第百十八話 同盟の瓦解
巨大蟹はセラフィナさんに鋏を押し返され、じり、と後ろに後退する。跳ね返された鋏の質量に引きずられたのだ――あまりにも大きすぎるがゆえに、自身でも鋏の重さをコントロールすることができていない。
だが、重量で自滅するようなこともない。巨大蟹の関節は軋みを上げるが、砂地に爪を立てるようにして持ちこたえると、反撃を繰り出す態勢に移る。
◆現在の状況◆
・『★無慈悲なる断頭台』が『ギロチン』をチャージ開始
・『セラフィナ』が『不動の呼吸』を発動 →カウンター確率が上昇
・『セラフィナ』が『仁王立ち』を発動 →『セラフィナ』に対するノックバックが無効化
鋏がゆっくりと振り上げられる――一度目の攻撃とは違う、研ぎ澄まされた純粋な殺気。それを前にしても、セラフィナさんは揺らがなかった。
「来い……私はここから決して動かない……!」
セラフィナさんのレベルは巨大蟹より3上回っている――それでも、鋏の一撃は彼女の防御力を上回っていた。
巨大蟹の全身から、黒い魔力のようなものが立ち上る。それが鋏を完全に覆う前に、俺はすぐ近くから囁きかけるような声を聞いた。
声が聞こえるのは――背負っている刀。ムラクモが、俺に語りかけてきている。
『――恨みの刃では、私に傷をつけることはできない。マスター、私の名を呼ぶがいい』
『私も支援に加わる。私の腕は修復できても、貴方には替えが効かない』
その頼もしい言葉を、今は信じる以外にない。俺は刀に手をかけ、そして技能を発動する。
「行くぞ……っ、アリアドネ、ムラクモッ!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『バックスタンド』を発動 →対象:『セラフィナ』
「――セラフィナさん、加勢します!」
「っ……了解しましたっ……!!」
驚くよりも先にすることがある。その迷いない判断に感謝しながら、俺はセラフィナさんの前方に、二つの機械の腕が現れるところを見ていた。
◆現在の状況◆
・『アリヒト』の『支援防御1』が発動 →対象:セラフィナ
・『アリヒト』が『機神アリアドネ』に一時支援要請 →対象:セラフィナ
・『機神アリアドネ』が『ガードアーム』を発動
・『セラフィナ』が『オーラシールド』を発動
・『★無慈悲なる断頭台』が『ギロチン』を発動 →『ガードアーム』により威力軽減
魔力を纏った鋏が、全く空気の抵抗を感じさせず、視認するのがやっとの速度で振り下ろされる――それを二つの『ガードアーム』は寸分狂わぬ精緻さで挟むように受け止め、威力を減殺する。
「受け……られるっ……はぁぁぁっ……!!」
◆現在の状況◆
・『セラフィナ』が『シールドパリィ』を発動 →『ギロチン』を無効化 『★無慈悲なる断頭台』が一時行動停止
セラフィナさんの技能で、巨大蟹は完全に無防備な姿をさらす――しかし、これで逃げては追撃を受けることになる。
『――ガードアームが破損。パーティに撤退を勧告する』
「すまない……だが、この一撃だけは……!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『殿軍の将』を発動 →パーティの人数分ステータスが上昇
・『アリヒト』が『流星突き』を発動
その技を繰り出す瞬間、俺はムラクモに後ろから手を添えられているような、そんな感覚を覚える。自分の身体が自分のものでなくなり、『星機剣』と一体化する――。
◆現在の状況◆
・『★無慈悲なる断頭台』の部位破損 →攻撃力低下 防御力低下
振り下ろされた鋏が纏う魔力が消えた瞬間、突きを繰り出すと同時にムラクモは俺の手を離れ、紫の光を纏いながら鋏に突き刺さり、大きな亀裂を入れた。
「……グワララララララ……!!」
スズナの矢が命中したときと同じように、巨大蟹が声を出す――そして俺は気づく。スズナの矢は巨大蟹の口の端に突き立っており、そこも弱点の一つなのだと。
「何という……あの強固な甲殻に、ヒビを……」
「セラフィナさん、今のうちに……っ!」
呆然としているセラフィナさんに声をかけ、俺は彼女と共に退く。
「――アリヒトッ、まだ後ろに……っ!」
(っ……なんていう執念だ……!)
