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ライブハウスは、記憶よりも随分近くにあった。やはりあの時、人生初めて向かうライブハウスは特別であったのだろうとタツキは一人ほくそ笑みながら思った。
四人は早速店の前にバンを停め、店員の手助けを借りながら機材を運び入れると、すぐさまリハーサルに入る流れとなった。
都内のライブハウスでは相当に演りつくした感のあるメンバーであったが、なかなかここも都内有名ライブハウスに匹敵する高度な音作りであることに驚いた。
まだ若い、三十そこそこにも見える店長は、「まあ、自分もメタル畑で育ちましたから。」と勝ち誇ったように微笑んだ。
「あの、……つまんねえこと聞きますが、今から八年前くらいにここに都内からLUNATIC SHADOW呼んだことありましたよね。」
機材を運び終えたコウキが、LUNATIC SHADOWの単語を耳にするや否や、店長とタツキの元に慌てて飛んでくる。「そうそう! 東京のデスメタル。ほら、今でもやってる、ヒロキさんのバンド!」
「もちろん知ってますよ。」店長はにやりと笑った。「っていうかはっきり覚えてます。あん時は自分も凄ぇワクワクしてましたよ。その時は前任の店長がいて、自分はまだここでバイトしてて、チケットもぎりやってたんですよ。ライブ終わった後、家から持ち込んできたCDにヒロキさんからサイン貰って。」
「マジで!」タツキは叫んだ。「あん時、俺ここ来てたんですよ! 生まれて初めて来たライブハウスがここで! そんで初めてデスメタルバンド観て! そんで俺もデスメタルバンドやるんだって思って!」
店長は硬直したようにタツキを凝視した。
「俺、あんたに初めてのチケットもぎって貰ったんだ。チケット渡したのにドリンク代って言われて、そんなのあるんかってビビって……。」
「……そうだったんですか。」店長は驚愕と歓喜の入り混じった笑みを浮かべ、堪らぬとでも言うように自分の頬を撫でた。
「嬉しいなあ。なんか。……ドラマだなあ。」
「俺も、ここに出れて嬉しいんです。」タツキはまだ空っぽの客席を見回しながら、「特別なんです。」と誰へともなく呟いた。
タツキはギターのセッティングが終わると、再びまじまじと誰もいない客席を見つめる。ここにかつて自分がいて、そしてバンドをやろうと決意した。今そこに今自分が立っているのが不思議でならなかった。あの時の自分が、何を着たら良かったのかと不安を覚えつつ電車に乗ってやって来るような、そんな妙な錯覚さえ覚えた。
「どうした。懐かしいか。」レンが面白そうに尋ねる。
「ああ。」タツキは素直に答える。
「お前がデスメタルに出会った場だもんなあ。何か、そう考えっと……聖域だよなあ。」
――聖域。タツキはその語を反芻しながら足元のエフェクターボードを踏んでいく。キラキラと色とりどりのランプが輝いて、それは今までの自分の半生を、間違ってはなかったのだと賛美しているようにも感じられた。
「ちょうどそこで、ヒロキさん弾いてたんじゃあねえの。お前とおんなじようなV持ってさ。」
タツキは足元を見ながら、はっきりとあの時の記憶を蘇らせていた。
開演後間もなくぎゅうぎゅう詰めとなり、屈強な男たちに押し出され辿り着いたのは入って一番右手奥、ちょうどヒロキの目の前であった。ヒロキはjacksonのking Vを手に、見たことも聴いたこともないようなメロディアスな速弾きを奏で、自分をこことは完全なる異世界へと誘ってくれた。そこには父母から排除される悲しみも、屈辱も、自分の無力さも何もなかった。もっと根源的な苦悩を見せ付け、しかしそこから這い上がれる力を、見せ付けてくれた。真っ暗なだけの延々と続く人生に、ぱっと突如光が差した、というのはタツキの場合決して誇張でも何でもない。だからタツキはそれからは迷わなかった。躊躇しなかった。そんな暇は無かった。ひたすらギターを弾き、曲を作り、自分が上京するに足る金を貯め、準備を進めた。最早父母の無視も罵倒も、何の痛みも与えなくなった。タツキが存在しているのは既にここではなかった。
自分が変わる全てのきっかけを与えてくれたのは、ここだった。ここでの、出会いだった。あの時ダイキが自分にチケットを手渡さなかったら……。あの時ヒロキたちがここへ来てくれなかったら……。それは考えるだけでも、おぞましいことであった。自分は相変わらず無力で、真っ暗な世界を当てもなく彷徨うだけの、生物としてこの上なく無意味な存在だったろう。生存本能を有しながら死ばかりを冀う、神にも見放されるべき矛盾した存在。最早父母だけではなく、誰からも疎まれ、排除されるべき人間。ヒロキがそれを救ってくれた。この場所が、救ってくれた。
全員の準備が終わるとタツキは一人唐突にギターを弾き始めた。リハーサル直前の、ただの音出しのつもりだったが、指がほとんど無意識に奏でたのはあの時ヒロキが弾いた、LUNATIC SHADOWの代表曲であった。
レンたちはすぐにそれが何の曲であるかを解した。解するなり即座にそれにリズムを合わせていく。ベースが絡む。ボーカルが乗っていく。
PAたちは首を傾げた。これは事前に手渡された、彼らの曲ではない。彼らにとっての練習曲なのであろうか、と。一人店長だけがドリンクコーナー奥でビールを冷蔵庫に入れながらメロイックサインを掲げていた。
やがてI AM KILLEDのリハーサルが終わると、他のバンドのリハーサルが始まっていく。タツキはぼんやりとその様を眺めるとでもなく眺めながら、やはりあの時の記憶を甦らせていた。その時である。
「いよう、タツキ。」
まだ物販も準備していない客席の隅で、地べたに腰を下ろしながら缶ビールを呷っていたタツキはそう呼ばれて、ふと視線を上げた。目を見開く。あ、と声を出そうとして出ない。そしてわなわなと震え出した。
「ヒ、ヒロキさん!」
遂にタツキは叫ぶように言って立ち上がった。ほとんど中身の入っていなかった缶が、音を立てて転がっていった。
「いよう、元気か。」ヒロキは髪を一つに束ね、なぜだかI AM KILLEDのTシャツを着ていた。しかしそれに喜んだり、指摘をしたりする余裕もないのである。
「な、ななな何で、ここに? ここは、ここ、……東京じゃねえ!」
「何でって。」悪戯っぽく笑った。「音楽好きな奴がライブハウスにいて、何の不思議があんだよ。」
タツキは必死に頭を巡らす。「……でも、でも、でも、……ここはS市だ。」
ヒロキは遂にぶっと噴き出した。「……こいつらが是非来てくれってさあ。」と、客席後方でああだこうだ騒ぎながら物販の準備をしているメンバーたちをちら、と見遣った。
「え。……マジで。」
「だってよお。」ヒロキは転がっていった缶を拾い上げた。「ここはお前と俺が出会って、そんでお前がバンドやってくって決意した場所だろうが。今日はそこでお前が凱旋ライブやるっつうんだから、それがS市だろうが何だろうが、行くしかねえだろうが。」
タツキは肩を上下させながら、荒々しい呼吸を繰り返す。喉の奥がごつごつと痛んだ。視界が滲みそうになるのを必死に堪えた。
「何、どうした?」
そう不思議そうに問われ、タツキは請うような眼差しでヒロキを見つめた。「……夢、みてえだ。」
物販席から事態を確認したメンバーたちが、タツキを見ながら膝を叩いて笑っていた。




