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大きな総合病院なだけあって、そこは喫茶店というよりも広々としており、レストランといった風情であった。しかし見舞客もいなくなる頃合いであるためか、なかはがらんと空いていて、ほとんど三人の貸し切りの状態であった。もしこれが満員であったら、奇異な目でアオイを見る人がいるのだろうとタツキは勝手に憎しみを募らせた。席に案内したウェイトレスはさすがにアオイにちらと視線を遣っただけで、とりわけ奇異な眼差しは向けなかったが、それも彼女がこういう特殊な場面で働いているからだろうと思うとタツキは胸を重くした。
ガラス越しに大きな月がはっきりと見える、窓際の席を案内され、タツキは席に着くなり「さあ、いちごはあるかな。」と言ってメニュー表を開いた。ドリア、スパゲッティ、サンドウィッチ、それからショートケーキに目当てのいちごパフェもあった。
「いちごいっぱいあるじゃん。」タツキは嬉し気にメニュー表をアオイに差し出す。「どのいちごにする? パフェでもケーキでも、タルトでも何でもいいよ。」
清子ははらはらと周囲を見回している。
アオイは恥ずかしそうに肩を竦めた。
「俺はねえ、えびドリアにしようかな。清さんはこれだろう? たらこスパゲッティ。清さんはいつだって和風が好きだもんなあ。」
「……え? ああ、そうですねえ。」アオイが人の目に触れぬか心配をしているのだろうとタツキは思ったが、一向に気にすることなくタツキは「アオイちゃんもご飯食べてからいちごにしよっか。」と言った。
「……アオイ様はどれがお好きでしょうかねえ。」清子は周囲の人気のなさにそろそろ幾分安心した風になって、メニュー表をアオイに近づけ、「さあさ、どれも美味しそうですねえ。サンドウィッチ、色々種類があって美味しそうですよ。」と微笑みかける。途方に暮れていたように見えたアオイはそれに小さく肯いた。タツキはほっとしたように、早速店員を呼び、卓上に置かれた氷水をやけに勢いづいてがぶがぶと飲んだ。
「アオイ様はこういった所は初めてなんでございますよ。ねえ。ですから、戸惑ってしまいますよねえ。」小さく体を固くしたままのアオイにそう語り掛ける。
「あ、そうなの。」タツキはそんなことは既に百も承知していたので、そう力強く即答し、「じゃあ、これからもっともっといろんなことを経験していかねえとな。」と言った。「公園に動物園、水族館に遊園地。山に海に温泉地。まだまだ他にもたくさんある。な、アオイちゃん、俺と一緒にこれからあっちこっち行こうな。」
アオイは目を大きくした。清子もその隣で同じような顔をしているのがあまりにもそっくりで、タツキは可笑しくてならなかった。
「アオイちゃんは、これから俺と清さんと一緒に暮らしてね、色んな所にも行くんだよ。アオイちゃんは何が好きかなあ。動物は、好き?」
アオイはスケッチブックを持ってきていない。清子がハンドバッグからボールペンを取り出し、テーブルに敷かれたペーパーナフキンを指し、ここへ書いてごらんなさいとでもいうように促した。アオイは戸惑いながらも、
う・ち・ぎ
と書く。
さとちを間違えたものの、タツキは「ウサギか。」と頷く。「じゃあ、ウサギ抱っこしに行こう。きっと動物園に行けばかわいいのがいっぱいいるから。あとは何がいい?」
再びアオイは考えながら、
ね・こ
と書いた。
タツキは眉根を寄せた。ねこは動物園にいるのだろうか、そんなことは聞いたことがない。
「じゃあ、引っ越しをして落ち着いたら猫を飼おう。猫じゃらしで遊んであげるのがアオイの仕事だ。」
清子ははらはらしたままタツキを見つめている。
「今度のおうちは大きいからね。何だって飼えるよ。」
清子ははっきりと息を呑んだ。タツキは東京での生活をどうするつもりなのか。音楽家として大成するのに上京した(と信じている)その生活は、絶たれてしまうのであろうか。無論清子にとってはどちらの子も大切である。タツキも、アオイもどちらも幸福になれる方法はないのであろうか。清子は心配そうに二人の顔を見守った。
