3 事故? いいえ、事件です。
気が付くと私は白い天井を見上げていた。
……正確には白い天井を背に、私を見下ろしているお医者さんと水森君の顔を見ていたのだけど、間の脈絡が自分の中では全くなかったので、何が起こったのか良く分からなかった。
ボーっと二人を見ていると、小さなライトで私の目を覗いていたお医者さんが、
「ゆっくりでいいから、起き上がれるかな?」
と言うので、水森君の手を借りながら体を起こした。
「話しをしていたら、急に意識がなくなったんだよ。気分は悪くないかな?」
「──ええ。大丈夫です」
だって、二人が変な事を言うから。
突き飛ばされた。
2回。
偶然ではなくて、故意。突き飛ばしたのは、知り合いの可能性が高い。
そんなこと……そんなこと、ある筈ないのに。
そう思った瞬間にまた頭が痛くなってきたので、目を瞑って痛みをやり過ごす。しばらくしたら治まって来たので、目を開けるとこちらを観察しているお医者さんの顔と、その後ろに酷く心配げな水森君の顔、再び。
いや、大丈夫だから。起き上がったせいで血圧が変化してちょっと頭が痛かっただけだから。……ホントに、それだけだからね。
「今、目眩はある?」
「ありません」
その他、また体の動作を確認されて、一応入院はなしでいいと言われた。
こんな時期に入院なんてしたくないって私が言い張ったのもある。一人暮らしだから遠方にいる親に何て言ったら分からないし、入院の同意書には身内の署名が必須だそうなので押し切れた、というのもある。要は、私の意志に反してまで入院させるほど怪我はひどくないらしい。それは結構なことだ。
代わりに明後日必ず病院に来ることを厳命された。
「明後日までにちょっとでも具合が悪くなったら、救急車呼んででもすぐに病院に来ること。記憶に関しては本当に何とも言えないから、なるべく気にしないで普段通りに過ごすこと。その他の注意事項は彼氏君の方に言っておいたからね」
簡単に言うと、お風呂は湯船に浸かるのは厳禁。頭の痛みが取れるまではタオルで拭く程度で我慢する事。洗髪もしばらくは我慢。どうしてもの時はシャワーで流すだけに済ませて、激しい運動もダメ。
昼のも、夜のもだよ、なんてセクハラな事を言われて、もう反論するのも疲れて頷いておいた。
こんな寒い季節にシャワーだけって却って具合悪くなるんじゃない? とは思ったけど。
「彼氏君の方も君の意識がないうちに診察を終わらせたから、ぶつけた箇所を隣で処置したらもう帰っていいよ。痛み止めとか、湿布とか色々出しといたから、薬局に行ってね」
お礼を言って診察室を出たけど、なんだか怪我以外の事で疲れた気がする。
診察室の隣の処置室で、愛想のいい看護師さんの内の一人だと思われる人にたんこぶの部分を処置して貰い、会計を済ませた。水森君の左腕にも白いネットが見えたので、本当に診察も手当も済んでいるらしい。……私、結構長い間意識がなかったのかな?
薬局は病院の外らしく、処方箋を二枚持っている水森君が「この後、どうする?」と聞いて来た。
「どうするって、薬貰って帰る以外に何かあるの?」
テストが終わっているのなら大学は冬休みに突入したので、来年まで行かなくていい筈。何か予定が入っていないか後で確認しないといけないけど、学校行事はもう何もないと思う。
年末は実家に帰る予定だったけど、クリスマス過ぎてからのつもりだった。たんこぶもそれまでには凹んでるだろうから、親に心配かけずに済む。万が一なんか言われたら「ぶつけた」でいい。嘘じゃないし。
「そうじゃなくて……いや、それも後から聞くつもりだったが、薬を飲むために食欲がなくても何か食べたほうがいいんじゃないか。今日はまだ何も食べていないだろ? 食べて帰るか、何か買って帰るか、どうする?」
「ああ……そうだね。食欲ないけど、食べといた方がいいか」
今、冷蔵庫の中に何が入っているかが定かじゃない。覚えているのは自分の中での昨日、1日のものだ。当然中身は変わっているだろう。こまめに買い物に行く方だったので何にもないと言う事はないだろうけど、そもそも今は頭が痛いので、料理をする気力も体力もなかった。
少しでも早く痛みを和らげたかったし、話をしたいという水森君の意見もあって、食べて帰ることにした。
