジョン』を発動 →『アリヒト』の攻撃対象変更
・『フォースシュート・フリーズ』が『?青い蝶』3体に命中 弱点攻撃 凍結
・『?青い蝶』を3体討伐 『アリヒト』のカルマが上昇
「くっ……!」
『幻翅蝶』の身体が揺らめくようにして消え、移動する――放たれた氷の魔力弾は、『幻翅蝶』の身代わりにでもなったかのように、青い蝶たちを射抜いてしまう。
(狙いを他にそらす技……そこまでしてカルマを上げさせるのか……!)
しかしこの高度に上がった以上、タダで地上に降りるわけにはいかない――『バックスタンド』は俺の持つ技能の中でも魔力の消費が大きく、無駄撃ちはできないからだ。
(入手したばかりだが、魔法銃で『停滞石』を撃ち込むか……いや、また狙いをそらされる可能性がある……ダメだ、今は打つ手がない……!)
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『八艘飛び』を発動
俺は『幻翅蝶』から距離を取るように空中で跳躍する。落下の寸前に再度跳躍すれば、無傷で降りられるはずだ。
――だが、俺は重力に身を任せて落下しながら。血の気が引くような感覚の中で、『幻翅蝶』が碧の輝きを纏うさまを見た。
◆現在の状況◆
・『☆憐憫の幻翅蝶』が『贖罪の痛覚』を発動 →対象:『アリヒト』『エリーティア』
・『アリヒト』『エリーティア』がカルマに応じたダメージ カルマが減少
「うぐぁっ……!」
「――あぁぁっ……!!」
全身が引き裂かれるような痛みが襲う――俺だけではなく、地上にいるエリーティアの悲鳴も聞こえた。
(まずい、意識が……このままだと地面に叩きつけられる……!)
「――ワォォンッ!!」
こうやってシオンに救われるのは何度目か――飛び込んできたシオンが俺を受け止め、辛うじて地面への衝突を免れる。
◆現在の状況◆
・『★修道士のアンク』の効果が発動 →致命打撃を回避 瀕死状態で経験追加
ペンダントのようにして首にぶらさげていたお守り――『修道士のアンク』が、じんわりと熱を放っているように感じる。俺はどうやら、シオンとこのお守りによってギリギリのところで救われたようだった。
(だが、あと一撃でも喰らえば……確率で発動する『アンク』の効果が、二度も続けて効いてくれるとは思えない)
「――後部くん、返事してっ! 後部くんっ……!」
「っ……だ、大丈夫です……っ、生きてますよ、五十嵐さん……!」
「……全然大丈夫に見えなかった。心臓が止まるかと……」
「アリヒト、無理せずに一旦引いてっ……あの魔物に近づいちゃ駄目っ……!」
エリーティアの方が俺よりもダメージが少ない――体力の上限を考えれば、エリーティアは俺よりかなり多いことになるが、それにしても瀕死になった俺と比べるとダメージが浅い。
それは『青い蝶』3体を倒してしまった俺の方が、攻撃を仕掛けようとしただけのエリーティアよりカルマの上昇が大きいということだ。
(『贖罪の痛覚』でダメージを受けると同時に、カルマは低下した……だが、俺の予想通りなら……)
「――アリヒト、蝶がっ……蝶から離れて、早くっ……!」
青い蝶が、仲間を傷つけた俺を責めさいなむように集まってくる。
「ガルルッ……!」
「シオン、待て! 攻撃はしちゃダメだ!」
『ビースティクロウ』に装着した『火柘榴石』の発動を、シオンはすんでのところで踏みとどまる。これでシオンのカルマも上がってしまうと、さらに事態は混乱することになる。
しかし『青い蝶』に手が出せないということは、今の『カルマが上昇したことのある』状態になった俺が、蝶の技能の標的になることを意味していた。
◆現在の状況◆
・『?青い蝶』が『ギルティフィール』を発動 →対象:『アリヒト』
耳を澄ましても聞き取れないほどの蝶の羽ばたきが、誰かの声のように聞こえてくる。
懐かしい――いや、それは違う。
古い記憶に残った声に似たその響きは、意識の泉に生まれたさざ波を、際限なく大きくする。




