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何度も鳴らされるベルを遠くに聞きながら、タツキはようやく目をこじ開けた。それから頭痛と気分の悪さを覚えつつ、這うようにしてドアの方へ向かった。
どうにか中腰になりゆっくりドアを開けるとそこには、ヒロキがいた。
「おい、まだ寝てたんか。リョウさん来るぞ。」
「……そう、ですか。」タツキは半分しか開かぬ目を必死にヒロキに向け、絞り出すように言った。
「そうですかって、お前一緒に飯行くんだろ。何やってんだ。具合でも悪いんか。」
そういうヒロキは昨日、たしかライブ前からダイキの店に至るまで、ひっきりなしにさんざビールを呷っていたはずである。どうして二日酔いにならないのか、どうしてそんなに平然とした顔をしているのか、しかし頭痛がそれらの言語化を妨げる。
「ほらほら、とっとと着替えて行こうぜ。そろそろインストアライブ始まるぞ。あ、でも店は駅の目の前だかんな、歩いて数分ってとこだ。いいホテル取ったな。」
タツキはそうせっつかれ、頭痛と吐き気を抑えてどうにか顔を洗い、苦心惨憺して着替えを済ますと、ヒロキに誘われホテルを出た。外は二日酔いの眼差しにはあまりにも眩い陽光に満ちていた。
「リョウさんの新譜聴いたか?」
「……いえ、まだ。」
「早く聴けよ。バンドとはまた違ってなあ、いいぞ。ギターのインストだかんな。さすがだよなあ。俺もいつかそんな身分になってみてえよ。」
「へえ、インストって、デスメタル?」
「じゃ、ねえだろ。だってデス声がねえだろ。デス声が。」
「あ、そうか。」
相変わらず頭脳は少しも働いていないのである。
「じゃ、ギターだけのやつってことすか。」
「だからそう言ってんじゃねえか。リョウさんち、オールドいっぱいあんだろ。あれを片っ端から使って録ったらしいぞ。たしかに音に深みがあるっつうか、違ってたなあ。才能と金がバンバン籠められてるってえ感じだ。」
「リョウさん何だかんだで儲かってますよねえ。オールドギターだって一台一台博物館級だし。」
「でもあれ、実際ミリアさんのお父さんの遺産らしいぞ。ってリョウさん言ってた。」
「ええ? ミリアさんのお父さん何者すか。どっかの社長さんとか?」慌ててタツキは足を止めた。
「ギタリスト。」ヒロキはそう言ってにっと笑う。
「はあ。」タツキは項垂れる。「……血か。……血だったんか、あれは。……だよなあ。」
「しかもな、結構著名なジャズギタリストだぜ。チバジュンヤって知らねえ?」
「チバジュンヤ……?」タツキは呟く。
「昔、SALVATIONってあったろ。ハードロックバンドの。」
「ああ。名前は聴いたことある……。」
「あそこでギター弾いてて、その後アメリカに渡って何年だか修行して帰国して、それからはジャズに転向してソロ活動やってたみてえだ。」
「マジですか……。」
「ああ、マジだ。」
「ミリアさんむちゃくちゃエモーショナルなギター弾くからなあ。あーあ。ジャズギタリストの血か。やっぱ血なのか。」タツキはふと腕を上げ、自分の手首に走る静脈を見つめる。ここには医師の血が走っている、はずだった。しかし何一つ医師として必要な知識は身に付かなかったのである。タツキは医師の血もギタリストの血も入っていない動脈を見つめ、深い溜め息を吐いた。
「タツキ。」タツキの思考を十中八九正確に思い描きながら、「血じゃねえぞ。」と断言した。
「だって。」タツキはヒロキを見上げる。
「ミリアさんに前な、なんであんなリョウさんとそっくり同じなギター弾けんですかって聞いたことあんだよ。お前、そしたらなんて答えたと思う? ミリアさんニッコニコして『リョウが好きなの』って言ってのけたかんな。ははー、恐れ入りましたっつう感じじゃねえか。」
「愛か、愛!」タツキは今度は興奮してぺっぺと唾を飛ばした。
「ま、正直、愛でも何でもいいけどよお。自分の意志でどうにだってなんだよ。お前自身そうやって生きてんじゃねえか。」ヒロキはそう言って悪戯っぽく笑った。「お前の曲は誰にも真似できるモンじゃあねえ。最高だよ。」
到着したCDショップにはLast Rebellionのライブ映像が大音量で流れる中、Last RebellionのTシャツに身を包んだ集団が既に大勢押し寄せていた。その中にはヒロキやタツキの顔を知る者もいて、何人かの握手を求められたりもした。
CDショップの一隅に創設された簡易ステージは既に黒い男たちによって幾重にも囲まれており、ヒロキとタツキはその後方に立つ他なかった。
「……リョウさん地方の日中でもこんだけメタラー集められんだな。凄ぇな。」ヒロキさんがこっそりと呟く。
「しかもインストアライブ前にトークショーって書いてあんじゃねえすか。何すかトークショーって。メタラーなのにトークなんかやんですか。」
「そりゃあ大事だろ。何でもちゃあんとアピールしねえとな、レコード会社にだってデスメタルっつうだけで舐められるし、ちっとでかめのライブハウスだって、そうだ。メタラーはトーク力が大事なんだ。」
「マジすか。」タツキは自分がこんな場に出されることを想像して身を震わせた。
「何気ああ見えてリョウさんは気さくだし、今でもギターレッスン続けてるし、なかなかトーク力はある方だかんな。」
「ライブ終わった後も、いつまでもファンと喋ってますしね……。この間なんて日付変わるぐれえまで大盛り上がりしててライブハウスの店員が泣きながら、もう帰ってくれって言ってましたよ。」
「まあ、……そういう時もあんな。」
そんな雑談を交わしていると、やがて白髪を一つに結わき、Last Rebellionのヨーロッパツアー限定のレアTシャツに身を包んだ、よくラジオだ雑誌だで見聞きするメタル評論家が登場し、ひととおり挨拶を済ませると、リョウの新譜を賛美し、「さあ、ではLast Rebellionのリョウ君です。どうぞ。」と後方の扉を開いた。
そこから覗く大きな影に、「おお。」客席から感嘆の声が上がった。