巨大蟹は巨大な鋏を振り上げたまま、なりふり構わずに追いかけてくる。その動きに呼応するように、生き残っていた『サンドシザーズ』までもが鋏を振り上げている。
だが俺たちは、飛び込むようにして岩壁の間の通り道に逃げ込む。ようやく追跡をやめた巨大蟹は、その目で俺たちを見ていたが、それ以上追いかけてくることはなかった。
『ソウルテンタクル』で捕らえられたロランドさんの魂――その輝きはまだ失われていない。しかし、魂と切り離された身体がどれだけ持つのかは分からない。
「ロランド……ッ、ロランド、返事をして……っ!」
「――ダニエラさんっ、駄目っ! そんなに取り乱したら、お腹のお子さんが……っ」
「……いやぁぁぁっ……!!」
先に脱出していたシオン――その背中に乗せられたロランドさんを見て、ダニエラさんは仲間の女性を振り切って取りすがる。
周囲を見回すと、少し離れた場所にグレイの姿があった。『帰還の巻物』を使って脱出したあと、様子を見るために戻ってきたのだろう。
しかし彼は仲間に、そしてダニエラさんに声をかけることもなく、俺に見られていることに気づくと口の端を歪めて笑い、その場に背を向ける。
追いかけて問い詰める気には、今はなれなかった。グレイの存在に気づいているのは俺だけで、他には誰も注意を向けられていなかった。
誰も言葉を発することができない。無事に逃げることができた『同盟』のメンバーも、全員が自失の状態にあった。
俺はシオンに近づき、ロランドさんを見た。
彼は眠っているかのように見える。呼吸の感覚が非常に長く、生きてはいても肌は青ざめ、眠りから覚める気配はない。
「……彼を、医療所に運びます。アトベ殿、ご協力を頂き、本当にありがとうございました。アデリーヌは捕獲していた『アラクネメイジ』を、牧場に運ぶ手配をしたはずです。後ほど報告に上がるよう伝えさせていただきます」
「セラフィナさん……あの魔物は……」
砂浜を我が物とするかのように、巨大蟹はこちらに背を向ける――そしてある程度進んでいたところで、ふっと姿が見えなくなった。
『名前つき』は、最初に遭遇した相手を狙い続ける。ロランドさんのパーティのメンバーでなければ、もう一度襲ってくることはない――しかし一度交戦した俺たちも、敵に覚えられている可能性はある。
「あの魔物は、極めて特殊な条件下で出現しました。通常のレベル8の『名前つき』と比較しても、持っている能力は非常に危険です。今回は一度しか使いませんでしたが、理論上はゴーレムを作る魔法で、『ゴーストシザーズ』が狩られた数だけゴーレムを作ることができる可能性がある……そうなれば、私たちギルドセイバー部隊でも討伐は困難です」
しかし、出現した魔物を倒さないままで放置すればいずれスタンピードが起こる。それはセラフィナさんも分かっていて、無念そうに言葉を続けた。
「ギルドセイバー本部に、応援を要請します。あの魔物をこのまま放置しておくわけにはいきません」
「……その応援は、何日で来られるんでしょうか」
「早くて三日……長くかかれば、一週間ほどになります。本来、『名前つき』は遭遇したパーティが討伐することを推奨されています。それぞれの地区の安全管理は、該当地区の探索者に委ねられている……そのため、スタンピードが起きてしまった後以外は、応援は急務とされていないのです」
――それでは、どうしても勝てない『名前つき』に遭遇したとき、探索者は逃げるしかなくなる。そしてスタンピードが起こり、多くの人が巻き込まれる。
ギルドセイバーは、探索者を保護することを主目的とした組織ではない。探索者と付かず離れずの距離を保ち、監視し、秩序を維持するための集団ということなのか――しかしセラフィナさんは、自ら戦闘に加わってでも、俺たちを助けようとしてくれた。
「『同盟』のリーダー……ロランド・ヴォルンは、自分たちの選択によって『名前つき』を出現させ、そして戦いを挑み、敗れました。これは悲劇ではなく、迷宮国のどこでも起きていることなのです。アトベ殿、それはどうかご理解ください」
迷宮に入ってきたセラフィナさんの部下たちが、ロランドさん、ダニエラさんと一緒に転移していく――おそらく、医療所に送ったのだろう。
