2 偶然? いいえ、故意です。
その後、すぐに水森君に連れられて病院に行くことになった。
記憶喪失と一言で言っても様々な要因があるらしくて、頭を打ったための一時的な混乱で済めばいいけど、頭の中に血腫が出来ていたり、神経がおかしくなっていたりする場合があるので、とにかく精密検査をしてもらうのが第一と脅されて、タクシーに押し込まれたのだ。
タクシーなんて勿体ないって一瞬思ったけど、とてもそんなこと言う余裕もなかった。
「ドラマなんかで、頭を打った人を不用意に動かすなって言っているシーンを見たことがないか? 記憶喪失の原因が本当に外傷性の物なら、脳出血や脳挫傷を起こしている可能性もあるってことだ。今は大した事がないと思っていても、ちょっとした振動でどう変化するか想像が出来ない。安静にしつつ病院へ行こう」
鬼気迫った形相でそんなこと言われれば、こっちだって不安になるじゃない。たんこぶごときで病院に行くのは若干気が引けたんだけど、痛いのは確かだし、死につながる様な重篤な怪我をしている可能性があるなんて言われれば是非もない。
……後から、記憶がなくなる前に病院に行かないってごねたから、何としても連れていくつもりで少々大げさに言った。不安がらせて申し訳なかったって謝られたけど。
とりあえず、私がタクシーに押し込まれた後にした事と言えば、運転手さんに駄目押しの質問をした事だった。
「すみません、今日って何日でしたっけ?」
「今日? 20日だね」
あっさり返されて、本当の本当に、自分の記憶が無くなっているって納得せざるを得なくなっただけだったけどさ。頭は痛くても、未だに現実味がなかった所へ突きつけられた「全くの第三者からの指摘」と言うのは、結構胸に痛かった。
頭が痛いのと、記憶がなくなっている実感でぐったりと俯いていると、水森君と繋いでいた手に力が込められた。ごつい手のぬくもりにちょっと安心を覚えて──。
………………。
……いや。いやいやいや、なにしてる、私!
なに、ナチュラルに手を繋いでんの? おまけに恋人繋ぎときたもんだ。
そもそも、何で一緒にタクシーに乗ってんの? 水森君、あなた何様……って、そうか、自称彼氏様だったんだよね。
これに関しては納得も実感もないので、さりげなく手を振りほどこうとしたら、逃すかとばかりに力を入れられた。おまけにむにゅむにゅと手を弄ばれ、更に親指で手首の内側あたりをそろっと撫でられた。何この痴漢触り。いきなりエロい雰囲気を出さないでほしい。
「つ、付き添いありがとう。病院についたら一人で大丈夫だから」
恥も外聞もなく思いっきり手を引っ張りながら言ったら、真顔で返された。
「何を言ってる。怪我をした彼女を放置して帰れる訳ないだろ。……朝言ったことを覚えてないようだからもう一度言うけど、俺も怪我をしているから付き添いも当然のこと、治療もして貰うんだ」
「怪我?」
そんなこと言ってた──?
「階段から落ちてきた優花を受け止め損ねた。幸いにして利き腕じゃないから日常生活に支障はないけど、ちゃんと看てもらうことに越したことはないだろ」
「怪我をさせちゃってごめんなさい。……覚えていないけど、ありがとう、助けてくれて。……階段から落ちたって、場所はどこ?」
「学校からちょっと離れた山の中に、神社があるのを知っているか?」
「名前ははっきり覚えてないけど、あったね、それなりに大きな神社」
水……何とか神社だったっけ?
「そこの参道に入る手前に階段があるんだが、分かるか? 時間は夜の7時過ぎだった。階段を上ろうとした時に悲鳴が聞こえて、顔を上げたら優花が階段を落ちそうになっている所だった。慌てて走ったんだが……最下段まで落ちるのを辛うじて止められただけだった」
「それでも十分だよ」
場所がいまいち分からないし、階段のどの辺りから落ちたかも分からないけど、そのまま転げ落ちて地面に叩きつけられていたら、もっとひどい怪我になっていた可能性があるって事だもん。今だって、頭の痛みからして結構強くぶつけたみたいだし。
……でも、神社ねぇ。
場所は知っているけど、確か一度お祭りの時に行ったことがあるだけなので、そんなに印象に残っていないのだ。
私の家は県外なので、学校に通うのに一人暮らしをしているんだけど、その借りている部屋からも離れているし、日常通る場所でもない。それに夜の7時って、そんなに遅い時間じゃないけど、山の近くだけに寒い上に人気がなくて真っ暗なんじゃない?
