11.トロッコ問題だよ
「速報です。総理大臣を殺害したと思われる犯人の死亡が確認されました。警察官が発砲した銃弾が犯人の胸に……」
ひなたはイヤフォンを左耳から引き抜いて、目の前で笑みを浮かべている男――世界的テロリストであり、総理大臣を殺害した青年、了輪とばりを睨みつけた。
国防局からの情報だけが入る右耳のイヤフォンからは、以前としてとばりの行方を追い続けている捜索班と、マスコミ対応に追われている情報部の端的な状況報告が連続的に流れている。ひなたが報告をすれば済む話だ。だが、ひなたにはそれができないでいる。その理由はまだ、ひなた自身にもわかっていない。
とばりを追っていた警官の発砲した銃弾は、確かにとばりの胸を貫いた。だから、報道陣の情報に間違いはない。とばりの体は真っ赤な血を吹き出してコンクリートの上に転がったし、その後ひなたも脈拍を確認した。通常ならば、死亡したと断定される状況にあった。
唯一、相手がとばりだったことをのぞいては。
国会議事堂の屋上。風に黒髪を舞い上がらせたとばりは、地上に渦巻く一般人の困惑を満足げに見つめている。
「……昨日、死んだはずでしょ」
ひなたは背中から銃を引き抜いた。
とばりは昨日から、二度死んだ。もう彼の死をトラウマに感じることはない。そう思っていた矢先。とばりは易々と死んでいく。かさぶたを無理やり剥がされたような気分だ。
「さっきも、確実に死んでた」
だが。
皇居側へと先回りした理一から連絡が入り、ひなたがとばりから目を離した瞬間だった。警官がとばりの遺体を引き渡そうと、彼から目を離した一瞬だった。人々がとばりの死を確信し、油断した瞬間だった。
誰もがとばりのことを忘れた数十億分の一秒の狭間、とばりは世界から姿を消した。
困惑する多くの人間を前に、ひなたは真っ先に足を動かした。脊髄が瞬時に理解した。とばりは生きている。同じ手は二度も使わせない。
屋上だと思ったのはただの勘だ。とばりならそうする。性格の悪いとばりなら、この状況を高見で見物するに違いない。そう直感が告げただけ。
「でも、ひなたちゃんは、僕が生きてるって思ったからここに来てくれたんだよね」
ようやく理解者が現れたとでも言うように、とばりが大きく手を打ち鳴らした。称賛の熱さえ感じる拍手の音。嫌悪感に飲み込まれてしまいそうだ。
とばりは死ぬ。必ずひなたの目の前で。これからも、何度も死ぬのだろう。一度なら耐えられる傷も、繰り返されれば悪化する。やがて傷口から菌やらカビやらが繁殖し、侵食されて腐っていくのだ。とばりの死は、ひなたの内側を確実にえぐっている。
「なんで」
一度失われた命は、二度と戻らない。それがこの世の理だ。なのに。
ひなたは努めて静かに口火を切る。とばりに支配されれば終わり。緊張の糸を張りつめ、一定の距離を保ったまま、ひなたは銃をとばりへと向け続ける。
とばりは、この世の理を覆して生きている。もはやひなたの知るただの幼馴染でも、親友でも、世界的テロリストでもない。
とばりを殺せなどしない。
それでも、自らが生きるために、ひなたは銃を向ける以外できなかった。
「ひなたちゃんも知ってるでしょ」
とばりの踏み出した一歩によって、距離が縮まる。
「僕は、不死身のテロリストだよ」
縮まった一歩よりも大きな重圧がかかる。ひなたは引き金に指をかけた。引けば当たる。外さない。その自信はある。ひなたに足りないのは、とばりを殺す覚悟だ。
「不死身なんだ」
繰り返される言葉の意味、ひなたはそれを正しく理解しているつもりだ。体感もしたし、経験もした。ひなたはゴクンと唾を飲む。
不死身。
