第百話 死線
◆◇アリヒトの視点◇◆
『牧神の使い』がニヤリと笑ったあと、辺りに音が響いた――音が頭の中に沁み込んでくるような、何とも言えない不快感がある。
「何、この……音……甘ったるい……不愉快な……」
「…………」
俺とエリーティア、そしてテレジアは、『牧神の使い』が発する音を聞いても、多少の違和感こそあれ何ともなかった――だが。
ライセンスの表示を確認して、またも戦慄を味わう。
(この能力……そうか、今まで姿を現さなかったのは……!)
――この音こそが、リョーコさんが引き寄せられていた原因だったのだと、俺は今さらに気が付いた。リョーコさんを誘うためだけに、すでにこの音は使われていたのだ。彼女がぼんやりと泉の方向を見つめていたときに。
◆現在の状況◆
・『★誘う牧神の使い』が『享楽の角笛』を発動 →女性に対して『魅了』状態を付与
・『メリッサ』『リョーコ』『カエデ』『アンナ』が魅了
「っ……」
びくっ、と近くにいたリョーコさんの身体が不自然に跳ねる――そしてこちらを向いた彼女は、生気を失った表情のままで、俺に向けて何かの技能を発動しようとする。
「リョーコさんっ……!」
「アリヒト、テレジアに任せて! リョーコの動きをまずは止めなさい!」
(止めるったって……気付け薬の類は持ち歩いてない。『スタン』させる……いや、仲間を攻撃するのは他に手段がない場合だけだ。それならどうする、考えろ……考え……)
「――うぉぉぉぉっ!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『バックスタンド』を発動 →対象:リョーコ
・『リョーコ』の『アクアドルフィン』がキャンセル
リョーコさんの後ろに回り、組みつく――さっきも同じことをしたが、二度もこの方法に頼ることになるとは。
「っ……」
「すいませんっ……今はこうするしか……っ!」
『バックスタンド』の連発で、魔力の消耗をはっきりと感じる。しかし俺は、気付けの手段として、これ以外の可能性を今は思いつかなかった。
「――リョーコさん、『気合を入れます』!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『アザーアシスト』を発動
・『アリヒト』が『支援高揚1』を発動 →『リョーコ』の士気が12上昇
「くっ……うぅ……!!」
リョーコさんは普段の淑やかな振る舞いから想像できないほどの力で、俺の拘束から逃れようとする――他の『魅了』にかかったメンバーも、仲間に攻撃してしまっていることは間違いない。
(誰一人……やらせるかよ……!)
一瞬だけ、リョーコさんの動きが緩む――いかに日頃から鍛えていても、常に暴れ続けることはできない。その好機を逃さず、俺は彼女に全力で呼びかけた。
「――気をしっかり持ってください! 貴女はそんなに弱い人じゃない!」
◆現在の状況◆
・『リョーコ』が士気を消費して『士気技能:緊急回復』を発動 →『リョーコ』の魅了状態が解除
士気を消費することで、回復可能な状態異常がある――その中に『魅了』が含まれているかは賭けだったが、思惑通りにいったようだ。
「っ……はぁっ、はぁっ……アトベさん、たびたび申し訳ありません……っ」
「いえ、気にしないでください……っ、それより、他の『魅了』されたメンバーが危ない……!」
『魅了』についてリョーコさんに説明する間もない。ライセンスを確認すると、士気を消費しなくてもスズナの『お清め』があれば、安全に『魅了』状態を解除できることがわかった。
「――オォ……オォォ……!」
「アリヒト、流れ弾に気を付けて! 何か撃ってくるわよ!」
『享楽の角笛』を発動したあと、しばらく次の動きを見せなかった『牧神の使い』だが、思うよりも魅了された人数が少なかったのか、その顔にはもう笑みは浮かんでいない。
「なんだ……あれは……」
「『ストレイシープ』が、大きな魔物の雷にやられて……いえ、違う……あれが、あの魔物の攻撃……っ」
『牧神の使い』の身体の表面を覆った黒い雷が、張り付いている『ストレイシープ』のいくつかをコーティングし、黒い雷の球体がいくつも発生する――そして。
「――オォォォォォォ……!」
◆現在の状況◆
・『★誘う牧神の使い』が『ストレイシープ』4体を『ダークネスブリッツ』に変換
(武器として使うのか……レベル1の『ストレイシープ』を……!)