なんで私はそんな時間、そんな所にいたんだろう?
テストが始まる直前に、友達とテストが終わったら打ち上げパーティーをやろうなんて話しはしていて、まだちゃんと計画になってなかったけど、ちょっと早いクリスマスパーティーだね、って言ってたのは覚えてる。
19日がテストの最終日だから、やったとしたらその日だけど、いつも仲良くしている三人が住んでいるのはバラバラなので、皆が使う駅の近くのお店を選ぶつもりでいたのだ。だから神社の近くにお店があるってオチは、多分ないだろう。
昨日が19日って未だに納得ができないし、想像ばっかりだけど、自分の中の昨日でも現実の昨日でも自分の感覚や友達の性格が突然変わるわけじゃないし、理由がまったく見当がつかない。
「水森君と約束していて、神社に行ったのかな?」
彼氏……と言い張る水森君を信じれば不自然じゃないよね。記憶をなくしている以上に、本当に全く絶対信じられない事柄ではあるけど。
「……いいや、約束はしていなかった」
「じゃあ、水森君は何しに神社に行ったの? 参拝する様な時間じゃないでしょ」
「あの神社は水森神社っていうんだよ。名前から分かるだろうけど、従兄弟の家なんだ。食事に招待されていて、行く途中だった」
「へー、そうなんだ」
そうだ、そうだ、そうだった。うん、水森神社だった。
水森って佐藤・鈴木ほど良くある名前じゃないけど、珍名さんって程でもないから、今まで気が付かなかった。そういう繋がりだったんだね。……じゃあ、水森君の登場は特に不自然じゃない、と。
「そうすると……ますます私が何をしていたのか分からない」
その一点に尽きる。記憶を無くした間に、何があったんだろう?
「何だか分からないけど、神社の近くに一人で行って? うっかり階段の近くで足を滑らせた。そんな感じ?」
「いや──」
私の推測に、水森君が何か返そうとしたところでタクシーが病院に到着した。
続きを聞きたかったけど、運転手さんが聞き耳を立てているのが分かったから、大人しくタクシーを降りる。どうせ診察を待っている間に聞けるだろうしね。
タクシー代は当然のように水森君が払ってくれたので、後で絶対返そうと思いながら、診察を申し込んだ。
──そして。
問診票書くまでしっかり手を繋いだままだったのに気が付かなかったというのが、私の黒歴史に刻まれたのだった。
初診だとやたら待たされるものだけど、水森君が私の代わりに症状を細かく説明したら、急患扱いになったらしい。看護師さんが患部を確認したり、簡単に問診されたりしているうちにすぐにCTを撮って来てくださいと言われて、CT室へ。
撮り終わった頃に今度は水森君が怪我をしたという腕のレントゲンを撮りに行ったけど、結構あからさまに看護師さん達が入れ替わり立ち代わりお世話をしている。……白衣のお姉さま達にもモテモテだね、水森君。そのせいで、聞きたいことが聞けないのはどうしてくれるんでしょうね。
で、ちやほやされていた時に、私と一緒に診察してくれる様に頼んだらしくて、名前が呼ばれた時にちゃっかりついて来た。
「CTを見る限り、頭の中が出血したような様子はなさそうだね」
お爺さんのお医者さんに最初にそう言われて、ほっと胸をなでおろした。
ぶつけた部分も出血していないので、「ハゲにはならないよ。良かったね」なんて言われたけど、ここは笑うところ?