揶揄だと思っていた。中二病を患ったとばりの残念なクソダサいあだ名にすぎないと。
だが、そうではなかった。おそらくとばりは、世界中でテロを起こし、その度に死んでいる。そして、どういうわけか生き返る。一瞬の死と永遠の生を繰り返し、世界を歪め続けている。
「世界を掌握したくなるわけね」
とばりは、共感を得られたことに対する喜びを表情で伝える。
「その通り。さすがはひなたちゃんだね」
「何度、死んだの」
「もう覚えてないよ。でも、僕が自分のために死んだのは二回だけだよ。ひなたちゃんに会ってからのね」
それ以外は、誰かのために死んだとでも言うのだろうか。まるで崇高な理念のもとに、自らが動いているとでも。
「新しい世界を作るために、僕にはひなたちゃんが絶対に必要なんだ。そのためなら、何度でも死ぬ。ひなたちゃんの心が死ぬまで」
「マジで性格が悪すぎるんだけど」
「そうだね、良い人はテロリストにはなれないもん」
「他の人を巻き込まないで」
「そりゃ、本当は僕だって人を殺したくはないよ。殺される痛みはよく知ってるからね。でも、世界を再構築するためには必要な犠牲なんだ」
とばりは目下、亡くなった総理大臣への哀悼を述べるアナウンサーの姿を目に焼き付けている。
「トロッコ問題だよ」
「は?」
「僕は大切なひとりを……ひなたちゃんを救う方にレバーを引ける人間だって、証明してるだけ」
ひなたは、見知らぬ大勢の人間のために大切なひとりを殺すべき立場にいる。
今だって、引き金を引くだけでとばりを殺せる――なのに。
ひなたは自らの指が震えていることに気づいて、ゆっくりと銃を下ろした。ひなた自身が、その答えに納得できていないから。
「どちらも救う。トロッコを止めるレバーを探す」
動き出したトロッコは止まらない。悪あがきだとひなたは思う。いずれ、その願いはかなわないと知るに違いないと。
でも、今は。
とばりは
「残念だね」
と寂しそうに笑った。
「ひなたちゃんなら、いつかわかってくれると思うけど。後九人だよ。もう動き始めた、僕は止められない」
「……必ず、とばりを連れ戻す」
「楽しみにしてる。次は警視総監にするね。政治家は結局政治家だもん。抵抗はしないし、簡単すぎちゃったから。僕はもう少しスリリングな方が好きなんだ」
とばりは悪びれもせずいたずなら笑みを浮かべる。そのまま屋上の縁へと足をかけると
「それじゃあ、そろそろ行かなくちゃ。また明日ね」
地面を軽く踏みしめて、壁や梁の凹凸を駆使しながら地上へと降りていく。
完敗だ。
ひなたがずるずるとへたりこむと同時、屋上の扉が開いて理一が現れる。
「ひな!」
「遅い」
理不尽だとわかっていても、ひなたは苛立ちを抑えることができなかった。体を持ち上げることもできず、ひなたは地面に座りこんだまま、駆け寄ってきた理一を見上げる。
「……とばりといたのか」
理一は先ほどまでとばりが立っていた場所に立つと、悔しそうに歯噛みした。理一にとっても、とばりは昔馴染みだ。とばりの行いを良く思うはずがない。
だが、理一は何かを飲み込むとひなたの手を取って、ひなたの体を引き上げた。
「帰ろう。国防局へ報告する」
とばりは死なない。理一もそのことには気づいたはずだ。
今日の一件で、とばりは名実ともに不死身になった。
ひなたは口を閉ざす。この世界への不満ばかりが溢れてきてしまいそうだったから。
理一はそんなひなたを抱き寄せるように自らの体へ寄りかからせると、ひなたに言い聞かせるような声色で呟いた。
「了輪とばりはテロリストだ」
わかっている。
ひなたも痛いほど、わかっている。