考えるより先に、脊髄で理解する――この四つの黒い雷弾は、俺たち四人を残らず掃討するために放たれるものだと。
草原を跳ねていた『ストレイシープ』は、今は禍々しい黒い雷を纏い、『牧神の使い』の意志に従って俺たちに狙いをつけている。回避は困難だ――『ダークネスブリッツ』に変化しても、生き物として意志を持っているのなら。
(『支援防御1』で受けきれるか――いや、賭けはできない。俺たちのパーティには、今はセラフィナさんのような絶対の防御はない……だが……!)
(――アリアドネ、頼む!)
『我が名はアリアドネ。信仰者とその盟友に、加護を与える』
◆現在の状況◆
・『機神アリアドネ』が『ガードアーム』を発動
・『ダークネスブリッツA』が『ガードアーム』に命中
・『ダークネスブリッツB』が『ガードアーム』に命中
・『ダークネスブリッツC』が『ガードアーム』に命中
・『ダークネスブリッツD』が『ガードアーム』に命中
・『ガードアーム』がショート
「なっ……!?」
想像していた通りに、『牧神の使い』は『ダークネスブリッツ』をまるで誘導弾のように撃ち出してきた――そのことごとくを俺たちに命中する前に受け止めた『ガードアーム』が、火花を散らしてショートする。
『魔力の雷……対策をしていない機神では、回路の保全ができない。自動修復後に再使用できるまで45秒』
「いや、助かった……後は俺たちでやる。45秒持たせたあと、もう一度力を借りるかもしれないが……」
『……ムラクモの……自己防衛機構は、窮地に陥らなければ起動しない……しかし、強く必要とすれば……契約者に、呼応し……』
アリアドネの声が遠のく――切り札として頼ってきた『ガードアーム』が再使用できるまでは、何としても凌がなくてはならない。
「エリーティア、テレジア、頼む。少しでも時間を稼いでくれ」
「了解っ……はぁぁぁっ!」
「っ……!」
テレジアが『陽炎石』の力で『蜃気楼』を発動し、『牧神の使い』の攻撃を引きつける――そして回避したところで、エリーティアはがら空きになった『牧神の使い』の頭部に斬撃を浴びせようとする。
「――オォォォォッ!」
「削ぎ落としてやる……っ!」
◆現在の状況◆
・『エリーティア』が『ブレードロンド』を発動 →『ストレイシープ』13体に命中
・『エリーティア』の追加攻撃が発動 →『ストレイシープ』9体に命中
「やったの……!?」
『早業のガントレット』の、攻撃回数を増やす効果は絶大だった――『牧神の使い』の頭を毛皮のようにして覆っているストレイシープが、まさに刈り取られるようにして吹き飛ぶ。
「ォォオ……ォォォォォォ……!!」
◆現在の状況◆
・『★誘う牧神の使い』が『羊飼いの角笛』を発動 → 『ストレイシープ』の群れを召喚
『牧神の使い』が、前とは違う音を発する――その音が辺りの空間を歪ませ、無数のストレイシープが現れて、再び『牧神の使い』の表面を覆ってしまう。
「……無傷だっていうの……?」
(こんな理不尽なことが……いや、今までだって十分に理不尽だった。かならず活路はある……必ず……!)
「そっちがその気なら、何度でも削ぎ落として……っ」
「……っ!」
エリーティアとテレジアが再び連携し、『牧神の使い』に挑んでいく――だが。
まだその腕が届かないはずの距離で、羊頭の悪魔が両手を上げる。それはまるで、天から来るものを呼び寄せるかのようで――。
目の前に突然、今とは違う光景が広がる。
地に倒れ伏した仲間たち――そして、悠然と近づいてくる魔物たち。そんな光景が、何の前触れもなく俺の意識に差し込まれる。
(なんだ……死ぬ……俺たちが……?)
