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STIGMATA  作者: maria
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 それからは車中の雰囲気も大分明るいものとなった。じゃんけん大会で負けたタツキがハンドルを握ることとなり、タツキは目的地まで自分が運転すると言い張り、久方ぶりの運転を楽しんだ。元々十八を迎えてからすぐに免許は取得しているし、ワイドグライドに出演するバンドの手伝いがてら、店長所有のバンの運転も度々行ってきた。運転は嫌いな方では無いのである。

 「タツキ、無理すんなよ。お前が事故ったら、ばあさんとアオイちゃんが泣くからな。」コウキが心配そうに後部座席から顔を覗かせた。

 「縁起の悪いこと言うなよ。いざとなりゃあお前も道連れだ。」軽口を叩きながらも、タツキは次第に故郷に近付いて行く風景を、どこか高揚と郷愁との入り混じった思いで見つめていた。

――この辺りを降りてしばらく行けばダイキの家だ。この上の橋はよくバイトに行く時に自転車で通った道。ということは実家もすぐ近くだ。――ついこの間見たばかりだというのに、もう一度実家を見てみたいという気持ちがにわかに沸き起こる。ハウスキーパーが管理しているという実家は、あのままあり続けているのだろうか。自分を支えてくれたグランドピアノ、あの凝った空気の廊下、重々しいリビングのシャンデリア、いつも足音さえ忍んで早足で過ぎた玄関。――自分は実家を愛してはいなかったのに、そればかりか、憎み、そこから離れようと懸命にもがきさえしていたのに。今、はっきりと思う。実家を見てみたい。でも今からはライブなのだ。そんな時間的余裕はない。でも実家からあのライブハウスまでは、あの時、電車でものの数十分で着いた記憶がある。車で少し寄り道をするくらいなら……、でもそれをメンバーに何と伝えたら良い? そもそも一体何のために? 誰もいなくなった、空っぽの家を見て何になるのか。そこに父母の幻影でも観られれば満足するのか。タツキは一人黙しながら、ひたすらアクセルを踏み続けた。

 「……そういやさ、今から行くライブハウスって、お前んちの実家の近くなんだろ。」レンがふと思いついたように言った。

 タツキはぎょっとしたように目を丸くする。「……あ、ああ、まあ。」だから声は張り付いたように凝っていた。

 「ちっと見てみてえな。」レンが言った。「今の家よりも豪勢な家なんだろ? お前が生まれ育った家。」

 「だよなあ。こいつがどんな坊っちゃん生活送って来たのか興味あるよ。」コウキがにやつく。

 「な、……何だよ、坊っちゃん生活って。」タツキは必死に作り笑いを浮かべた。

 「だって普通、お手伝いのばあさんが住み込みでいて、先祖代々医者とか、そんなの人生で掠った経験さえねえもん。外からちらっとさ、見てみるだけ、いいじゃん。」ショウがそう言ってタツキの肩を叩いた。

 タツキは堪えようとしてしかし、微笑を漏らした。願ってもいなかったことの運びに、安堵と歓喜とが胸中に温かく広がっていく。景色さえ滲んで見えるような気がした。「しょうがねえなあ。……じゃ、外から見るだけだかんな。」


 いざ、最寄りのインターを降りると、記憶の中の風景がみるみる現実のものとして広がっていく。

 「へえ、意外。そんなに田舎でもねえのな。」レンが呟く。

 「この辺だけな。」タツキは勝手知った風に実家へと車をどんどん走らせていく。「ちっと行けば田んぼばっか。夏場はカエルがげーこ、げーこ、うるせえのなんのって。チャリで轢き殺したこと、あったなあ。」

