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三人は夕食を摂り終えると再び病室に戻り、腹のくちくなったアオイを部屋の風呂に入れベッドに寝せた。
清子はアオイの荷物をまとめ、そこでようやく、清子は重い口を開いた。
「本当に、本当に、タツキさんにアオイさんをお任せしてよろしいのでございましょうか。」
「だって、しょうがねえじゃん。」タツキは口の端に笑みを浮かべつつ、寝息を立てているアオイの額を撫でた。「たった一人の家族、なんだし。ああ、でもね、渋々って訳じゃねえんだ。そりゃさ喋れねえってのを聞いた時には、難しいなって思っては、いた。でもこうして会ってみればさ、……可愛いじゃん。」
清子はおそるおそるタツキの顔を見詰める。
「痣が何だっつうの? 全然気になんねえよ。……そうそう、俺さ、今東京でバンドやってんだけど、こんな化粧わざわざしてる連中いっぱいいるぜ。ブラックメタルってやつやってる連中はさ、コープスペイントっていって、白塗りして目の周り黒くすんだ。きっとアオイのこと見たら、マジかよ生まれつきかよ、カッケーってみんな羨望するよ。」
清子は不審げにタツキを見つめる。
「そんな怖い顔すんなって。まあ、きっと何とかなるよ。あ、もしかして、ずっとあそこに住んでたかった? ……そりゃあそうだよなあ。清さんはそれこそ俺が生まれるまえよりも、ずっとずっと長いことあそこに住んでる訳だし、家事も一人でやってたわけだし、愛着もあるよなあ。だったら清さんにはこっち残って貰って……。」
「いえ、そういうことではございませんのです……。」
「あ、そうなの?」
「私は、タツキ様とアオイ様のいる所でしたら、地球上どこだって参りますよ。北極だって南極だって、どこだってものとも致しません。」
「……。」
「でも、あのおうちに関しましてはご相続されるのはタツキさんということになりますから、まあ、そのことにつきましては弁護士さんとお話をしていただいて。明日おうちの方に来て頂くこととなっておりますので。」
「あれ、……俺の家、なのか。」
清子は眉根を寄せてタツキを凝視する。
「お辛い思い出もおありかとは存じますが、法律上ではそのようになっているようですよ。」
「何か、妙な気がすんな。」タツキは苦笑を浮かべ、「……親父も母親もそんなこと、ちっとも考えてなかったろうにな。」と呟いた。「頭のいい姉ちゃんがさ、医者になって病院継いで家継いで、そうやってやっていくつもりだったんだろうに。……なんか、全部台無しになっちまって、……気の毒だな。」それはタツキの口から初めて出た、家族に対する同情であった。
清子は哀し気に顔を顰めた。タツキが出て行って以来、家では誰もタツキのことを話題にすることはなかった。盛んに話題に呈されるのは、姉の卒業と国家試験合格、結婚、姉の夫の出世、姉の出産(アオイが産まれた直後からそれは立ち消えたが)、そして五体満足で生まれた待望の長男の一挙手一投足。おそらく当初は意図的に避けていたタツキの存在が、そうしている内にすっかり彼らの頭から消えてしまったのに相違無かった。
「人間って、一体どうなるかわからないものですね。」清子はそう呟くように言った。
タツキと清子は思いのほか遅くなってしまったので、病院敷地内にある遠来客用のホテルに一泊すると、翌日朝一で退院の手続きを行い、アオイを連れて早々に帰宅の途に着いた。アオイの荷物は結局のところ、着替えの数枚と、絵本数冊、うさぎのぬいぐるみが一体に口述筆記に使うノートブックが一冊。ただそれだけであった。あいつらはあんなに金を持っていて、自宅には絵画だ彫刻だというものまでが溢れているというのに、孫に対する扱いはこれかとタツキはにわかに憤りを覚えたが、すぐにもうこの世にはいないのだ、という事実がその怒りを行き場のないものにしてしまった。
清子に手を繋がれ、初めて病院を出たアオイは、その青空に、樹木の緑色に、まず息を呑んだ。昨日とは打って変わって、その日の空気は、陽光は、明らかに春の到来を告げていた。「退院を今日にして、本当に良かったですよ」と清子が朝一番に言ったことをタツキは胸に反芻していた。そして生まれて初めて春風に靡いたであろうアオイの前髪を、タツキも何か尊いものであるかのように見詰めた。
そのまま車に乗せられたアオイは初めて見る外の景色に目を大きくして、何時間もの間、ずっと車窓の風景を見ていた。タツキはその様を哀しく思いつつも、いちいち説明してやることを忘れなかった。きっと言葉も掛け続けていれば、発してくれるに違いないと、そういう思いもあったのである。
「アオイちゃん、あれは何だかわかる? 山だよ、山。てっぺん白いでしょ。あれ、雪。冷たくて真っ白なの。冬になると空からどっさり、降るよ。」
アオイはぼんやりと遠い目をして山の頂を見つめている。
「それからあれは、お城。昔の偉い人がね、住んでたんだ。今から帰る所はあんなに立派じゃないけど、それなりに立派だよ。アオイちゃんのひいおじいちゃんが一生懸命働いて建てたおうちだからね。」
清子はタツキが祖父母を讃えたことに胸が苦しくなった。あくまでもアオイには彼らの非情さを言わぬ心算であるらしいことを知って。いくら誰も会いに来ないとは言え、幼子に自分は親祖父母から捨てられたのだと、そんなことを突きつけるのはあまりにも酷である。それをタツキが解してくれていたことに、胸が温かくなった。
アオイは城をじっと眺める。
「もっともっと世の中には楽しいことがあるよ。アオイちゃんが思わず声を出したくなっちまうようなことも、いっぱいあんだから。」
車はぐんぐん道路をひた走っていく。それがどんな光景をアオイに齎しているのか、そんなことをタツキはアオイの大きな瞳を見ながら考えていた。




