第240話 一時帰宅
予定通り、翌朝まだ暗いうちに宿を抜け出して、闇に紛れて飛び立った。
すぐ戻る予定つもりで荷物は部屋にそのまま置いておき、宿の従業員にもしばらく外出することを伝えてある。
また、もし不在の間にもう一度バリバスが来たときのことを想定して、書状を預けてあった。
エルドニアに戻るには、その間の大海を超えないといけない。
目印もなく正確な王都の方向が分からないから、まずは街道を遠くに見ながら港町フェルトンまで飛んだ。
「さすがに早いな」
「徒歩と比べたら駄目ですよ」
「それはそうだが……」
歩くと丸2日はかかる距離が、たったの1時間足らずだ。
周囲が薄明るくなってきたころ、港で働く人たちに合わせて早くから開いている店で軽く朝食を摂ってから、ついでに保存食を買い込む。
これから帆船で10日かかる距離を飛んで越えないといけないのだから。
いくら船よりもずっと速く飛べるとしても、かなり時間がかかることが想定された。
「暗くなるまでに着くでしょうか……?」
ウィルセアが不安そうな顔を見せた。
海の上を長時間飛ぶ――しかも方角を間違えるとどこに行ってしまうかわからない――という不安は大きい。
なにしろ、目的地が全く見えないのだから。
「どうでしょうか。さっきくらいの速さだとたぶん無理な気がします。もっと急がないと……」
「そうかもな。ところどころに島があるから、時々休憩しよう。いずれにしても今日中に王都まで行くのは厳しいだろうな」
「そう思います。頑張ってゾマリーノかゼバーシュまで着けば、明日の昼くらいにようやくってくらいかと。夜通し飛べれば朝には着くと思いますけど……」
単純な距離ならそうだろうが、さすがに丸1日飛び続けるのは眠気に耐えられる自信がなかった。
「それはやめておこう。ゾマリーノだと宿を探さないといけないから、ゼバーシュがいいだろう。夜なら目立たないし、俺の家ならいつでも空いているからな」
「わかりました。それでは早めに向かいましょう。あまり遅くなるといけませんから」
「そうだな。頼む」
買い込んだ数日分にもなりそうな食料をバッグに背負い、目立たぬように歩いて港町を離れる。
そして今度はあまり高度を取らぬように、まっすぐ北を目指して、海の上を滑るように飛び立った。
◆
そして、その日の深夜、多くの人々は寝静まった頃、視界に街の灯りが見えてきた。
「ゼバーシュだな」
「ですね……。さすがに遠すぎました……」
疲れた声でエミリスが返す。
灯りはまだ遠いが、ここまで来ればそれほど時間はかからないだろう。
目標に向かって少しずつ高度を下げていく。
アティアスから見ても、彼女は普段より明らかに速く飛んでいたのはわかった。
それでもこれだけの時間がかかったのだから、海の広さがどれほどのものか。
「まっすぐ家に降りますけど、構いませんね?」
「ああ。この時間だろうし、問題ないだろう」
昼間ならば飛んだまま街に近づくのすら気を使うが、闇に紛れるこの時間ならほとんど見られる心配はない。
街の外に降りてアティアスの家まで歩けば更に1時間はかかる。彼女にこれ以上普段をかけるわけにもいかなかった。
アティアスの許可を得た彼女は、ほどなく目標の家を見つけて、バルコニーに着地した。
「はふー……」
エミリスは大きなため息を吐いたあと、バルコニーに面した主寝室の掃き出し窓の鍵を外から凝視する。
かちゃり、と小さな音を立てて外れたのを見て、窓を開けると、彼女は目の前のベッドにそのままバフッと倒れ込んだ。
「すみません、少し休ませてください……」
「ああ、疲れたろ。寝てて良いぞ。――ウィルセア、簡単なもので良いから食事の準備を頼む」
「はい、承知しました」
ウィルセアが頷く。
エミリスのようにこの家に住んだことはないけれど、それでもゼバーシュに来た時にはよく泊まっていたから、どこに何があるかは把握していた。
「俺は風呂の準備しておくから」
背後であっという間に寝息を立て始めたエミリスを残して、ふたりは寝室を後にした。
◆
「おーい、そろそろ食事だけど起きれるか……?」
軽食がテーブルに並べられ始めたころ、アティアスは寝室に戻ると、丸まって寝ているエミリスの横に腰を下ろして声をかけた。
気持ちよさそうに寝ている彼女を起こすのも気がひけたが、肩を軽く揺らすと薄っすらと目を開けた。
「ふにゃ……?」
「お腹空いてるだろ? ウィルセアが作ってくれてるから食べるか?」
「食べりゅぅ……」
「そうか、なら下いくぞ。ほら……」
「ふにゅぅ……」
エミリスの肩を抱き起こすように上半身を持ち上げる。
全身に力が入ってないから、軟体動物のようにくねっとしながら起き上がった彼女は、そのままの流れでアティアスにぎゅっと抱きついた。
「抱っこで連れてってほしーですぅ……」
エミリスがとろんとした顔を彼の胸に擦り付けながら甘える。
普段は自制している彼女だけれど、たまにそのリミッターが綺麗さっぱり無くなるときがあるのをアティアスもよく知っていた。
それはこうして眠い時や、お酒を飲んだ時に多いことも。
「わかったよ」
こうなると手がつけられないこともわかっていたアティアスは、彼女の腰と太腿の下に腕を回し、ゆっくりと持ちあげると、いったん自分の膝の上に座らせた。
「立ち上がるぞ?」
「ふぁーい」
そしてもう一度力を入れて、彼女を抱き抱えたまま立ち上がる。
小柄なエミリスはさほど重くないが、バランスを崩さぬよう慎重に寝室を出て、食堂へと向かった。




