幕間 理解の機会を得て
ハッサドside
『陛下どちらへ?』
『ああ、財務部署にな』
問えば短く返ってくるその答は、ここ毎回同じもの。陛下は財務部署が目的というよりは、かの部署に所属しているシノブ殿に会いに行っているのだ。あの下知の通り、彼と陛下は友人関係になったらしい。彼を誘い遠乗りに出かけられた日、遠乗りより戻られた陛下はとても機嫌が良かった。聞けば漸く友人口調にすることに折れてくれたのだという。……そんなに彼の敬語が嫌だったのか、この男は。
シノブ殿の心労を思い、思わず嘆息したのを憶えている。
陛下が彼の下へ良く行くのは、人柄が気に入っているからとダウエル殿から聞いていた。そして彼が淹れる茶と言葉少なな会話を楽しんでいるのだと。
『シノブ殿は茶の淹れ方を知っているのでしょうか……』
陛下の去った執務室で、残った書類の仕分けをしながら独り言ちる。我が国シン国では、茶は高級品に当たる。平民出身のシノブ殿が茶の淹れ方を知っているとはどうにも思えない。が、陛下はそのシノブ殿が淹れた茶を楽しまれている。それは、獣神の契約者もしくは友人としての顔を立てておられるのか、それとも……。
『何を聞きたいのかと思えばそんなことか』
その日の貴族との謁見や諸々を全て終わらせて陛下と2人、ただの幼馴染みに戻り夕餉前の茶の時間を過ごす。その際気になっていたことを尋ねれば彼の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
『別に彼の顔を立てて飲んでるわけじゃない。
シノブ殿の母国では、茶は高価とはいえ努力次第で民でも手が届くものだったらしい』
『……民も嗜んでいるというのか?』
『ああ。茶に精通する者が存在する程に浸透していたようだしな。彼の見せた茶を淹れる所作は美しいものだった。シノブ殿は自分の腕前を『趣味のようなもの』と言っていた。教えを請うて会得したわけでもないから、会得した者に比べれば自分は大したことはない、とも言っていたな』
『……』
ならばなぜ彼の淹れる茶をこの幼馴染みは飲んでいるのか。疑問が顔に出ていたのか、アルダーリャトはこちらを見てにやりと笑った。
『シノブ殿の茶は絶品でな。熱さも量も絶妙、何より茶が甘いんだ。渋みだけかと思っていた茶が甘く感じるなんて初めてだったからな、今までの茶が全て霞んでしまった程だ』
茶が甘い?なんだそれは。しかし……絶品、か。
『1度飲めば2度3度と飲みたくなる。が、どう見ても他の者と同じ淹れ方でしかない。それがどうにも不思議なんだ』
『……そこまでお前が言うなら余程美味いんだろう。私も頼んでみるかな』
『駄目だ』
『は?』
『あの美味さを他人に教えてやる程、俺は心が広くないからな。あの茶を飲めるのは俺だけで良い』
『……』
口が止まった。何言ってるんだ、この男。益々興味をそそられるだろう?シノブ殿という人間をもっと知りたくなる。どこからともなくシン国に獣神と共に現れ、民では有りえないほどの算術の腕と頭の回転の良さを持ち、それでいて驕ることもなく。流れてくる噂では馬術や武術にも優れているという。しかし彼は武人ではない。そして今の話では高級な為に貴族にしか流通していない茶にも精通している……不思議な人だ。
思えば今まで、彼に罪悪感を抱いたことはあっても嫌悪感を持ったことは1度たりとてない。懐疑心も不思議なほど生まれなかった。身元も分からない人間ほど、怪しいと思って当然のはずなのに。
今のアルダーリャトの話を聞いて、そういえばと思う。自分はシノブ殿と言葉を交わす機会がないな、と。多忙なのは自分も国王のこの男も大して変わりはない。だが彼と接し、会話する機会は断然アルダーリャトの方が多い。これでは親しくなりたくとも、信頼を得たくとも得ることも出来ない。
この日から、さてどうしたものかと悩む日が始まった。
***
紅涼も深まり、涼しさを常に感じるようになった頃。その機会は突然訪れた。いつもの通り、自分に与えられた執務室で執務机に向かっている時だった。コンコンと扉を叩く音と共に、やや切羽詰まった声が聞こえたのだ。
『宰相閣下、いらっしゃいますかっ』
それはまさに私が悩んでいた彼の声で。だが彼が私の所まで足を運ぶとは珍しい。何かあったのか?
