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タツキは運転席に座り込み、エンジンを掛けた。目的地まではものの数分であった。タツキが問答無用で乗り付けた場所は、S寺の墓苑であった。
「親御さんのお墓か。」コウキの呟きにタツキは肯いただけで、バンを降りると坂になった寺への径をいそいそと歩いて行った。
「何かいい雰囲気だな。落ち着いてて。」コウキがタツキの後姿を見守りながら微笑む。
「せっかくだからツアーの成功でも祈っていくか。」レンが境内の方を見ながら言った。
「俺ら、境内の方行ってくっから。」ショウがそうタツキの後姿に声を掛ける。
タツキはそれには答えず、一人足早に墓の方へと歩いて行く。
昔、母親に手を引かれここを歩いた記憶がある。あの時には近くに父も祖父もいて、あれは何か法事だったのであろうか。親族が大勢揃った、広々とした畳の部屋で、住職の読経がやけに長くてむずかった記憶がある。姉はすかさず自分のポシェットに入れておいたチョコレート菓子を与え、宥めてくれた。「もう少しの辛抱よ。」姉もまだ幼かったはずだのに、今思ってもその振る舞いはなんと大人びていたであろう。姉はいつも人として立派であった。全てが自分とは比較にならない程に、勝っていた。
岩村家の墓はすぐに知れた。記憶の通り、何かの碑かと見紛うぐらいに大きく、立派であった。墓前には誰が備えてくれたのであろう、数本の百合の花がまだ枯れもせず、馥郁たる香さえ漂わせていた。
タツキはその前に立ち、暫くその様を眺めていたが、やがて自ずと頭を下げた。墓の脇に置かれた御影石に、新しく父母姉、それから姉の夫と子どもの名が刻まれているのが目に入った。タツキは長い溜息を吐いた。
「……どちら様ですかね。」震えるような声にタツキは振り返った。するとそこには、簡単な作務衣姿の、住職らしき人が立っていた。
さすがに父母の眠る墓前で偽名を名乗るのも浅ましく思い、「イワムラタツキです。息子です。」と答えた。
「ああ。」住職は辛そうに眉間に皴を寄せ、「タツキ様でしたか。これはこれは、大変ご無沙汰を致しております。御葬儀の際にはご連絡が付かぬということで、心配しておりました。」と深々と頭を下げた。
「済みません。ちょっと……、その、実家と連絡を絶っていたものですから。」
住職は力無き笑みを浮かべる。「存じておりますよ。でも、こうしてお墓参りに来て下さったんですね。お父様もお母様も、皆様方、浮かばれますでしょう。」
タツキは照れ隠しに、「仕事で、たまたまこの近くに来ただけなんです。あの……、このお花はどなたが?」墓前の百合を指して言った。
「こちらはうちの家内が。……お父様には日頃より、また、昨年の寺院の改装に当たりましても、大変にお世話になったものですから。ほんの少しでもその御恩に報いたいと、お母様の好きであられたユリの花を、手向けさせて頂いております。」
タツキは再び墓を見つめる。「金ならある人たちだからな。」
住職は静かに頭を振り、「お金がたくさんあるからと言って、寺社にご供養なされる方は稀でございますよ。かえってそういう方々こそ、月々の管理費さえも滞ったりもするものです。……お父様とお母様はお忙しい方でありましたのに、月に一度の法話には必ず見えられておりました。信心深い方々でございました。」と告白した。
「ええ。そうなの。」思わずタツキは目を丸くする。宗教なんぞにはとんと無縁の人たちに思えていたので。
「お忙しい合間を縫って仏の教えを学びに。熱心なご夫婦でありました。」
タツキはどこか信じられないとばかりに住職を凝視する。住職はその鋭い視線に気づいて微笑んだ。「お父様もお母様も、タツキ様、アオイ様のことを大層案じられておいででしたよ。」
「まさか!」アオイの名が出てきたことにタツキは驚嘆した。あの子は、誰からも存在を秘匿されていたはずなのである。
