第七話 優しさに触れて
「ねぇ、ルーク様。シグルド様はいつ帰るの?」
寝台の上でエスメラルダは夫の肩に頭を寄せた。
甘い空気を漂わせる夫婦の部屋には服が散乱している。
女が胸の上に手を這わせると、ルークは髪を梳きながら笑った。
「心配しなくても、そう長くは滞在しないだろう。毎回一晩休んでさっさと帰ってる」
「そう。一晩あれば十分かもね……」
「何がだ?」
エスメラルダはにこりと微笑んだ。
「なんでもありませんわ。それにしてもあの方は相変わらずね。身だしなみくらいしっかりしてほしいわ」
「あぁ。まったくだ。身なりを整えれば容姿は良いんだが」
「容姿は良くてもあの魔力はダメよ」
エスメラルダは顔を顰めながら言った。
「ロンディウム家に代々受け継がれる魔力だかなんだか知らないけど、あの人の魔力は強すぎる。一緒にいるだけで体調が悪くなる人なんて生きた呪いと一緒よ?」
「……あぁ、そうだな」
「ねぇあなた。アレって確か最悪発狂するのよね?」
「発狂どころか、下手をすれば死ぬぞ」
ルークは複雑そうな顔で言った。
「あまりにも魔力差が大きいと魔力に中てられる。すぐにその場を離れれば問題ないが、その場にとどまり続ければ体内の魔力が狂い、死に至る。意識的に抑えていても魔力差があればアウトだ」
「……やっぱり複雑?」
「……まぁ、あの魔力でディランダル戦役を勝ち抜き、戦争を終結に導いた人だからな」
「ごめんね。あなたを貶めたいわけじゃなかったの」
「分かってる。お前がそんなことするものか」
「ねぇ。もしシグルド様の立場を貶めることが出来る……って言ったらどうする?」
「なに?」
ルークは眉根をあげたが、すぐに「馬鹿馬鹿しい」と一笑に付した。
「あの兄上に瑕疵をつけられるわけがない。アレは完璧な騎士だ」
「でも、出来るならやってやりたいでしょ?」
「そりゃあな」
「ふふ。じゃあ、ご期待に応えられるかもね」
「……どういうことだ?」
エスメラルダは黙ったまま、艶然と微笑んだ。
(もしも不運な侍女がシグルド様の魔力に中てられて死んだら……どうなるかしらね?)
エスメラルダ・ロンディウムは夫を奪おうとした泥棒猫を許さない。
たとえ彼女にその意思がなかったとしても、あの庇護欲をそそる見た目が夫を誘惑したというなら、それはもう彼女自身の瑕疵だ。エスメラルダが処罰するに値する存在である。
(ふふ。さよなら、アンネローゼ。二度目はないわよ……?)
◆◇◆◇
「……やはり多いな。悪いが、これは君が食べてくれ」
「…………ほえ?」
目の前に差し出されたお皿にわたしは困惑していた。
シグルド様は真顔でじぃーっとこっちの反応を待ってらっしゃる。
いや、食べろって……本当に?
