幕間 戻っておいで
ミイドside
『もう一口だけ食べましょう?少しずつで良いから』
『……』
『獣神様も早く元の明るいあなたに戻るのを願っているんですよ』
口元に匙を運び優しく告げれば、漸く一口飲み込んでくれた。緩慢にでも確実に嚥下した事を確認し、安堵の息を内心で吐く。
あの日くしゃりと意思の無い物の様に倒れてから、シノブさんは何日も目を覚ますことはなかった。無理矢理にでも水を含ませ、辛うじて生きているかの状態に俺の心がきりきりと痛む。目覚めてから数日して漸く僅かでも回復に向かい始めた彼女に、これ以上無い安心と幸せを感じた。
男だからなんだ。年が離れてるからなんだ。似合わないと言われ様と構うものか!好きな娘を自分の手元に留め共に過ごしていけるのなら何だってするさ。例えそれが初めてする事でも、苦手な事でもな。
部下には隊長への文を預けた。彼女の現時点までの状態を知る限りで記したものだ。そして末文に俺の決意も載せた。シノブさんがダルムで紅涼を過ごした4ヶ月、何も行動を起こさなかったわけじゃない。優秀さや性格に目星を付けていた部下3人に俺が持つ知識や経験上の技能を叩き込んだんだ。彼女が何と言おうと俺は共に居続ける。いや違うな……ただそばに居たいんだ。これは俺の欲でしかないけれど。
薫花の1月が終わる頃、部下が1人シダ村へやって来た。隊長から俺への文を持参しその内容の殆どが俺に対する文句だった。
『影に隠れて副隊長辞める準備をするな』とか、『勝手に派遣した隊から居なくなるんじゃねえ!』だとか。20行に渡る慨嘆の連なりに読みながら苦笑が漏れる。良くもまあ、こんなに不平不満が出て来たものだと逆に感心する。全く。
『お前の愛馬は餞別にやる。シノブを泣かしたら俺達が黙ってねえからな!』
お、俺達?俺達って……え、俺、ダルム兵敵に回したのか?もしかして。
応援してくれたのか敵宣言なのか良く分からない締め括りで文は終わっていた。目の前にずっと待ってる部下だったダルム兵はじっと俺を見ていて、読み終えたのが分かったのか徐に口を開いた。
『副隊長だったあなたの決断をどうこう言うつもりはありません。ですが1発入れさせて頂きますよ?ミイド・タドラ殿。これは我々ダルム兵の総意です。……皆の人気者と癒しを奪ったこの憾み、思い知って下さい!』
『ッ、?!』
何が何だか分からぬまま、顎へ下から1発拳を食らう。渾身の1撃だったらしく、かなり痛い、いやびっくりして反応が遅れたのもあるが、それよりも。
『……人気者、癒し?』
『知らなかったんですか。俺達ダルム兵の中で彼女に好意を持つ者はたくさん居るんですよ。訓練では切磋琢磨出来るし、共に話せば楽しくて毎回思わず笑ってしまう。色気仕掛けが皆無だからこそ気が楽で皆と仲良くなれる。他の女性ではまずないことです。凄いことですよ、本当に……』
俺達の好意は友人としてのものだと思われていた様ですが、と少し淋しげに笑うと、寝ていたシノブさんに挨拶して彼はダルムへ帰還して行った。
『精々頑張って下さい、ミイド殿。応援はしませんが、またダルムへ顔を出して下さいよ』
そんな科白を残して。
それから薫花の2月が過ぎても、3月が過ぎても。シノブさんは戻って来ない。目が覚めないわけじゃないし、食事だってダルムの頃に近い所まで戻ってきている。心だけが置き去りなんだ。笑うこともなく、その瞳に光が灯ることもなく。怠惰にその場に居るだけ。……辛い。食事の世話は出来る、1番そばに居るのは俺と獣神様だって自負もある。それなのに力になれていないのが。
潤水に入って暫くして、毎日の様に雨が降るある日。飛沫が掛からない縁側の内側で、柱に寄り掛かりあぐらをかく俺の脚の中にはシノブさんが横座りで俺に寄り掛かっていた。隣には獣神様が居る。俺が彼女を抱き締めるようなこの格好は、潤水に入る少し前から良くするようになった。こうすることで彼女が落ち着くことが多いからだ。時折泣くんだ。その頬をしとどに濡らして、俺には解らない言葉でずっと繰り返し同じ言葉を呟いて、それが赦しを乞うものだと分かったのは獣神様がそう告げられたからだ。
〈『ごめんなさい』……この一言しか言うておらぬ。あの賊共に向けてのものだと思う。シノブは相手が傷付く事を厭うている故、今迄の者共には気絶で全て留めている。もしくは自身が逃げる事で回避しておるのだ。此度の事は……シノブ自身が自身を赦せぬのであろう。だから心の修復を拒んでいる〉
自らの心を治癒することを拒む、とは。
それはつまり……ずっとこのままだということなのか。それでは俺はどうなる。くるくる変わる表情が見たいのに、笑顔が見たいのにそれも叶わないのか?それこそ赦さない。心が壊れそうなら俺が原因から護ってみせる。だからーーー。
『戻っておいで……』
俺と、獣神様の元に。




