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その夜のことであった。アオイを寝かしつけた後、清子がタツキの部屋にやってきた。
「タツキさん、タツキさん。」ノックと同時にそう扉の向こうから、一応潜めてはいるものの忙しなさげな声がする。
「どしたの?」清子が部屋にやってくるなどということは今までなかったので、タツキは不思議に思いつつもすぐに扉を開けた。
「あの、……ちょっとおよろしいですか?」
「いいよ。別に、ギター弾いてただけだし。」
清子はタツキの部屋に入り、扉を閉め立てるなり、「夜分遅くに済みません。あのですね、今日、もしかすると、アオイさんがお話になったかもしれないのです。」と言った。
「へえ。あ、そう。良かったじゃん。」タツキは平然と答える。
清子が思った程タツキの衝撃はなかった。
「あのですね、モモさんとお喋りしてたかもしれないんです。」
「へえ、モモと。」まあ、いつも仲良くしているのであるし、とまたもやタツキはのんきなことを考える。
清子はごくり、と生唾を飲み込み、捲し立てるように言った。
「あのですね、お夕飯を作っておりました時に、リビングでモモさんがアオイさんに向かってにゃあにゃあ鳴いておりまして。その時に、どうもモモさんではない声が混じっていたように思えたんですよ。それでふと、視線を上げましたらアオイさんがお口を、こう、ちょこっと、お開けになっていて……。おそらくあれは、アオイさんがモモさんとお話をされたのではないかと……。」
「ほお。アオイが『にゃあ』って言ったんか。」
「……でもですね、わたくし、確認できなかったんでございますよ。すぐその場で『今お話になられました?』とでも聞けばよかったのかもしれないのですが、カウンセラーの先生に、アオイさんがお話をされないことを、あんまりご本人の前で心配したり悲しんだりしてはいけない、極力こう、普通にしているよう申し付けられておりましたので。」
「ああ、そんなこと言ってたなあ。」
「緘黙、になるお子さんというのは、ある日突然喋りだすことがあるそうなのですが、そういうことになりましても、あんまり大騒ぎしてはいけないと言われているんです。とにかく、ありのまま、喋らなくても喋っても、アオイさんをそのまんま、受けれていくことが大切のようでして。」
「そうだよなあ。」自分の一挙手一投足に大騒ぎされるのはあまり気分のいいことではなかろう、とタツキは思った。
清子は眉根を顰め、「タツキさんは、……あまり驚かれませんですねえ。」と遂に言った。
「まあ、そりゃあ、アオイが喋った方がいいとは思うけどさ、あんまりそれを周りがうるさく言うのもイヤだろうなって思って。」
「そうなんですよ。私もアオイさんの前ではあまり、お話のされないことを改めて、こう、言葉にはしないようにしているのですが、でも、そろそろ幼稚園の方が……。」
「幼稚園?」
「そうでございます。……アオイ様は三歳。来年幼稚園にご入学されるお年なのでございます。」
「そう、か……。」タツキはようやく打たれたようになった。
「そうなんでございますよ。……でもですね、幼稚園には面接試験などがございまして。」
「面接試験だあ?」タツキは顔を顰める。「幼稚園の分際でそんなのがあんのか?」
「はい。タツキさんも受験なされたじゃあございませんか。覚えてらっしゃりませんか?」
「全然。」
「まあ。あれだけ積み木と、お菓子の分けっこがお上手でございましたのに……。それはともかくと致しまして……、言葉のお出にならない子は、……幼稚園に受からないのでございます。」
「マジか……。」タツキは思わずギターを落としそうになった。
「そればかりではございません。親のない子、というだけで受験のできないところも少なくはございませんです。お月謝が払えないなどと思われているのでございましょう。」
「い、否、遺産はいっぱいあるじゃねえか。」
「通帳をお見せでもしなければ、信じては頂けませんでしょう。」
タツキの顔が一気に蒼褪める。「じゃ、……アオイは幼稚園に行けねえのか。」
清子は苦々しくも、肯いた。「今のところ、厳しい状況でございます。」
「でもさ、そういう所ばっかじゃねえだろ? 少しっくらい喋れなくても、親がいなくても、何とかなるところは探せばあんじゃねえの? ここは東京だし。幼稚園なんていっぱいあるだろ。」
「ええ。……今、探しているところでございます。でも、もし、もしですが……、見つからなかった場合には……。」