残された同盟のメンバーはようやく動き出すと、何かを話し合い始める。それは、ロランドさんが居なくなった後の今後のことのようだった。
「あなたたち、何か一言くらい……っ」
「……すまない、今はみんな話ができる状態じゃない。あんたたちには、助けてもらって礼を言う……狩り場を独占していたことも、済まなかった」
彼らの心は、折れかけている――自分たちの行為がこの結果を招いたと自覚しているのなら、それは無理もない話だった。
「アリヒト……一度、外に出ましょう」
「……済まない。俺の、判断は……」
「……もうすぐお子さんが生まれるのに、お父さんが……そんなこと……」
起きてほしくはなかった。そこまで言うことはできず、五十嵐さんは震えるような息をして、俺に背を向けた。
俺は『同盟』がしていることに反感を持っていたし、今でも彼らのしたことには同情の余地はない。
何より俺は、仲間の安全を優先するべきだった。ミサキとスズナが来てくれていなければ、脱出までの時間は稼げなかった――だが彼女たちは、あの蟹の攻撃を受ければ無事ではいられなかっただろう。
リーダーとして正しくない判断だった。謝って済むことでもない――そう思っていると、頬を誰かにつままれた。
「っ……い、五十嵐さん……?」
「……後部くんの気持ちは分かるけど、何より自分を大切にしてって言ってるのに。私は『イベイドステップ』を試したいと思ってたんだから」
「い、いや……あんな強力な魔物の攻撃を、連続で回避するようなことは危険です。できればもっと安全な魔物で……」
「安全な魔物なんていないですよ? お兄ちゃんが後ろにいてくれたら、ズババーン! ってできたりしますけど」
「アリヒトさんの判断は、普通はできないことだと思います……でも、間違ってはいないと思います。同じように迷宮国に転移した人たちなら、一人でも多く生きていてほしいですから」
スズナの言う通り、普通はできない――いや、してはいけないことだと思う。何よりも大切なのは、仲間と無事に先へと進むことなのだから。
「……私も、バカなことをしてるって思った。でも、見捨てられなかった……だから、アリヒトと同じなのよ。謝るなら、私も謝らないと」
「バウッ」
「…………」
シオンが小さく吠えて、尻尾をパタパタと振っている。テレジアは俺の腕に触れ、なだめるように撫でてくれていた。
「それで……後部くんは、まだ終わってないって思ってるんでしょう?」
五十嵐さんが言う――俺の顔を見ればわかる、というように。
「……ロランドさんの魂が、捕らえられてしまっている。その状態が続けば、ロランドさんは本当に死んでしまうと思います。ですが……」
「私たちが助ける義理はない……そう言うのは簡単だけど。最後に一矢報いることができたんだから、準備をすればきっと勝てる。それは、無謀とは言わないわ」
エリーティアの瞳には闘志が燃えている。そう――『名前つき』を3体討伐するという昇格条件を、『無慈悲なる断頭台』を倒すことができれば満たすことができる。
一度戦った相手ならば、対策を打つことができる。万全を期すことができなければ、再び挑むべきではない――それが、何よりの前提条件だ。
「私たちも、やられてばかりじゃ悔しいしね。まだ、全部の攻撃方法を使えてないし……」
「私も活躍できる気が凄くしてるんですよねー……怖いような、ここでいいところを見せておきたいような……」
「ミサキちゃん、何か思いついたの?」
あれだけの強敵を前にして、仲間たちはどう勝つかを考えている。俺が守るなんて、おこがましい考えだ――今さらに気付かされ、自省を促される。
「アリヒトの考えは? あなたが作戦を組み立ててくれたら、それが一番確実だと思うわ」
「……そうだな。俺が考えてるのは……」
エリーティアに意見を求められ、俺は把握している皆の装備、そして技能から、幾つかの作戦を考える――自分たちの考えを貫き、そして前に進むために。
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