十九.誓約(うけい)再び
スサノオはアマテラスの鏡──奪われた彼女の『魂』を、ついに手にした。
高天原が暗雲に包まれた、あの屈辱の日から……ずっと求めていたものだ。
スサノオの疲弊は限界に達しつつあったが、鏡から漏れ出る陽の気が流れ込み、己の活力となるのを感じた。
「……姉上ッ……やっと、やっと会えた……!」
二度と離すまいと、スサノオは鏡をしっかと懐に抱いた。
だがその喜びも束の間だった。
うぞぞぞぞ……!
ウケモチの矢で両腕を射抜かれ、スサノオの剣で腹を裂かれ爆散したはずの穢れが、再び別の大地に寄り集まり、巨大な影を形作っていた。
「……よもや、吾からアマテラスの魂を奪い返すとはのう……
成長したようじゃな、スサノオや……」
穢れの塊たる醜悪な物体から、イザナミの声が轟いた。
「何度も言うように、オレの目的は姉上の魂を地上に連れ戻す事だ。
母上を討ち果たすために、黄泉の国に来た訳じゃない」
「吾はそなたを褒め称えておるのじゃぞ、スサノオ?
後はその鏡を、黄泉の国の外まで持ち出す。それだけじゃ……じゃが。
それをいかにして為そうと考えておるのじゃ?」
イザナミの声に、嘲るような声色が混じった。
「あの程度の剣で、吾の力を完全に散らす事ができると思うたか?
そなたも疲労の極みに達しておる。吾の追撃を逃れ得るのかや?
それに……そなたの仲間──タヂカラオ、ウズメ、そしてツクヨミを、我が雷神が捕縛しておる。彼奴らは何とする? 見捨てるのか?
よもや鏡を手にした時点で、吾が負けを認め、そなたらを見逃すなどと思うまいなァ?」
畳み掛けるように問いを投げかけ続けるイザナミ。
確かに彼女の言う通りだ。
黄泉の国の地の大半が彼女の行動範囲である上、ここは黄泉の最奥に近い地。
イザナミの追撃を逃れ、地上に出る道のりは困難を極めるだろう。
「……確かに、仲間の大半が捕まっている上に、オレやウケモチ、オオゲツヒメにだって余力なんざ残ってねえ。
これ以上戦い続ければ、オレ達は間違いなく地上に辿り着く前に全滅する」
「……よう分かっておるではないか、スサノオ。さすればどうするのじゃ?」
「オレは……母上を信じる。いや、信じたい」
スサノオは身に帯びし十拳剣を高々と掲げ、言い放った。
「だから……オレは今から誓約を母上に申し出る」
スサノオの言葉から出た意外な単語に、イザナミは眉を潜めた。
「誓約……じゃと?」
「そうだ。オレが高天原に上る時に、母上が教えてくれた……誓約だ」
誓約。日本神話においてたびたび登場する、選択に迷った時に行う神頼みのようなものだ。
行う前に、二者択一の条件を提示するのが一般的な誓約のやり方である。
「今の吾にその誓約、受ける利点があるのかや?」
「無いな。だが……この圧倒的優位にある状況で、母上の勝ちは見えているはず。
母上が正しく勝利できるなら、誓約を受けようが受けまいが、結果は変わらないハズさ。
にも関わらず受けるのを渋るのは、オレたちが正しく、負けるのを恐れているって事になるぜ」
スサノオの屁理屈にも似た口上に、イザナミは露骨に声を荒げた。
「ふん……しばらくの間に、よう口が回るようになったのう。
今一つ訊こう。どのようにして誓約の証を立てるのじゃ?」
「オレの……この十拳剣を、オレの歯で噛み砕き、神を産む。
オレ達が正しければ、産まれる神は善神となり、荒ぶる母上を鎮める力を持っている筈さ」
「……痴れ者がッ!」イザナミの怒号が響いた。
「誓約の神産みを何と心得ておる!?
この地は穢れし黄泉の地ぞ! 剣を清めるための神川もないのじゃ。
そのような状態で神を産めば、そなたは……!」
「ああ。オレの剣は姉上から授かり、オレの所有物となった。
そして今は、母上の穢れた血を吸っている。清めもせずに噛み砕けば……
誕生するのは十中八九、どうしようもない悪神の類だろうな。
最悪の場合、オレ自身が母上の穢れに侵され、命を落とすだろう」
「そこまで分かっていながら、何故──!?」
「だからこそ、さ。オレたちが無事に脱出できる目も。
今この状態で、オレの剣の誓約が成功する目も。
ハッキリ言って一割にも満たない、分の悪い賭けだ。
でなきゃ、母上がここで承諾する理由も利点も無い」
スサノオの悲壮とも言える決意と言葉に、イザナミは絶句していたが……やがて諦めたように、吐き捨てるように言った。
「…………好きにするがよい。後悔するでないぞ!」
「さすがだぜ、母上。感謝する」
「馬鹿野郎、スサノオ。駄目だッ!」
「そうよスサノオくん! あたし達がこうなったのも、自業自得なんだからッ」
大雷の糸に囚われた状態のタヂカラオとウズメから、制止の声が上がった。
「タヂカラオ。ウズメちゃん。
ここまで一緒にやって来たのに、今更見捨てられる訳ねぇだろ?
……ごめんな。オレの頭じゃこんな方法しか、思いつかなかった」
スサノオは目を閉じ、精神を研ぎ澄ませた。
(……最悪、オレの命で贖ってもいい。姉上、どうかオレに力を貸してくれ。
姉上の魂を地上に連れ帰り、仲間の皆も救いたいんだ。
図々しい願いなのは、分かってるけどよ……!)
意を決し、スサノオは己の持つ神剣の刃に歯を立て、一思いに噛み砕いた!
バギン!
鋭い金属音と共に、十拳剣の刃は砕け、周囲に飛び散る。
どぐん。
同時にスサノオの口の中で、黄泉の瘴気とイザナミの穢れが凄まじい勢いで荒れ狂った!
「う……ぐおおおおおおおッッッ!!」
頭が破裂するかと思えるほどの激痛と不快感の濁流が襲ってくる!
スサノオの思考が苦痛で埋め尽くされた刹那──彼は全身から血を噴き出した。
「がはッ…………」
白目を向き、地に倒れ伏すスサノオ。
それを見守っていた仲間たち四柱のうち、タヂカラオとウズメは青ざめて言葉を失い、オオゲツヒメとウケモチは悲痛な叫びを上げた。
「スサノオ様、なんという事をッ……
どうか、どうか目をお開け下さいませッ!」
「……スサノオ……畜生めッ……!」
「……我が子ながら、なんと愚かな事よ」
イザナミの声も心なしか、嘲りの色が薄れ、沈んだものとなっていた。
「我が穢れに生きながら苛まれるのは苦しかろう。せめて吾の手で、一思いに楽にしてやろうぞ──」
「オ、大神さまァ……あ、あれをッ!」
突如上ずった声を上げ、イザナミに這い寄ってきたのは、蜘蛛の姿をした大雷であった。
配下の雷神に言われ、イザナミが目を向けた先には。
砕けたスサノオの剣の破片から誕生した……穏やかな顔をした美しい女神の姿があった。