「ええ。お苦しみでありましたよ。……世間体のために我が子を、孫を、放擲してしまっていることを。そうと自覚しながら過ちを犯し続けている、それは想像以上のものであったに相違ありませぬ。」
タツキは息が止まる思いがした。自分やアオイのことを案じていた? そんなことはにわかには信じられなかった。誰か、別の人のことを言っているのではないか。そんな疑念さえ頭を過ぎった。
「また、地元の名家として、医師の家として、苦しんでおられる節もございました。『もしうちが普通の家であったら』、そんなことを仰られたこともございます。」
「……嘘だろ。」タツキは思わずぞんざいな言葉を発する。
「これでも仏の道を学ぶ者。虚言は固く禁じられております。」住職はどこかおどけて言った。
タツキは暫く肩を上下させながら住職の言葉を反芻した。「……その、あの……、あなたはアオイのことも、知ってるんですか。」
「……もちろんお会いしたことはございませんが、お話では何度も。」住職は静かに答えた。
「何度、も……。」
未だタツキが疑い深い目をしていることに気づいた住職は、「お姉様がご懐妊された時、安産祈願をさせて頂いた時に初めてお腹の赤ちゃんをアオイ様と命名されると、お母様とお姉様から伺いました。岩村家の女性は、皆、漢字一字の花の名にするしきたりがございますので。アオイといえば『源氏物語』の光の君の正妻の名でございますし、徳川家の家紋にもなっております。それで私も甚く賛成致しました。」と遠くを見るような眼差しで言った。
「その頃は、まだ、痣がわかんなかったんだな。」タツキはぼそりと呟いた。
「アオイ様がお生まれになって間もなくの頃でしたか。……その、お顔の痣が、現在の医学では治せぬということで、お母様とお姉様で祈祷をお願いされに参りました。アオイ様は入院されているとのことでしたので御仏前にアオイ様の名前を置かせて頂き、それからは朝晩お祈りをさせて頂いております。」
タツキは自分が打ち砕かれてしまったような気がした。父母を憎むことで構築されていた自分が、欠片も無くなっていくように思われた。
「何かにつけ、お寺に来られておりました。タツキ様が幼い頃には、立派な医師になるようにと毎月のように願掛けに来られ、それからタツキ様がおうちを出てらっしゃってからは、どうにか健康で暮らしていけるようにと……。」
「……嘘だろ。」タツキの胸中には不穏の暗雲がみるみる広がっていく。信じたいという思いと、信じられないという思いが拮抗し、苦しくてならない。
住職は虚偽ではないという同じ答えを繰り返すより、力なく微笑んだ。「立場のある方は、人様には見せられぬ面も多いものです。岩村家の皆様以外にも、公にはできぬお話を相談される方も多くおります。そういう部分を仏の教えで救って行くのが、わたくしどもの使命でございます。」
タツキは逡巡しながら黙した。何も言葉が出てこなかった。
「タツキ様のことも、アオイ様のことも、どうにかお幸せになれるよう、お父様やお母様、お姉様なりに真剣に考えていらっしゃったのでございますよ。」
「……俺のこと、忘れてなかったんか。」と、誰へともなく茫然と呟いた。
「忘れるなどということが、あるものですか。」住職は小さく笑い、「何とも不器用なご夫婦でした。」と呟いた。「本当に、普通一般のご家庭でしたら、全く違った形になっておられたでしょう。タツキ様、アオイ様を、御心のままに素直に愛することができていたならば……。」
それ以降のことは住職も何も言わなかったし、タツキも何も想像できなかった。
「おい、タツキー!」そこに、コウキが何やら高々と掲げながらやって来る。「これ、ツアー中バンに付けとこうぜ。」ひらひらさせながら見せたのは、どうやらお守りである。
「見ろ! 交通安全! 事故ったら最悪だかんな。」コウキが唾を飛ばしながら訴える。「何が最悪ってよお、機材がイカれたらどんだけの損害が出んだって話だよな。アンプに金物、お前のギター。」
「こいつ、こればっかり。自分の体よりも機材だとよ。」その隣でショウが苦笑した。