そこに注文した料理が運ばれてくる。沈黙の中でそれらは並べられた。
「あの、その、おうちって?」意を決して清子が言った。
「ああ。」タツキはドレッシングを順繰りに掛けてやると、「だから、これからは三人で暮らしていくんだよ。それがいい。」と言った。
清子は盛んに目を瞬かせる。
「悪いけどさ、俺はバンド続けるから、清さんにも東京来て貰う形にはなるけどさ。東京に三人で暮らせる家を借りよう。ダメかな。」
「い、いえ、ダメだなんて……。」
清子に取ってそれは唐突に過ぎる話ではあったが、よくよく考えてみればそれが一番妥当であるような気もした。夫を亡くし、子供もなく、頼るべき親戚筋はない。だからこそ清子からしてみれば岩村家に住み込みで世話をするよりは、世話になってきたと言う方が正しいぐらいなのである。清子は本当に呆れ果てるぐらいに、今更ながらはっとなった。旦那様、奥方、そのお嬢様、その旦那様、ご長男、その全てを同時に亡くすなど考えたことがなかったが、実際そうなってしまった今、もう自分の行き場はない。長年にわたる過分な給料を与えられ、そしてとりわけ使い道というものもなかったため、貯金というものはあるのであるが、今まで忙しなく、そして家族のように岩村家に仕えてきた日常がすっぱりと終わりを告げ、たった一人きりで生活するなど、考えただけで寂しかった。痛苦さえ覚える程に、寂しかった。
「タツキ様、それでは、その……。」
「ほら、冷めないうちに食いなよ。食いながら話そう。」タツキは照れ隠しのように、大口開けてえびドリアを頬張った。「あっつー!」
清子は思わず噴き出す。「ほらほら、お気をつけなすって。……タツキ様は、昔っから変わらずせっかちでいらっしゃるんですから。」
「そうそう。だから清さんにいてもらわなくっちゃ、困る。あのね、俺は今家がないの。住んでる所はライブハウス。ライブハウスっつってもわかんねえか。あの、ロックバンドとかがコンサートやる場所。そこで住み込みで働いてるの。」
「あら、住み込み。私と一緒でございますのねえ。」清子はアオイにサンドウィッチを取ってやりながらにこにこと答える。
「あ、そっか。清さんも住み込みで家がない人か。……ま、とにかく三人で暮らせる家を探すよ。俺、今まで五年間家賃も電気代も何にもなくって、他もあんま金使ってこなかったから、ちっとは貯まってんだ。」
「私もでございます。お父様、お母様が過分なお給料を下すっていましたから。」
「そっか。じゃあ、話は決まりだな。アオイちゃん、わかった? これから東京って所に行って、三人で暮らすの。俺と、清さんで。新しい家族になるの。」
アオイはきょとんとタツキを眺めていた。
――家族。その単語を聞いた清子は胸が痛くなった。喉の奥が締め付けられたようになった。長年欲しながら得られなかったそれが、今、この上ない不幸の上に齎されようとしている。清子は必死に涙を堪えた。自分の行く末が定まったからだけでは無論ない。長らく気に留めながらも、露骨に愛情を示すことの憚れていたアオイの幸福が今ここで初めて保証されたように感ぜられて、ただただ嬉しくてならなかったのである。
アオイの見舞い一つを申し出るのも、遠慮が要った。タツキの姉に言うのではない。母の承諾を得なければならなかった。――そろそろ季節の変わり目ですから、着替えをお持ちしたいのですが。そろそろお身大きくなられ、お洋服が窮屈になってきたそうです。歯ブラシの替えを、シャンプーの補充を。そう伝えてはどうにか月に一、二度こっそり家を出た。母は正直その話をしたがらなかったし、姉夫婦に至っては最早禁句の扱いであった。でも清子は一日たりともアオイを忘れることができなかった。顔に痣を持つがために、家族から消されようとしている小さな子。生きながら忘れ去られ、その意味において亡き者とされている子に愛情を注いでやりたかった。少なくとも清子にとっては、アオイは家族から排除されてしかるべき子どもではなかった。タツキ同様に、可愛い我が子であった。