意図せずとはいえ結構お世話になっちゃったし、立て替えてもらったタクシー代の清算もある。何かお腹に入れてすぐに薬を飲めば、多少は痛みもマシになるだろうし、ここは一発お礼も兼ねてごちそうせねばなるまい。
薬局で薬を貰い、その隣が喫茶店だったのでそこに入る事にした。
食欲は湧かなかったので、私はフードメニューの中から一番軽そうに感じたクラブハウスサンドイッチ、水森君はがっつり系のパスタセットを頼んだ。
朝から何も食べていないのは同じだもんね。もうお昼もだいぶ過ぎてるから、そりゃあお腹すくでしょう。
「そういえば、腕の具合はどうだったの?」
「軽い捻挫と打撲だった。本当は吊った方が楽らしいが、視線が痛いし、邪魔くさいから断った。痛みも大したことはないし」
「そう。良かった。……視線が痛いのは同意」
お店の中のあちこちから水森君を見る視線を感じるけど、私の頭の怪我にも視線が来てるのが分かる。悪い意味の視線じゃないんだろうけど、ちょっとこれはうっとうしい。
サンドイッチをやっと半分食べた辺りで限界が来た私は、まだ物足りなさそうな水森君に「遠慮なく食べて」と残りを回したんだけど、サンドイッチはあっという間になくなってしまった。パスタも結構ボリュームあったのに、やっぱり体が大きいと沢山食べるもんだね。
「病院で医者に言った事、黙っていて悪かった」
「……うん」
それどころじゃなかったのは確かだけど、記憶がないことを演技か何かかと思っていて、反応を確かめようとしてたんじゃないかなと、ちょっと思ってた。
実際、へらへらしているというか、ぽやんとしているというか、記憶がないらしいのに深刻そうじゃない私の態度に、水森君の方がいろんな意味で大丈夫なのか? と思っていたらしい。
昨夜、「明日事情を説明する」と私が言ったのは本当の事だったので、起き抜けの時から、言いたくなくて嘘をついているのかそうじゃないのか、よく分からなかったそうだ。
「昨夜は誰なのかと問い詰めても見間違いって言い切るわ、怪我をしてるから病院に行こうと言っても、せめて応急処置の為に従兄弟の家まで行こうと言っても、『嫌だ、家に帰る』の一点張りだわ、梃子でも動かない勢いで……。でも、さすがにそのままには出来ないから、一晩付き添うって言ったんだ」
頭を打ったその瞬間は大丈夫でも──以下、説得された時の説明とかぶるので省く。で、帰る途中のコンビニで氷やらなんやらを買って、手当てして寝た、と。
起きたら起きたで訳の分からないことを言う私に「どうしてくれようか」が、「どうしてこうなった」に変わった。
本当に記憶がないと分かった事も、実は結構堪えたみたい。もうちょっと上手く庇えていたら、こんな事になっていなかったんじゃないか? って。
いや、マジで家に連れ帰ってくれただけでも感謝してるよ。覚えてないけど。
「私がシリアスじゃないのって、まだ夢の中にいるみたいっていうか……あれだけ証拠を見せられても、未だに記憶喪失の実感がないからだと思うよ。……現実味がないのは、記憶がなくなった期間が短いせいもあると思う。テストを乗り切った今、困ることは殆どないし」
怪我の原因が本当に水森君の言う通りだったとしたら、本当にドラマみたい。現実にそんなことあるなんて思えない。
それが、実感が湧かない感覚に拍車をかけているんだと思う。
「なるべく気にしないようにってお医者さんが言っていたから、悪いけど、この話はここでおしまい。水森君もわざわざありがとう。彼氏のふりまでして、病院について来てくれて。一緒に来る理由が弱かったから、そんなこと言ったんだよね?」
そう言うと、間髪入れずに真顔で返事が来た。
「振りじゃない」
「え?」
「振りじゃないって言ったんだ」
「いや、聞こえてるけど……この期に及んで冗談何て言わなくていいよ。モテモテの水森君が私なんかと付き合う理由がないでしょ?」
記憶があろうとなかろうと私は私で、ましてや記憶のない二週間ちょっとの間に、趣味嗜好が変わる訳がない。だから、私からアプローチをした筈はない。
そう言い切れる自信がある。
……ってことは、本当に付き合っているんだとしたら、水森君から言ったって事になっちゃうじゃない?