住職はにっこり笑って、「そういうことでございましたら、御車の御祈祷もさせて頂いておりますよ。」と言った。
「いや、さすがにねえ、もう行かなきゃなんねえんすよ。俺らこの後、ライブなんで。」コウキはそう言って、腕時計を示した。「そろそろ時間だぞ、タツキ。」
「おいおい、これがタツキんちの墓なんか。一番でけえじゃねえか! 凄ぇな!」レンがまじまじと墓を凝視する。
「これ、このエリア、全部タツキんちの墓なんか?」ショウが目を丸くして言った。
「そうでございますよ。こちらの敷地全て先祖代々岩村家のお墓となっております。一番端の、こちらが江戸時代初期の墓石でございまして、順々に江戸中期、後期、明治、大正、昭和と続いておられます。」
「江戸時代ってマジかよ。ちょんまげ時代じゃねえか。……なんか、博物館みてえだな。」コウキが既に字も何も見えなくなっている、丸みを帯びた墓の前にしゃがんだ。
「こちらの丸いお墓はですね、お坊さんのお墓の証です。」
「マジで? だってこいつの先祖、医者じゃなかったの?」コウキが言った。
「ええ。江戸時代においては僧医と申しまして、それらを兼業なされていた方が多いのでございますよ。」
「へえ、つうことはやっぱ正真正銘、タツキんちは医者なんか。」コウキは賛嘆しながら言った。
「ええ、もう三百年以上近く続いている、紛れもなく由緒正しい名家でございます。いかがですか、タツキ様の御家族、御先祖にご挨拶をされてみましては。」
三人はそう促され、顔を見合わせてからずいと進み、揃って手を合わせた。
「これからライブさせて貰います。どうぞよろしくお願いします。」コウキがぼそぼそと呟く。「なんでこれからもタツキがいい曲いっぱい作って、それからあのばあさんとアオイちゃんも元気でやっていけるように、どうかどうか見守ってて下さい。」
住職は柔和な笑みを浮かべ、「タツキ様もご健康で活躍されている姿をお見せになれば、きっとご両親も一見ツンケンされながらも内心お喜びになるでございましょう。そういう御家庭ですから。さあさ、どうぞご挨拶なさって下さい。」
タツキも不貞腐れるようにして、しかし、手を合わせた。--憎んでいた、はずであった。彼らの対応に悲しみ、寂しさを覚え、それを払拭するためにひたすら憎んでいた。そうしなければ自分が毀れてしまいそうであった。だのにそれが仮装だと知らされ、タツキは正直、困惑していた。憎み続けていられればそれが一番楽、であった。彼らにされた対応の一つ一つを思い浮かべ、死んでせいせいしたと、そう思っていられれば、簡単であったのに。
ここに来なければよかったのか――。タツキはそれに肯ず前に眩暈を覚えた。
「……行くか。」タツキは目を強く瞑ってから、そこに涙の出ていないことを確認するとそう三人を振り返って言った。「もう時間だろ。」
「だな。……じゃあ、お坊さんどうもお世話んなりました。お守りパワーでひとつ、頑張ってきますわ。」コウキがお守りを高々と掲げ言った。
「つうかそれ、交通安全じゃねえか。ライブとは関係ねえだろ。」レンが言う。
「まあ、ありがてえもんなら何でも効果ありますよね?」コウキが住職に問いかける。
「あなたがたの成功を、仏にお祈りさせて頂きますよ。」
「おお、ありがてえ!」コウキはすかさず住職の手を握りしめた。「ひとつ、凄ぇのをよろしく頼みます。」
「ええ、ええ。」
「図々しいな。」タツキは顔を顰めたものの、すぐに住職に向き合い、「本当に色々教えて頂いてありがとうございました。また、来ます。」と思わず口を吐いたことに思わず自身が驚く。
「またツアーで来るだろうしな。そん時はアオイちゃんも連れてくるか。清さんも来たがるかな。」レンが言い、四人は車へとゆっくりゆっくり歩みを進めていく。今夜のライブはタツキの凱旋であるのだから、絶対に成功させたいであるとか、チケットの売り上げが思いのほか良く、完売も寸前であるとか、打ち上げでは地元の名産を食べられないかであるとか、そんな話題に花を咲かせながら去っていく若者たちを、住職は目を細めながら見詰めていた。