清子はその後を言葉を継げなかった。
「わ、わかった。」タツキは頭の中が真っ白になるような気がした。「……でもさ、もし幼稚園なんか行けなくたってさ、小学校はほら、義務教育っつうやつだから行けるだろ。勉強はそこからだから、何も焦って無理やり幼稚園なんざ生かせなくたって、人間死にやしねえよ。な。」
「それはそうでございますが……」清子は小さく俯いた。「でも、うちで私のような年寄り相手にしているよりも、同じ年齢のお友達が大勢周りにいて下さった方が、こう、脳に刺激というものがあって、お喋りがお上手にお出来になるかもしれませんですから。私としましては、できるならばお話ができるようになって、そして幼稚園に入れて頂きたいと、そう思っているのでございます。」
そういう期待が、清子にアオイとモモとが喋っているという幻聴を聞かせたのではないか、とふとタツキは思ったがさすがにそれは口にはできず、腕組みしたまま空の一点を眺めた。
「そうだな。たしかに、俺と清子と、それから猫と顔突き合わせてるだけよりかは、友達と幼稚園行って遊んできた方が脳に刺激はあるよな。でも、そのためにはちょっとでも喋れねえとダメっつう訳か。……アオイは素直で優しい子だし。字だって書けるし、姉さんに似て頭もいいんだし、喋れさえすれば、一発合格だよなあ。絶対。」
清子は哀れなぐらいに何度も何度も頷いた。
「そうでございますよ。三年間も小さなお部屋から出たことがなかっただなんて、思えませんぐらいに、真っ直ぐで心の綺麗なお子ですよ。」
「そこを、わかって貰えればなあ。」
とは言え、タツキはどうすればアオイが幼稚園に入れるのか、その前に面接試験を突破させるために、アオイに何をしてあげたら喋るようになるのかは一向にわからない。自分がアオイにしてあげることと言えば清子にするのと同じく話しかけたり、ギターを聴かせたりすることぐらいで、それで喋れるようになるのであれば幾らだってするが、現状では変化がないのである。それ以外で何をしたらいいのか。タツキは途方に暮れた。
「……でも、まあ、アオイは普通の子とは全然違う環境にいたんだからさ。普通の子とおんなじように四歳になったら幼稚園、なんてあんまり窮屈に考えねえ方がいいんじゃねえの? あくまでアオイの成長に、こう、合わせてさ。」
「そうで、……ございますね。」清子はどこかほっとしたように肩を落とした。
それを見てタツキは清子が、アオイの成長に対する責任を一身に背負っているという事実に思い当たった。
「……俺が偉そうにアオイを病院から連れ出すなんつっといて、実際は何もかも清さんに任せきりで、……本当ごめんな。」
「な、何を仰います!」
「否、カウンセリングだって幼稚園探しだって、何から何まで清さん任せで。俺はバンドだバイトだって自分のやりたいことばっかで。幼稚園のことなんて全然考えてもなかった。……本当ごめん。」
「何を仰いますか!」清子はタツキの手を力一杯に握りしめた。「タツキさんがアオイさんのことをお考えにならなければ、アオイさんは今でも病院の中だった訳じゃあないですか。私がどんなにアオイさんのお世話をしたいと申し出ましたところで、……アオイさんとは血の繋がりがない訳ですし、一緒に暮らすのは大層難しいと弁護士さんも仰いましたよ。入院費が尽きた暁には、施設に行く他ないとまで、言われましたでございます。そこをタツキさんが、助け出してくだすったのじゃあありませんか。それにタツキさんが音楽家としての道を歩んでいらっしゃるのは、私の昔からの夢であった訳でございますし。これからタツキさんがウィーンに行って、音楽家として大成なさることが、私の夢なんでございますよ。だのに、タツキさんがアオイさんと私をここまでお連れして頂いて、私はそれだけで毎日ありがたくて、ありがたくてならないのですから。そんな、謝ったりは、しないでございまし。」
タツキは面食らったように清子を見詰めた。「あ……、ありがと。」
清子は大きく肯き、「ですから、タツキさんはこれからも音楽のことを第一にお考えになって。アオイさんのことは大丈夫でございます。言葉が出ても、出なくても、幼稚園に行けても行けなくても、命ある限り私がお世話をさせて頂きますから。」
とは言え、自分がすっかりアオイに対して責任を放棄してしまっていい訳がない。タツキはどうすればアオイに言葉が出るような刺激を与えられるのかを、清子が部屋を出て行ってからも暫く考え続けた。