「あの、ここで、ですか?」
「他にどこがある」
「屋根裏とか……」
「普段そんなところで生活しているのか」
「はみゅ……意外と居心地いいですよ? 誰も入って来ませんし」
「…………まぁともかく。これは君が食べて……いや、そうだな」
シグルド様は何か思いついたように頬杖をついた。
「先ほど私は君を助けたな?」
「はい」
「その借りを今、返してもらおう」
「は、はぁ」
シグルド様は斜め隣の席を叩いて、
「座れ。そして食え。それでこの件はチャラとする」
「…………でも」
そこまで言ってくれるのはありがたいけど、わたしなんかがテーブルについて食べていたと知られたらどんな目に合わされるか……。そんなわたしの心を読んだように、シグルド様は杖を振った。食堂の扉が閉まり、かちゃりと鍵をかける音がする。魔法って便利。すごい。
「これで誰も入ってこれまい」
「……いいのですか?」
「構わん。尤も、君が私と食べるのが嫌というなら話は別だがな」
「い、嫌だなんて! シグルド様のようなお方と食事が出来るなんて夢のようです」
「くっ。そんなことを言うのは君くらいだ」
「そうですか?」
わたしは首を傾げた。
「勿体ないですね。シグルド様はこんなに素敵な方なのに」
なんか怖い噂があったけど、実際は方向音痴さんで優しい人だった。
公爵家の名に恥じない実力と高潔な精神を持っている男性。
こんなにいい人なら言い寄って来る女性は絶えないように思うけど……。
「……早く食べなさい」
「はい!」
わたしはシグルド様の右ななめ前の席に着いた。
この椅子に座るのは初めてだけど、腰が沈んでびっくりした。
公爵家の方々はこんなに立派な椅子に座ってたんだ……。
「あのぅ。わたし、長らく誰かと食事していないので……マナーが悪かったら申し訳ありません……」
「私は気にしない。むしろ堅苦しいのは好かん」
「そ、そうですか。それでは」
食前の祈りを捧げてからフォークに手を伸ばす。
というか、フォーク使ったのすごく久しぶりだわ……。
貴族のお作法なんてもう忘れてしまったし、ちゃんと出来てると良いけど。
そんなことを思いながらサラダに手を付ける。
うわ……。
すごい。シャキって! シャキってしたわ!
「腐ってない……」
「なに?」
「にゃ、にゃんでもないです……」
オリーブオイルをベースにしたソースはまろやかで、コクがある。
塩コショウをまぶたしたベーコンはほどよい焼き加減だった。
「焦げて、ない……」
「……」
ステーキも硬くない。虫さんが入ってたりしない。
スープは温かかった。味がするスープは何年ぶりだろう。
「ぽかぽかする……」
「美味いか」
「はい。本当に美味しくて……」
不意に、視界が滲んだ。
「あ、あれ……?」
目の前が靄に覆われて何も見えなくなる。
フォークとナイフを持っていた手から力が抜けて、目頭が熱くなっていた。
なんで……わたし、なんで泣いてるんだろう。
「も、申し訳、ありません……涙が……勝手に……」
「……」
シグルド様は何も言わない。
ただ視線だけは感じる。それが責められているように思えて、わたしは頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。すぐ、泣き止みますから」
「君は何か悪いことをしたのか?」
わたしは目を丸くする。
黄金色の瞳に責める色はない。ただ純粋な疑問だけがあった。
「わたし……わたしは……魔力がなくて……」
「それで」
「だから、ひぐ。みんなに迷惑かけて……あの、だから……わたし」
「人を傷つけたのか?」
首を横に振る。
「両親に顔向け出来ないような悪事を?」
「いえ、そんな……」
「そうか」
シグルド様は食事を再開した。
「なら、謝るな。それは君の生き様に対する侮辱だ」
「いき、ざま……」
「私に声をかけてくれただろう。無関係の人間に手を差し伸べるのは誰にでもできることじゃない」
シグルド様は感情の読めない顔でわたしを見た。
「君は優しいな。アンネローゼ」
「……っ、ぁ、ぅ、ぁ」
なんて言ったらいいのか分からなかった。
ただ涙が溢れて止まらなくて、そんな自分が情けなかった。
袖でどれだけ拭っても、ぽろぽろ、ぽろぽろと、大粒の涙が流れてしまう。
「好きなだけ泣けばいい。泣いて、明日の力にしろ」
「はい……はいっ」
シグルド様は自分の食事が終わってもその場を動かなかった。
わたしに触れることもなく、ただ傍に座っていて……。
たったそれだけのことで、ちょっぴり救われたような気がした。
「ところで、アンネローゼ」
「ぐす……はい、なんでしょうか」
「私と一緒に来る気はないか?」
「……………………はみゅ?」