しかしそのアオイのことを忘れた日が数日ばかり、あった。例の事故の日から、通夜、葬儀に至るまでの間である。病院葬という形にはなったものの、あれこれ清子も目まぐるしく働かなくてはならず、その衝撃、悲しみ、信じられないという驚嘆、全てが清子の胸中を襲い来たのもあって、しばしアオイの存在を忘れ果てた。
悲痛と衝撃の引き摺るまま葬儀が終わった直後、弁護士がふと思い出したようにアオイの話をし始め、清子もあっとなったのである。そこで彼はこのまま病院にずっといさせると言っても、それには限度というものがあるし、だとするならば施設に行かせる手立てを進めていくべきであると進言したのであった。その背後には、清子と血縁関係がないことに加え、アオイの父親の親族もまたアオイの養育を拒否したということがほのめかされていた。
痣がそこまで悪いことであるとは、清子には思えなかった。見舞いに行って、病室で大人しく自分に抱かれて食事を摂ることもあれば、時にはお気に入りのぬいぐるみを愛しそうに抱き締めている時もあった。字の覚えも早かったし、絵も上手に描いた。よく清子は病院の図書館から絵本を借りてきて、読み聞かせてやった。話こそしなかったものの、興味津々で絵本の世界に見入っていた。痣があるのと、話せないこと以外、全く普通の子と変わるところはないのだ。血の繋がりはないとはいえ自分が育てて来たサクラやタツキと、同じであった。だから清子は施設に入れる、ということをもう二度と会えない、耐え難いことのように思った。どうにかして自分が養育権を得られないかとも思ったが、やはりそこには血縁のなさが種々の壁を創り上げ、不可能であるようだった。弁護士も不可能と言明する訳ではないが、と言葉を濁し、タツキの行方を捜すことに一層力を注いだ。しかしタツキはどこに住んでいるのやら、なかなか行方がつかめない。つかめた所で、そう仲良くもなかったサクラの子を、それも顔に痣持つ幼子を受け入れてくれるのか、タツキに彼女や結婚相手がいたならば、余計にそんなことは言い出せない。そう思えば清子は途方に暮れたのである。
しかし、今、タツキはアオイを受け入れると、そう提案した。それは清子の心を大きく揺さぶった。今ここにアオイがいなければ、泣き出してしまったに相違ない。そのぐらいタツキに対する感謝で、いっぱいであった。
「ねえ、アオイちゃん、美味しい?」
アオイは驚いたようにタツキを見上げ、小さく肯く。
「そっか、良かった。俺のえびドリアも旨いよ。一口あげようか。」タツキはそう言ってスプーンで掬ってアオイの口許に突き出した。アオイは躊躇いがちに暫くタツキを見ていたが、意を決したようにスプーンに向ってその小さな口を開けた。ぱくり、と頬張り、もぐもぐと咀嚼する。タツキは微笑んだ。
「な、旨いだろ?」
そう言われてアオイがおそるおそる、こくんと小さく肯いた時、タツキの胸中には言い知れぬ歓喜が押し寄せた。
タツキはアオイの頭を撫でた。そこは温かかった。少なくとも先程まであった緊張感、めいた硬直は見られなかった。一方で、アオイのこの自然な温かさを姉も父母も知らなかったであろうことに、言い知れぬ寂しさを覚えた。
「新しいお部屋にはアオイちゃんのぬいぐるみをいっぱい置いて、それから、アオイちゃんの好きなものを他にもいっぱい置こう。何が好き?」
しかし、アオイは不思議そうにタツキの顔を眺めるばかり。
「絵本が、お好きですよね?」
清子に促され、アオイは恥ずかし気に小さく肯く。
「わかった。じゃあ、本棚を置いて、絵本をいっぱいそこに並べて、毎日楽しく過ごそう。」
清子は遂に耐えられず、目頭をハンカチで押さえた。目の前に置かれたピンク色のたらこスパゲティはほとんど減らないまま、ただただ温かく三人の中心に鎮座していた。