敵の行動、その意味を理解するのが一瞬遅れるだけで死を招く。ただ俺が選んだのは――叫ぶことと、もう一つ。
「――デミハーピィ、来いっ!!」
◆現在の状況◆
・『アリヒト』が『デミハーピィ』を三体召喚
「アリヒト、何を……っ」
「ハーピィたち、三人を空に逃がしてくれっ! 早く!」
「――アトベさんっ、駄目! 駄目ですっ、駄目ぇぇっ!」
「――!!」
エリーティア、テレジア、リョーコさんをハーピィが抱え、高く舞い上がる。少しでも高く、そう願いながら、俺は一人で『牧神の使い』と対峙する。
俺は逃げられない――デミハーピィには二人分の荷重に耐えられる力はない。もし俺まで空に逃げたとしても、その時は空中を狙える『ダークネスブリッツ』に攻撃を切り替えてくる可能性がある。
「……オォォォォ……!」
雄叫びのように力強さを増した『牧神の使い』の声に、西と東にいた二頭の『サンダーヘッド』が呼応して鳴く。なぜ、二頭を引き連れていたのか――そんなことは決まっている。
三体でなくてはならない理由がある。魔物の本能に従い、探索者を喰らうために。
「――後部くんっ……!」
「アリヒト先生ぇっ……!」
分かっていたはずだ。三体の連携を『完全に』絶たなければ、いずれは協力して攻撃を繰り出してくるということを。
◆現在の状況◆
・『★誘う牧神の使い』と『サンダーヘッド』2体が連携
・『★誘う牧神の使い』たちが『怒れる牧神の雷槌』を発動
・『アリヒト』が『支 防 1』を
「うぐぁぁぁあああああっ……!!」
「……オォォォォ……ォォォ……!」
『★誘う牧神の使い』が両腕に黒い雷を纏い、『サンダーヘッド』2体からの放電を受け止めて力を増したあと、地面に拳とともに雷撃を叩き込む。黒い雷は地面を伝い、周辺の敵全てに被害をもたらす――しかしエリーティアたち三人を狙った雷は、空中にいる彼女たちには届かない。
(念のために、支援防御を……使ったが……これじゃ、効果も何も分からない……)
黒い雷のもたらす激痛は想像を絶するものだった。足から瞬時に全身に伝わり、内側から破壊しつくされる――まるで血液を沸騰させられるかのような感覚。
それでも俺は、生きていた。『後衛』であるがために、敵からの距離が遠かった――それが幸いしたのかは分からない。
だが、膝を突くしかない。俺は倒れる前に、他の二つのパーティを見やる――俺にとどめを刺そうと狙ってくる『サンダーヘッド』を、彼女たちが止めてくれていた。
「嫌やっ……アリヒト兄さんっ、死んだらあかんっ! 絶対嫌やっ……!」
「この羊……もう許さない……っ、喰らえぇぇぇっ!」
「アリヒトが倒れるまで、私は仲間を攻撃して……あまりにも、不甲斐なさすぎます……っ!」
◆現在の状況◆
・『カエデ』『アンナ』の魅了状態が解除
・『イブキ』が『天鷲脚』を発動
・『サンダーヘッドB』に2回命中
・『アンナ』が『スピンスマッシュ』を発動
・『サンダーヘッドB』に命中
・『カエデ』が『逆一文字』を発動
・『サンダーヘッドB』に命中
「なんでや……っ、なんで全然倒れへんの……っ!」
「カエデ、諦めないでください! もう一度……っ」
「――アンナっ、危ない……くぅっ……!」
『サンダーヘッド』が暴れ、角を振り回す――イブキは避けきれず、苦痛に声を上げる。
「アリヒトッ……アリヒト、しっかりして……立って、立って逃げてっ……!」
「……っ!!」
エリーティアが叫び、そしてテレジアが声なき声を上げている。
――逃げろ、と叫ぶべきだ。今全滅の危険を冒してまで、戦い続けるべきじゃない。
『――けれど、一番諦めていないのは我がマスター。あなただと私は考える』
声が聞こえる。ムラクモ――俺が背負っている剣が呼びかけている。