でも打撲自体はそこそこ酷いみたいで、ちょびっと脳が腫れているらしい。……脳もぶつけたときは腫れるんだね。
一晩中氷で冷やしていたので「ちょびっと」で済んでいるけど、脳が腫れると、頭蓋骨の大きさそのものは変わらないから、脳幹やら神経やらいろんな部分が圧迫されて、体が麻痺するとかの後遺症が出る場合があるんだって。頭蓋骨にひびが入ったとか、骨折をする様なもっと酷い状態だったら、即入院して腫れを抑えるためにがんがん冷やすらしい。勿論、絶対安静の重症。
今回はそこまでする必要がない程度にだから良いけど、
「頭の怪我は遅れて症状が出ることがままあるから、ちゃんと病院に来ないとだめだよ」
と怒られた。
「はい、すみません」
頭を下げると血も一緒に下がるせいか微妙に痛いので、頭は下げないで謝罪を口にすると、記憶に関することをいくつか聞かれながら触診やら体の動きに異常がないかを確認された。
私は記憶がない期間が短いので、色々な面ですごく状態がいいらしい。無くした記憶が数年から数十年という事もあるらしく、その場合はまともな社会生活が送れなくなるからなんだって。
例えば小学生くらいまで遡って記憶を無くしていたら、そもそも学校に通えなくなるからと言われた。確かに小学生が大学レベルの授業について行くのは無理だよね。そんなことにならなくてつくづく良かった。記憶喪失なんてフィクションの中だけにしかないと思ったけど、実際にあるにはあるんだね。
記憶がない時に何をやっていたのかが気持ち悪いけど、少なくとも生活に支障はない。二週間ちょっとの間の記憶だし、幸いなことに、忘れている間に何事もなく学校のテストも終えているようだ。どんな手ごたえだったか覚えていないのでちょっと不安だけど、さすがに留年するほど成績は悪くなかった……と思いたい。
……うん。大丈夫。……多分。
忘れちゃったのは如何ともしがたいけど、ごく短い間の事で済んだのはラッキーだったんだ。頭が痛いけど生活に支障はないし、こればっかりは仕方がないよね?
そんな風に自分を納得させると、ちょっと落ち着いた。
この期に及んでも記憶喪失した実感は湧かなくて、なんか夢の中にいるみたいなふわふわした感じがするけど、まあ、これももう少しすれば落ち着くのかな?
そう自分に言い聞かせている間にも、お医者さんの診断は続く。
「運動能力も問題なさそうだし、頭の怪我は酷くはないけど、記憶喪失の原因がこの脳の腫れからくるという可能性は捨てきれないな。人間の記憶は海馬っていうところに格納されているんだけどね」
お医者さんはパソコンのマウスをぐりぐりして頭の輪切り画像を私に見せると、この辺が海馬だよと、ボールペンで指した。更に腫れている部分はこの辺、と画面の下の方、場所としては後頭部付近をぐるりと円で囲う。
「とにかく頭を氷枕とか氷嚢とかで冷やして、脳の腫れが自然に引けば、うまく情報が引き出せるようになるかもしれない。……正直、これだけ医療が進んでも分からない事は一杯あるから」
とりあえず様子見かな? とお医者さんは気軽に言った。まあ、そうだよね。
自分が想像した事とさほど遠くない説明をされた……その時。
「心因性、ってことはないんでしょうか?」
それまでは黙っていた水森君が、横からお医者さんに問いかけた。
「……彼氏君は、何か心当たりがあるのかい?」
彼氏じゃないです、と言いかけた私を遮って、水森君は言った。
「優花を受け止めた時、階段の上に誰か……それも顔見知りの誰かが居たみたいで、誰かの名前を呟いた後、『どうして』と酷く狼狽えていたんです」
そこで一旦切った彼は、驚いて固まったままの私の顔を一瞬見た後、またお医者さんの方に向き直った。
「俺自身も優花を階段の方に突き飛ばしている影を見ました。1回だけなら過失かもしれないですけど、その影はダメ押しとばかりに2回押していたんです。……残念ながら、街灯の光でちょうど逆光だったので誰だか判別が付きませんでした」
「……2回突き飛ばしたってことは完全に故意だな。それが本当に彼女さんの親しい友達かなにかだったら、心因性というのもあり得ない話ではないね。脳と言うのはフレキシブルにできていて、覚えていたくないことはシャットアウトする機能も付いているから」




