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第一話 迫害の日々

 


「アンネローゼ、お前、婚約破棄されたそうだな」


 寝室の壁に押し付けられたわたしをエメラルドの瞳が覗き込んだ。

 壁に立てかけていたモップが倒れてバケツの水が零れそう。

 ちょっぴり怖くて逃げようとするけど、旦那様は離してくれない。


「オレも覚えているぞ。『災魔(レギオン)の娘』と呼ばれていた男爵令嬢……お前だったのか」

「む、昔の話です。今はただのメイドですから……旦那様、御放しください。こんなところ奥様に見られたら誤解されてしまいます……」

「なぜだ。お前がメイドなら構うまい。お前はオレのものなのだから」


 熱っぽい吐息が私の鼻先に降りかかり、頬に口づけが落ちた。

 両手を掴まれて太ももの間に足を挟まれているから身動きが出来ない。


(どうしよう。誰か……助け……ひゃう!)


 旦那様が私の肩に顔を埋め、甘噛みした。

 湿っぽい感触と僅かな痛み。これは俺のものだと刻みつける支配的な噛み方。


(あぅ……気持ち悪い……)


 黒髪が鼻先をくすぐり、旦那様の手が太ももからお尻を触り始めた。

 じっくりと味わうように揉みしだかれて嫌悪感で鳥肌が立ってしまう。

 旦那様はわたしの反応を楽しむようにエメラルドの瞳を細める。


「『トロイの悲劇』を唯一生き延びた女。没落した元男爵令嬢というなら気品もあろう。この白髪に赤い瞳、正直、気色悪くもあるが、どうにも惹かれるものもあった……」


 メイドとして侍従長から紹介されたあの日のことだ。

 家族を失ったばかりのわたしを興味なさげに一瞥して「粗相を働かないように」とだけ言ったあの日。

 わたしに何の興味もなかったくせに、昔のことを知った途端に手を出してくるなんて。


「アンネローゼ。このままオレのものになれ」


 わたしは唇を噛みしめて首を振った。


「旦那様には、奥様がいるじゃないですか……」

「ロンディウム公爵家の血を多く残すため、二人目を娶れと父上がうるさいのだ。エスメラルダがなかなか孕まないからな」


 そうだった。貴族ってそういうものだった。

 もう何年も前のことだから忘れていたけれど……。

 公爵家の当主という立場が彼に免罪符を与えているようだった。


「お願いですから、やめてください……奥様に悪いですから……」

「いやだ。お前はオレのものだ。今からそう決めた」

「……っ」

「《跪け》」


 ルーク様の魔法が嫌がるわたしの身体を強制的に動かした。

 こうなるともう、何をやっても無意味だ。

 身体から力を抜くと、旦那様は獲物を前にした肉食獣のように舌なめずりする。


「そうだ。いい子だな」


 そのままわたしは無様に食い散らされるように衣服をはがされて──



「ルーク様、ちょっとよろしいかしら」



 救いの声が旦那様の手をぴたりと止めた。

 旦那様と視線がかち合う。

 わたしは旦那様の手が緩んだ隙に拘束から抜け出した。


「ルーク様? どうかされたの?」

「なんでもない。どうしたんだ」

「ここではちょっと……開けてくださるかしら」

「あぁ、分かった」

(え、ほんとに開けるの!? わたし、まだ隠れてないのに……!)