『その声はシノブ殿?私はここにおりますが』
切羽詰まった声音のわりに、入ってくる気配がない彼を迎えに腰をあげる。そうして扉を開けた先に居たのは、大量の書類を携えたシノブ殿と契約している馬神の獣神。その書類の多さに思わず目を瞠った。
『ど、どうしたのです?その様な大量の書類など持ったままで』
『宰相閣下、本日の財務部署から提出する書類をお持ちしました。間に合いましたか?』
何事かと思えば、彼の答えに納得し、そしてすぐに持ち上がる疑問。
『は?ああ、今日の分の書類提出ですか。……しかしシノブ殿、間に合ったとは?』
一先ず書類の受理をと彼らを室内へと招き入れると、執務机の空いた場所に書類の束を下ろすシノブ殿。それも向きを整えて置いてくれたらしく、そんな彼のさり気ない心配りに心象も良くなるというものだ。だが。
『陛下が『ハッサド宰相は昼餉の時間になると一切の任務の手を止める』と教えて下さったんです。『遅れたらもう1度寄ることになるから急いだ方が良い』と』
『……』
その書類を受理し終えた安堵の面立ちとは反対に、私の表情は渋くなった。あいつ……そんな事を彼に告げるとは。幼馴染みの顔が脳裏を過ぎり内心で盛大に舌打ちした。シノブ殿への私の心象がおかしい方向へ向かったらどうしてくれる。
『……何勝手に教えてるんだ、あの野郎』
『?!』
言にしたつもりはなかったが、小さく漏れてしまったらしい。肩を跳ね上げた彼の目は驚きで丸くなっていた。ああ、口が悪かったか。
『ああこれは失礼を、シノブ殿。書類、確かに受け取りました。陛下が仰られた先程のお言葉でしたら気にせずとも大丈夫です。シノブ殿や獣神様方には当てはまることはありません。いつでも引き受けますので』
笑みを見せ、気にせずとも良いのだと告げる。そもそも神である獣神とその契約者である彼には当てはまるものではないのだ。主君でありこの国の頂点である国王の次に優先される存在なのだから。だが彼は小さく首を振った。時間厳守は勤めを果たす者として当然のことであり、次回は今よりも余裕をもって訪れるようにすると。そして私の昼餉の為の時間を割くのは不本意である、と。
ああ、他の貴族の子息達にも是非とも見倣ってほしいものだと切に思った。シノブ殿のこの思想が少しでも彼らにあれば、王宮勤めの者達の質も今より良くなるだろうに。しかし、彼に伝えた『いつ何時でも構わない』の言は嘘ではなく、紛れもない私の本心でもあった。
その後。
やや強引だったかとは思いつつも親しくなりたいと直球で迫り、困惑し狼狽える彼を押し切った。言葉遣いも直ぐに気安くしろと言うつもりはない、彼の様子に合わせれば良いのだから。そしてついでのようにこの後の予定を尋ねると、残念なことに今日は午後も職務があるらしい。それならばと昼餉を共にと告げれば、獣神が持つ書類を倉庫へ置きに行くことを理由にやはり断られてしまう。どこまで謙虚なのだろう。まあ……そこも倉庫も共に着いていけばいい、と押し切ると漸く折れてくれたのだから良しとする。彼は私を待たせるとでも思ったのか、かなりの速度で書類を棚へとしまって戻ってきた。そして出てきたアルダーリャトの科白にまたもや溜息が漏れる。確かに私は昼餉が好きではある、それは嘘ではない。が。
『貴方の中での私は、一体どの様な者として映っているのでしょう?』
『……いつ、どんな時も冷静沈着で頭脳明晰。だけど昼餉が好きでその時間を邪魔されることが嫌い、でしょうか』
シノブ殿の私の印象がどこか子供じみたものになってしまっていることに……本当に余計なことを告げ口してくれたと幼馴染みには脳裏で盛大に舌打ちしたものの、シノブ殿は実にあっけらかんとしていた。
過去において、私は女に良い思いをしたことがほとんどない。見目が無駄に良いせいなのか、群がる令嬢達は皆一様に目の色を変えて寄ってくる。そして完璧な人間だとでも思っているのか、やたらと褒めそやしすり寄ってくる。……私とて1人の人間だ、失敗もするし決して完璧な人間などではないというのに。彼女らの目は節穴なのか。媚びつつ頬を染めるその裏には、私の妻となり、侯爵夫人の座に座る野望が見え隠れする。そんな隠し切れていない欲をぶつけてくる者と、誰が好んで親しくなりたいというのか。……ああいけない、食堂はもう目と鼻の先だというのに。
沈んだ歩みを止めた私にシノブ殿も隣で立ち止まる。彼は私の表沙汰になっていない昼餉好きを知ったら、どの様な反応をするのだろう。それが知りたくて、彼に尋ねた。
『私が本当に昼餉好きだとしたら、貴方はどう思われますか』
『そんなに食べることが好きなんだなぁ、ってくらいですね。私も美味しいものは好きですし』
『それだけ、ですか?』
……本当に?更に問重ねたくなる気持ちを抑え、それだけを絞り出す。シノブ殿は男だ、纏わりついてくるかの令嬢達とは違う。そうは思っても、中性的な彼にそんな疑問をぶつけずにはいられなかった。私を完璧無欠な人間と勝手な想像をする彼女達は、それを何気なく告げた時、こう言ったのだ。
ーーー『ハッサド様もそんな冗談を仰るのですね』と。
令嬢の誰1人として、私の昼餉好きを本気だと理解しない。……アルダーリャトだけは、『お前にも楽しみがあったのか!』と爆笑した。だが理解はしてくれた。私の昼餉好きを理解してくれたのはシノブ殿で2人目だ。
『他に何を思えば良いんでしょう?『想像と違う!』って言えばいいですか?』
心底不思議そうな顔で首を傾げたシノブ殿に、私は口角を上げた。……どうか、今のままで変わらずにいて欲しいと思わずにはいられない。