私がすごく美人とか、かわいいとかだったらまだ理解できるけど、ごくごく普通だと思う。10人の内7人は普通と言い、2人位はかわいいと言ってくれるかな? って感じ。特にお洒落に気を使っている訳じゃないから、10人の内残り1人は雰囲気でどちらかに転ぶ、そんな感じ。
お洒落にはお金が掛かるから、一人暮らししている現状でこれ以上親に頼れないという事情もあるけど、モブ、一般女子大生という括りだ。
対する水森君は、並みいる美人系、かわいい系の女の子を袖にしてきた人だ。
噂もいっぱい聞いたけど、それだけじゃなくて、女の子の誘いをお断りしている所を一回見たことがある。かわいくて有名な女の子をやんわりと、でもきっぱりと断っていた。
人気があるからとか、好みじゃないけどかわいいからちょっと付き合ってみようなんて考えはしないんだなぁ、理想がもっと高いのか、好みの幅が狭いのかどっちだろ? と思ったのを覚えている。
そんな水森君と私が付き合っている。
……ないわー。マジでない。ありえない。
そんな私の態度に、水森君は大きなため息を付いた。
「本当に記憶がないんだなって、その態度で実感するな。あと一日ずれていたら、俺の事も覚えていてくれたかもしれなかったのにな」
「…………なんのこと?」
「数学のテストの帰り道、偶然一緒になって、その時に好きだって言ったんだよ」
私は思わず目を見開いて水森君の顔を見る。ちょっと笑っているけど、からかっているような様子はない。目が真剣だ。……演技力が高いなら別だろうけど、本当の事を言っているように見えた。けど、私は思わず尋ねていた。
「……誰が?」
「俺が」
「誰を?」
「優花を」
「えええええぇぇ」
ほんと悪いけど、信じられない。第一、そんな偶然に頼ったなんて……いきなりすぎるっていうか、取ってつけたみたいじゃない?
「そんな道端で言うつもりなんて本当はなかったが、優花とは接点が少ない上にガードがきついから、勢いだったのは確かだ」
ガードがきついって、覚えがアリマセン。「ガードがきつい」の反対語が「ガンチューなし」なら理解はする。
「…………えーっと、それで、私がOKしたの?」
今の私だったら間違いない。絶対断わる。お試しで付き合うなんてこともしないで、即断る。
水森君はお試しなんて事をするほど気軽な相手じゃない。絶対恨まれるから、お友達からよろしくなんて事もないと思う。
……そう確信に近い思いがあるのに反して、水森君は頷いた。
「その日のうちに返事はもらえなかった上に、すごく迷っていたみたいだったが」
「………………」
嘘だ、と言いきれないのが辛かった。返しに絶対「記憶ないのに、どうしてわかる?」が来るから。
でもでも、自分の感覚は正しいと思うんだけどなー。
「まあ、記憶がないのは分かっているから無理しなくていい。その代わりに俺が心配するのは許してほしい。手助けをするのも」
私の内心の葛藤を見越したように、水森君が縋り付くような目をして言った。全否定してきた私の心に、罪悪感めいたものが浮かんだ。捨てられそうなワンコの目は卑怯だと思う。威力を分かってやっているなら、的確過ぎる。
「それに明日は日曜日で病院も休みなんだから、最低でも月曜日に診察してもらうまでは付き添いをした方がいいと思う。一人暮らしで急変したらどうする? 昨夜は親に心配かけたくないって散々言っていたぞ」
看病してくれる人がいないから、それも本当の事だろう。
「だから、彼氏云々はしばらく置いといて構わない。とにかく、看病はさせてほしい。……納得できないなら、俺が保護責任遺棄致死罪に問われないようにでもいい」
ああ、なんか前にそんな凡例で捕まった人がいたね。飲んだ帰りにべろべろの友人を雪が降ってる路上に放置して帰って、凍死した責任を問われたんだっけ?
「水森君、私が死ぬ前提で言ってない?」
「最悪の場合だ。未来の事は誰にもわからない。想定して動くのは当然だろ」
「……分かった。分かりました。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
事務的と言うか、他人行儀に言うのが精一杯の抵抗だった。
「それで、痛みがなければ一か所付き合ってほしい所があるんだが……」
喫茶店を出る前にそんなこと水森君が言って来た。
「うーん。できればまた今度にしてほしい……」
薬を飲んでも鈍く頭は痛いし、正直に言えば家に帰って休みたい。
返事をする前に気が乗らないのが分かっていたのだろう、水森君は「正直に言う」と前置きをして、話し始めた。
「優花の怪我の原因が事件性のあるものなら、病院側も通報の義務があるとあの医者が言っていたんだ。ただ、記憶があいまいだと警察も動いてくれない可能性が高いとも言っていた」
「行かないよ」
階段から落ちたのは事実だろうけど、大げさだ。わざわざそんなことまでする必要なんてない。それこそ、大したことのない案件でいちいち来るなって言われちゃうんじゃないの?
「ああ。そう言うと思った。だから、俺の付き添いをしてほしい」
「水森君の付き添い……?」
「そう。俺が見たことを警察に相談する。多分、そんなに動いてはくれないと思う。けど、警察に相談に行ったって記録だけでも残しておくのは、悪いことじゃない」
「……なんで?」
「事故じゃなくて、事件だから」