 こんなところを見られたらあらぬ誤解を招く可能性がある。

 わたしは視線で抗議したのだけど、旦那様は聞いてくれなかった。

 扉が開く。慌てて身だしなみを整えるわたしの前に金髪の淑女が現れた。


「どうした。我が愛しの妻。エスメラルダよ」

「……」


 エスメラルダ様はわたしとルーク様を交互に見た。

 浮気現場を目撃した人妻そのものだけど、公爵夫人は雰囲気を崩さない。

 おしとやかに夫へ微笑んだ。


「あら、お邪魔したかしら?」

「いいや、オレの優先順位はお前が一番だよ、エスメラルダ」


 一拍の間を置いて旦那様は言った。


「それで、どうしたんだ?」

「お義兄様がご帰郷になる件について話したかったの。歓迎の食事会を開こうと思うのだけど、お義兄様が好きなものや嫌いなものを教えてもらいたくて」

「あぁ……正直よく知らんが、任務先では糧食ばかり食べているような人だからな。公爵家でしか食べられないような豪勢な食事にしてやれば喜ぶだろう」

「そう。分かったわ。アンネローゼ、いらっしゃい。一緒にレシピを考えましょう」

「は、はいっ!」


 奥様に手招きされたわたしは慌てて掃除道具を回収し、旦那様の横を猫みたいにすり抜ける。エスメラルダ様は優しく微笑み、


「ではルーク様、あとでお会いしましょう」

「あぁ。待っているぞ」


 旦那様は残念そうな顔をしていたけど、正直かなりホッとした。

 あのままお手付きになっていたらどうなっていたことか……。

 貴族の男に手を出された侍女の末路なんて考えなくても分かるのだから。


「この辺でいいでしょう」


 旦那様の部屋が見えなくなったあたりでエスメラルダ様は立ち止まった。

 エスメラルダ様の私室の前だ。

 もしかしたら、旦那様の蛮行に気付いて止めてくれたのかな……。


「あ、あの。エスメラルダ様、ありがとうございました!」

「いいのよ」


 わたしがそう思うのは、エスメラルダ様は侍女たちの中でも良妻ということで評判だからだ。使用人にも腰が低いし、かといってへりくだってもいない。威厳と寛容さを併せ持つ、淑女の鑑のような女性と言われていた。


「危なかったわね、アンネローゼ」

「はい……旦那様、力が強くて抜け出せなくて……」

「そうね。あの人は元魔法騎士だから」


 エスメラルダ様は頷いた。


「一つ、仕事をお願いしていいかしら」

「はい。なんでしょう」

「この扉を開けてほしいの。ちょっと手がかじかんでて」

「え」


 わたしは凍り付いた。

 まるで背中から冬の湖に突き落とされた気分だ。


「ねぇ、出来るでしょう? アンネローゼ」


 冷たい。寒い。暗い。

 足元から這い寄る冷気がわたしの足を絡めとる。

 にこやかに微笑むエスメラルダ様の笑みが、とても恐ろしく見えた。


「それは……」


 わたしはちらりとエスメラルダ様の私室を見る。

 龍の頭がついたドアノブには防犯用に魔法錠がかけられている。

 決められた魔力持ち以外の者が触れたら手が燃え上がる仕組みになっていた。



「あぁ、そっか。触れないんだったかしら?」



 口元に手を当てて、エスメラルダ様は笑った。

 心の底から人を馬鹿にするときに浮かべる笑みだった。


「あなた、魔力がないものね?」

「……」

「あなたみたいな無能を雇った侍従長はあとで叱っておくわ。いくら公爵家が人手不足だと言っても……さすがに無能すぎるし、没落した男爵家の令嬢が公爵家の当主を誘惑するなんて、あまりにも無礼だもの。わたくしじゃなかったら首を刎ねていたところよ?」


 エスメラルダ様は立ち尽くすわたしの横を横切った。

 ドアノブを回し、部屋の中に入った彼女は振り向く。


「次はないわよ」

「……あの、わたしは」

「身の程を知りなさい。この役立たず」

「……っ」


 バタン、と無情に扉が閉められた。

 冬の冷たい風が足元から這ってきて、わたしは自分の肩を抱きしめた。


(わたしだって好きであんなことされたわけじゃないのに……)


 嫌だった。気持ち悪かった。怖かった。

 男の人に無理やり組み敷かれて喜ぶ女性なんて居るのだろうか。

 しかも、一度交わってしまえば破滅が待っていると分かっている(ひと)に……。


「あら。また粗相したのね、アンネローゼ」


 クスクス、クスクス。

 わたしを笑う同僚たちの声がした。







新連載始めました!

初心に戻って王道の主従恋愛モノです。どうぞよろしくお願いいたします。

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