 「……ほお。ここいらがお前の故郷なんだな。」車窓にへばり付くようにしてコウキが尋ねる。「俺んちと変わんねえなあ。」

 コウキの実家は北関東の外れにあり、電車が三十分に一本しかないのだと笑っていたことがあった。

 「北関東から上は大して変わんねえのかもよ。」

 「懐かしいか? ……つってもこの前来たばっかりか。」レンが静かに言った。

 「そうだな。」

次第に言葉少なになっていく。

 何度も通ったピアノ教室への道、中学校の通学路、小学校の通学路、それから幼い頃よく行った公園、僅かの期間だけ通った塾、タツキはそれらに目を細めて車を走らせた。

 やがて「もう着く。」タツキはそう独り言つように言って、「ここ。」そして徐行し、停まった。

 「マジか!」真っ先に感嘆の声を上げたのは、レンである。「おい、あれ、何つったっけ、……風見鶏! ほら、屋根の上んとこ!」

 タツキは無言でエンジンを止める。

 「ふう、やれやれ。着いた着いた。っつってもこの前来たばかしだけどな。」

 タツキがシートベルトを外し、外に出ると続いて三人もバンからぞろぞろと降り出した。

 「うわあ、マジか! 映画にでも出て来そうじゃねえか。幽霊屋敷のキレイ版。」コウキが思わず叫ぶ。

 「何だよ、それ。」タツキはわざと顔を顰めてみせる。

「つうか、つうか、こんな所に住んでる奴がよくワイドグライドの楽屋に平気で住めたんじゃねえの。落差半端ねえぞ。月とすっぽん。」レンが家を見上げながら言った。

 「俺もそれ、無茶苦茶不思議だ。」ショウも頻りに頷く。

 タツキは門扉を開けると、美しい芝生の茂る庭に敷かれた石畳の上を、三人を先導するように歩いた。

 「うわあ、マジで凄ぇ。どっかの王様が住んでるつってもおかしくねえ。バラとか咲いてるし、ほら、バラ!」

 あれは清子が丹精込めて世話をしていたものだ。タツキはさすがに脚を停めて、アーチに絡みつつ真っ赤に開いた大輪のバラを見つめた。そうだ、と携帯を取り出し、写真を撮る。ハウスキーパーがきちんと世話をしてくれ、こんなに美しく咲いていると知れば、清子は喜ぶであろう。家に帰ったら一番にこの写真を見せてやろう。次いで、タツキは無言でポケットに入れたキーケースを取り出す。

 「お前、鍵持ってるんか。」

 「一応。」

 タツキは玄関の前で中腰になり、玄関を開けた。

 「うおおおおお。」

 タツキはぞんざいに靴を脱ぐと、「何も出せねえかんな。」と断り、誰もいない家の中を見回した。

 「美術館じゃねえか、美術館。」

 「こりゃあ、住み込みのばあさんが出てきてもおかしくねえや。」

 「マジかあ。」

 タツキは何だか無性に落ち着かなさを覚え、「行くか。」と身を翻した。

 「え、もう?」

 こんな長髪の男どもが自分も含め、何人も家を訪れたとなれば、両親は不快であろう。自分の友人、というだけで激昂するやもしれぬ。ともかく、タツキにとっては死者を冒瀆する行為に突如思え出し、鼓動が厭に高鳴った。タツキは忙しなく玄関を一人出た。すると目の前には大きな白鷺が番いであろうか、二羽、佇んでいた。今しがた入って来た時いなかったはずなのに。タツキは驚いて足を停めた。

 この辺りに棲息しているのであろうか。否、そんなことはついぞ聞いたことがないし、実家にいた時に見たこともない。

 タツキはごくり、と生唾を呑み込んだ。白鷺は全く動じることもなくタツキを見つめている。ちょうど一人と二羽はしっかと視線を拮抗させる形となった。

 さらに、白鷺は優雅にも見える足取りで、タツキに近づいて来た。思ってもいない事態に、タツキは戦いた。白鷺はしかし全く動じることなくタツキの目の前まで来ると、深々と頭を下げたように、見えた。最初はくちばしで何かを探しているのかとも思ったが、くちばしは固く閉ざされ、地に着いたままである。

 タツキはふと、「母さん……?」と口にしていた。それは一度言葉にしてしまうと、非常に残虐でそれでいて現実味を帯びてきた。タツキは憑かれたように、次の一言を発した。「父さん?」

 白鷺たちは揃って頭を上げた。真っ白な体躯に漆黒の瞳が濡れたように輝く。それはあたかも涙を浮かべているようにも見え、タツキの鼓動は痛い程に大きく打った。白鷺はその瞬間、示し合わせたように一度に飛び立った。大きく羽根を上下に動かして、白鷺はみるみる飛び去って行く。

 その時タツキの後ろで玄関が開いた。「いやあ、玄関先からでもさ、本当の金持ちの家ってえのがよくわかった。」

 しかしタツキは振り返りもせずに、ただ茫然とどんどん小さくなりゆく白鷺の姿を見詰めていた。

 「何お前、どうかした?」

 タツキは体を硬直させたまま、微動だにせず空を見つめていた。

 その視線の先に庭の鳥の姿を確認したレンが、「おお、あんなでけえ鳥が家に来るんか。さすが金持ち。凄ぇな。」といささか見当違いの言葉を述べた。

 タツキは泣きたくなった。あの汚れなき大鳥の姿には、誇り高く毅然としていた父母の姿を思わせるに十分であった。それは今自分が郷愁に駆られているからなのか、それとも真に父母の権化なのであろうか。

 タツキは思念を振り払うように、首を振った。「まだ、……ちっと時間あっかな。」ようやく発したタツキの声はくぐもっていた。

 「ああ、まだ全然大丈夫だろ。高速全然混まなかったしな。」コウキが言う。

 「もう一つ、寄りたい場所があんだ。」

 三人は無言で見つめ合った。

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