第八回 情欲(後編)
伊岐須を出た雷蔵は、穂波郡の若菜村に向かった。
穂波は伊岐須の南、そして内住の北と、ちょうど挟まれており、建花寺村への帰り道でもある。
この郡は、内住の次に浪人の姿が少ない。百姓の表情も、伊岐須に比べて朗らかに見える。統治を司る藤河雅楽が、有能な代官なのだ。その力量は父も認めるほどで、
「雅楽殿は、家老になっても不思議ではない御仁だ。代官として、お前も手本としろ」
と、言っていた事がある。
その一言で雅楽という男が気になり、雷蔵はその施政を調べた事がある。
鷹揚とした施政と、学問の奨励。それが、この穂波郡の特色だと、雷蔵は感じた。万事、形式に拘る父の施政とは真逆だが、百姓の安寧という点では、穂波も内住も同じ所に辿り着いている。
ただ、気になる噂もある。この雅楽が勤王派ではないか? という、疑いだ。かつて傍に仕えていた者の多くが、勤王の志士となり致仕した事実があるのだ。武富陣内も雅楽の筆頭与力であったし、館林簡陽に至っては帷幄の臣であった。
それについて、雷蔵は一度だけ父に訊いた。すると父は、
「噂というものに惑わされるな」
とだけ、答えた。勤王派の疑いは当然知っているが、証拠が無いという事なのだろう。
若菜村に入った。
相変わらず、牧歌的な村だ。百姓も雷蔵を見ては、丁寧に頭を下げる。
村外れにある草庵に訪いを入れたが、返事はなかった。
突然の訪問である。あの夜以降は、城下の吉原町にある出会茶屋で逢瀬を重ねていた。寡婦の家に出入りする事は、流石に憚られたのだ。村人の目もある。
しかし、今日は訪ねた。そうしなければ、頭がどうにかなりそうだった。我儘な男だと自己嫌悪するが、それでも眞鶴を抱きたかった。
(手習いではないはずだが)
草庵に来る前に、慧法寺を覗いて確認はしている。
暫く待っても返事が無かったので、雷蔵は無粋と思いながらも裏庭に回った。
眞鶴がいた。文机に向かって何かを書いている。その表情は、どこか熱を帯びていた。それが美しいと思うと同時に、激しい疼きを覚えた。
「恋文ですか?」
雷蔵は平静を装い、声を掛けた。
「もう、雷蔵様」
驚いた眞鶴は、書付を仕舞いながら頬を膨らませた。年甲斐もないその仕草は、淑やかな女性を可憐な少女へと変えるものがあった。
「すみません、声を掛けたのですが、返事が無いもので」
「しかし、これはいけませんよ。わたくしは気にしませんが、人によっては失礼になります」
眞鶴は、手習いの子どもを叱る調子で言った。雷蔵は、もう一度素直に詫びた。
ただ、それが嬉しくもあった。叱られているのに、嬉しい。胸に去来する不思議な感覚に、雷蔵は思わず笑んでいた。
「何を書いていたのですか?」。
「また叱られたいのですか? そうした質問は野暮というものですよ」
とは言うものの、眞鶴は呆れ混じりの笑みだった。
「野暮ですか。確かに私は、そうした機微に疎い」
「そうですわね。雷蔵様は、何処か浮世離れしていますわ」
「私は藩校にも行かず、全ての学問も剣術も建花寺村で学びました。当然、友もおりません。それが原因ででしょう」
「本当、浮世離れしていらっしゃいます」
その自覚はある。だからとて、今更この性格はどうする事も出来ない。御手先役として、代官として、やるべき事をやればいいと諦めている。
「しかし、知りたいですね。眞鶴殿がどなたに手紙を書いているか」
「亡き夫の義兄上様ですわ。文が届いたので、そのお返事を、と。義兄上様は、よく気遣ってくれるのですよ」
「なるほど」
「恋文かと思いました?」
「他の男への恋文であれば、嫌だとは考えました」
縁側に腰掛けた雷蔵は、恥ずかしくなり鬢を掻いた。
「長くお会いしていない、そんな気がいたします」
眞鶴が、雷蔵に寄り掛かってきた。
「わたくしに飽きたかと」
「私が? まさか、眞鶴殿に飽きるなど」
「冗談ですわ」
不意に唇が重なってきた。柔らかい、舌の感触。そのまま、奥の部屋へとなだれ込んだ。
「血の臭い」
愛撫を重ねながら、眞鶴が囁く。雷蔵は、気のせいだと答えた。
「お慕いしております」
溜まっていたものが、一気に放出するかのようなひと時だった。身体を乱暴に扱っている。その自覚はあったが、湧き立つ欲情に歯止めが効かない。
(愛しい)
眞鶴の熟れた肉体に溺れながら、何度もそう思った。
(放したくはない。渡したくもない、誰にも)
しかし、眞鶴との関係に将来が無い事も、その一方で承知していた。身分が違うのだ。どう足掻いても、彼女を妻に迎える事は不可能である。父がまず許してくれない。
(正室は無理でも、妾には出来る)
しかし、それは身勝手な欲望だ。眞鶴の気持ちを考えない、侮辱にもなる。
「似ています」
情事を終えた後、眞鶴が何の脈絡もなく言った。
褥の上で、汗ばんだ身体を二人並んで投げ出していた。
「誰とですか?」
「夫と」
「私がですか」
「雰囲気とか、横顔とか。夫も俗世に疎いお人でした」
「どのような人だったのですか?」
「自分の気持ちや考えを、滅多に口にしない人でした。愛されていると思えないほどに。でも、死んだ後に、あの人が何を考え、何を望んでいたのか知りました」
それ以上、眞鶴は何も言わなかった。
翌朝、また起き抜けに交わり、朝餉を摂って村を出た。
別れ際に、また暫く会えないと伝えた。これから一旦屋敷に戻り、明日からは新たな郡で浪人狩りをする予定にしているのだ。




